織田信忠(織田信長嫡男)は有能な後継者だった!正室を迎えなかったのは本当?

織田信忠は、織田信長の嫡男として知られています。昔は暗愚な武将との評価がありましたが、現在は有能な武将だったという評価に変わってきています。今回は織田信忠の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

織田信忠の基本情報

織田信忠の人生

できごと

元服に時期は諸説あり

織田信忠は、織田信長の嫡男として生まれました。早くから跡継ぎとしての教育を受けていたとされています。生母は織田信長の側室:吉乃ですが、濃姫(帰蝶、織田信長の正室)の養子となっていた記録も残っていますが、育ての母が濃姫だったのかは定かではありません。

元服後は勘九郎信重(のぶしげ)と名乗りますが、後に信忠と改めています。1567年、武田信玄の六女:松姫と婚約が成立しています。これは当時、同盟関係にあったものをさらに強化した縁組でしたが、後に織田・武田両家が対立(1572年から敵対)したため、2人は結婚していません。

1572年1月に織田信忠が元服したと言われていますが、名前が登場するのは翌年の1573年に北近江の浅井攻めの時でした。元服時期についても17歳~19歳ころと当時としては遅めでだったとも言われています。

織田家の後継者に

1575年に長篠の戦いに勝利した織田家ですが、その勢いで美濃東部の岩村城に侵攻し、織田信忠は城を開城させるなどの手柄を立てています。翌年1576年に、父:織田信長から、家督と尾張・美濃の一部を譲られ、岐阜城主となりました。しかし、実権は織田信長が持ち続けたため、織田方面軍の軍団長の1人だった印象が強いです。

1577年の松永久秀討伐戦では、全軍の総大将となり、信貴山城を攻略しています(信貴山城の戦い)。このころより、織田信長に変わり、総帥として全軍の指揮を執るようになったと言われています。以後も各地を転戦し、1580年には、領地が美濃・尾張2ヵ国に拡大しています。

本能寺の変で自害

1582年の甲州征伐では、総大将として武田領へ侵攻。高遠城攻めでは、自ら陣頭に立ち、柵を破り塀の上に登って、配下に指示をしていたとも言われています。織田信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼を自害に追い込み、武田家を滅亡させています。その後、甲府に入場した織田信長から戦功を評価され、「天下の儀も御与奪(天下を譲る)」という意思表示をされています。

論功行賞で、与力武将の河尻秀隆、森長可、毛利長秀にそれぞれ旧武田領の甲斐・信濃が割り当てられたため、影響力は尾張・美濃・信濃・甲斐の4ヵ国に拡大しています。

同年6月2日、本能寺の変時には、妙覚寺に滞在しており、本能寺が明智軍光秀に襲撃された時には、救援に向かいました。しかし、織田信長が自害したとの知らせを受け、二条御所に籠城し、明智軍と戦いましたが、及ばず自害しています(享年:26歳)。

織田信忠の人柄・人物像

織田信忠の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

幼名:奇妙丸(きみょうまる)

生まれた時、顔が奇妙だったことから、父:織田信長は、「奇妙丸」という幼名をつけたと言われています。弟の織田信雄は「茶筅丸」、織田信孝は「三七丸」という幼名をつけられています。茶筅丸は、髪を結ったら茶筅(茶の湯でお茶を点てるときに使う道具)になりそうだったから、三七丸は三月7日に生まれたからということに由来しているそうです。

織田信長と言えば、家臣にあだ名をつけていたことが知られています。豊臣秀吉が「サル」・「ハゲねずみ」、明智光秀が「キンカン頭」、柴田勝家が「ゴン」、前田利家が「イヌ」などがあります。自分の子供たちの名前も、似たような感覚でつけていたのかもしれません。

織田信忠は幼い頃から、跡継ぎとしての教育を受けたいたこともあり、他の兄弟との扱いに差があったとも言われています。これは、織田信長自身が弟:織田信勝(信行)と家督争いをしていることから、家督争いを避けるために、嫡男とそれ以外で区別していた見方があります。

後継者としては十分な能力を持っていた

織田信忠は、暗愚な武将だったと言われいましたが、最近では後継者としては十分な能力を持っていたという評価に変わってきています。これは、徳川家康の長男:松平信康が、織田信忠よりも優れた武将であったことから、そのことを危惧した織田信長が、切腹させたという見方に由来しています。実際のところ、松平信康が優秀で織田信忠が暗愚だったことえを、証明するものは残っていません。

織田信忠は政務や軍務を無難にこなしていることから、後継者としては申し分なかったという見方が主流になっています。

織田信忠の名言・エピソード

織田信忠の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

織田信長は辛口評価だった

織田家家臣は、織田信忠を優れた武将と認めていたところがありましたが、織田信長は「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と意外にも辛口評価でした。しかし、1582年の甲州征伐での手際の良さから、織田信忠の才能を認めるようになったと言われています。

また、織田信忠は父に忠実なイメージがありますが、播磨三木城攻めでは作戦を巡って織田信長に抗議していたという話もあります。また、本能寺の変の際に織田信長は当初、「城介(信忠のこと)が別心か」と言い、織田信忠が謀反を起こしたと思っていたという説がありますが、これについては信憑性が薄いです。

生きていたら織田家の没落はなかった?

本能寺の変後は、織田家は豊臣秀吉によって無力化していきました。実際のところは豊臣秀吉に乗っ取られた格好に見えます。しかし、武将として有能だった織田信忠が生きていたら、織田家が無力化されることもなかったかもしれません。織田家の没落の原因は織田信長・信忠が同時に亡くなってしまったことだと、後に徳川家康も触れています。

そのため、後に徳川家康は自身の拠点を駿府(静岡県)に移し、嫡男:徳川秀忠を江戸に置き、同時に襲われるということを防いだとされています。

フィクションにおける織田信忠

フィクションにおける織田信忠について、紹介したいと思います。

信長の野望における織田信忠

信長の野望における能力値ですが、統率:82、武勇:75、知略:61、政治:75となっています。実は信長の野望の初期のころはもっと評価が低かったですが、評価が見直されて能力値も上がってきたというのが率直な感想です。

ドラマにおける織田信忠

織田信忠は、ドラマにはあまり登場しません。やはり、父:織田信長の印象が強すぎることが原因と思われます。これは如何ともしがたいかもしれません。

織田信忠は正室を迎えなかった

織田信忠の婚約者だった松姫ですが、武田家滅亡後に織田信忠から迎えの使者が来たそうです。しかし、松姫が織田信忠に会いに行く途中で、本能寺の変が起き、織田信忠は亡くなっています。その後、松姫は出家し、織田信忠と武田一族の冥福を祈ったと言われています。

松姫は八王子(東京都)で尼として生活し、後の会津藩主:保科正之(徳川秀忠の息子)を育てるなど武田家旧臣の心の支えだったと言われています。織田信忠も武田家と手切れになった後も、松姫のことを考えて正室を迎えなかったとも言われています。織田信忠が本能寺の変で亡くなっていなければ、夫婦になった2人が見れていたかもしれません。