織田信長は桶狭間の戦いなどを制したカリスマ武将!茶器を愛した一面も?

織田信長は豊臣秀吉・徳川家康と並ぶ三英傑の一人であり、その知名度は数多の戦国武将の中でも1・2位を争う程高く、桶狭間の戦いや長篠の戦いなど、数々の歴史的転換点となる戦いを制して天下人への道を駆け上った武将です。

この記事では織田信長の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。織田信長がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける織田信長など、様々な視点から解説してきます。

織田信長の基本情報

織田信長(おだのぶなが)は尾張国出身で、戦国時代〜安土桃山時代を生きた武将です。

足利義昭を擁立して上洛を果たし、数々の戦いを繰り広げ天下人への道を着実に歩みましたが、あと一歩のところで本能寺の変に倒れました。

織田信長の人生

できごと

織田宗家との争い

織田信長は、1534年、織田信秀の三男として誕生します。三男でしたが、正室・土田御前の産んだ子であったため、嫡男の扱いを受けました。

織田信長の生まれた織田家は「弾正忠家」と呼ばれ、「大和守家(清洲織田家)」の分家・家臣であって、織田宗家ではありませんでした。

父・織田信秀は今川氏や斎藤氏などの周辺諸将と争ってその勢力を拡大させ、大和守家よりも実施的な権力を誇っていましたが、あくまでもその臣従関係は守られていました。

嫡男であった織田信長は早くから那古野城を与えられ、1547年には初陣を飾ります。1548年(1549年とも)には、争いを繰り返していた斎藤道三との和睦のため、その娘の濃姫を正室とし、強力な後ろ盾を得ました。

1552年に織田信秀が死去したため、弾正忠家の家督を相続しましたが、直後、弾正忠家・大和守家どちらとも敵対するようになります。

織田信長は幼い頃から奇妙な行動が多く、「大うつけ者」としての評判を轟かせていました。一方、同じく正室・土田御前を母とする同母弟・織田信勝は品行方正であり、柴田勝家らの重臣も彼に従っていました。一説では、織田信秀の最晩年に、今川義元との和睦に織田信長が反対したことから、織田信長の後継者としての立場に疑問が呈されるようになったとも言われます。

まず、主家・大和守家との対立は1552年に萱津の戦いへと発展します。織田信長はこの戦いに勝利して清洲城を掌握したものの、これ以降も両者の敵対関係が続くこととなりました。1554年、大和守家の実権を握っていた坂井大膳が尾張国守護の斯波義統を殺害すると、その嫡男・斯波義銀が織田信長を頼って落ち延びてきます。

「守護・斯波氏の仇を取る」という大義名分を手に入れた織田信長は、同年安食の戦いで大和守家に勝利し、ここに大和守家は滅亡しました。

織田信勝との戦い

残された課題は、同じ弾正忠家であり同母弟・織田信勝との対立でした。

1556年の長良川の戦いで舅で最大の後ろ盾であった斎藤道三が討死すると、これをチャンスと見た柴田勝家らの重臣が、織田信勝を擁立すべく挙兵しました。こうして稲生の戦いとなりますが、この時織田信長の手勢はわずか700余であり、苦戦を強いられることとなります。

この戦いでは、森蘭丸の父・森可成の奮闘があり、また、身内同士の戦いであったため、織田信長が大声で怒鳴ると、それを恐れた柴田軍が逃げ出したという逸話もあります。こうして最終的に勝利した織田信長でしたが、戦後、土田御前の説得により織田信勝と柴田勝家は罪を許されました。

しかし、1558年に織田信勝が再び謀反を画策します。柴田勝家が事前に密告して実行には移されませんでしたが、堪忍袋の緒が切れた織田信長は織田信勝を誅殺し、弾正忠家内での争いはこれによって収束しました。

同年、同じく織田家分家であった「伊勢守家」の織田信賢も攻め取っており(浮野の戦い)、ここに織田家の統一を果たした織田信長は、1559年に将軍・足利義輝に謁見して尾張国統一を報告、以降織田家代表として、天下への道を歩むこととなります。

桶狭間の戦いから上洛を果たすまで

1560年、今川義元が大軍を率いて尾張国へと侵攻を開始します。(桶狭間の戦い)この報を受けた織田信長は、清洲城を出発し、熱田神宮にて戦勝祈願を行いました。

今川軍の先鋒隊によって丸根砦・鷲津砦と奪われ、序戦は完全に押されていた織田軍でしたが、「石水混じり(=ヒョウが降っていた)」の悪天を利用して奇襲をかけて今川軍を混乱させ、大将・今川義元の首を討ち取ります。

これによって戦意を喪失した今川軍は総崩れとなり、織田軍が勝利しました。この戦いによって東海の覇者であった今川氏の勢力は急速に没落し、それと変わった織田氏の勢力が拡大、その名を全国に知らしめることとなりました。今川氏の人質となっていた徳川家康は独立を果たし、織田家との同盟を結びました。

桶狭間の戦いと時を同じくして、織田信長は斎藤道三亡き後の斎藤氏とも戦いを繰り返しており、その牽制のため、1567年頃に近江国・浅井長政と同盟を締結します。

中央では1565年の永禄の変で将軍・足利義輝が三好三人衆・松永久秀によって殺害され、弟の足利義昭は京都を離れて避難し、避難先から各地の戦国大名に対して、自らを奉じて上洛するように要請する書状を発していました。

書状を受け取った織田信長は足利義昭上洛に協力することを約束します。これを受けた足利義昭は、後顧の憂を無くすために斎藤氏と織田氏の和睦を取り付けますが、1566年に織田信長がこれを破って河野島の戦いを起こした上、これに大敗すると、面目を潰された足利義昭は織田信長との連携を躊躇するようになりました。

しかし、1567年の稲葉山城の戦いで勝利して斎藤氏を滅ぼすと、仲介役を務めていた細川藤孝・明智光秀の説得を受けた足利義昭は再び織田信長を頼り、翌1568年、ついに織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしたのでした。

なお、この上洛に対しては反対勢力の抗戦も激しく、六角義堅との間に観音寺の戦いや、1569年には足利義昭の仮御所であった本圀寺を三好軍によって襲撃される事件(本圀寺の変)が発生しています。

一向一揆衆との10年戦争

(年代は前後しますが、ここでまとめて一向一揆衆との戦いの経過について説明します。)

1570年、三好三人衆と結んでいた石山本願寺は、「信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申して付けて随分なる扱ひ」として、野田城・福島城の戦いを起こします。これは、以降10年に及ぶ石山戦争の始まりとなりました。

同年、同盟を結んでいた浅井氏が織田信長を裏切っていますが、この戦いに朝倉氏・浅井氏の勢力が合流し、一進一退の攻防戦となりました。

時を同じくして、伊勢国で長島一向一揆が起こります。伊勢国は、織田信長が1569年の大河内城の戦いで伊勢国主・北畠氏に勝利し、その支配権を掌握していました。この地の一向一揆衆と伊勢国豪族達が結びつき、大規模な反乱へと発展しました。1571年、織田信長が出兵を決定して長島侵攻が開始し、1574年まで続けられました。

1574年の長島侵攻では、水陸から一向一揆衆を包囲した上で一斉射撃を行い、劣勢へと追い込ます。そして長島門徒2万人を焼き討ちにより全滅させました。同年には朝倉家残党と結んだ一向一揆衆が越前一向一揆が発生させており、一時は一向一揆衆が勝利しますが、翌1545年に鎮圧されました。

1575年の高屋城の戦いでも焼き討ちを行って勝利し、石山本願寺と一時的な和睦を結びました。しかし、この和睦は間も無く破綻し、1576年に天王寺砦の戦いが勃発します。精強気鋭の鉄砲隊・紀州雑賀衆が一向一揆衆の味方につき、苦戦を強いられますが、最終的には織田軍の勝利でこの戦いが終わりました。

この戦いのあと、上杉謙信や毛利輝元が反織田信長の姿勢を強化し、同年、毛利輝元の援軍を受けた石山本願寺勢との間で、第一次木津川口の戦いが起こります。村上水軍の活躍で知られるこの戦いで織田軍は大敗を喫し、この敗北を受けて、織田信長は水軍大将・九鬼嘉隆に対し「燃えない船」の造船を命じています。

結果、1578年の第二次木津川口の戦いではこの「燃えない船」=鉄甲船が活躍して先の敗北の屈辱を晴らしました。

なお、一向一揆衆の主力となっていた雑賀衆に対しては、1577年に紀州征伐を行なっており、10万もの大軍を派遣して攻撃を仕掛け、ゲリラ戦を繰り広げた後に和睦となりました。

そして1580年、正親町天皇の勅命を受けた本願寺・顕如は、織田信長の使者として来た関白・近衛前久の仲介もあり、ついに織田家との和睦を結びます。その後、顕如は石山を去りますが、跡を継いだ教如が抵抗を続けます。しかし、以前のような勢力は無く、ここに10年に及んだ一向一揆衆との戦い・石山合戦が収束しました。

朝倉家・浅井家・武田家との戦いと足利義昭の追放

1570年、織田信長が足利義昭の行動を制限する「殿中御掟」を発令すると、両者の関係は悪化していきます。足利義昭は、織田信長への対抗として各地の武将との協調を企てるようになっていきました。

同年、織田信長からの2度に渡る上洛命令を無視した朝倉義景に対し、これを征伐するために越前国へと侵攻します。朝倉家と親しい関係にあった浅井長政は、織田信長と同盟を結んだ時、「朝倉家への不可侵」を約束させていましたが、それを反故にされたのでした。

これを受け、浅井長政は織田信長を裏切り、朝倉軍へと加担、金ヶ崎の戦いとなります。浅井長政の離反により挟み撃ちにあった織田軍は大敗し、人生最大の危機であり「金ヶ崎の退き口」と言われる退却戦を行い、命からがら京都へと帰還しました。

兵を立て直した織田信長は再び出陣して姉川の戦いとなり、後に「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息継ぎあへぬ風情なり」と評される程の激戦を繰り広げます。織田軍はこの戦いを制しますが、朝倉・浅井の残党は、比叡山へと後退しました。

そして翌1571年、朝倉・浅井軍をかくまった咎により織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを行いました。

一方、武田家との関係においては、織田信長は武田信玄と上杉謙信の調停を取り持ち、武田勝頼の正室に自らの養女を据えるなど、良好な関係を保っていました。しかし、織田信長と同盟を結んでいた徳川家康に対し武田家が無断で侵攻を開始すると、両者の関係は破綻します。

そして二俣城の戦い・三方ヶ原の戦いが勃発し、いずれの戦いも最強と呼ばれた武田の騎馬隊の前に徳川・織田連合が大敗を喫しました。

1573年の野田城の戦いでも武田軍に破れますが、この戦いの直後に武田信玄が死去します。武田信玄は朝倉氏・浅井氏はじめ各地の武将や一向一揆衆に働きかけて織田信長包囲網を形成していましたが、この巨星が倒れたことで包囲網は急速に弱体化しました。

この武田信玄の動きの裏にいたのが、織田信長と対立を深めていた足利義昭でした。足利義昭は槇島城へと立て籠り、槇島城の戦いとなりますが、織田信長が勝利して京都を追放されました。これによって室町幕府は滅亡し、細川藤孝ら多くの幕府旧臣を織田家臣団に組み込むことに成功しました。

同年、一乗谷の戦いで朝倉氏を、小谷城の戦いで浅井氏を滅亡させており、越前国・近江国を含む近畿一体をその手中に収めました。

武田家との争いは続いており、1574年、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が武田氏より徳川氏の家臣となった奥平貞昌征伐の為に出兵すると、織田信長は徳川軍に援軍を派遣し、長篠の戦いが勃発します。

織田信長は3千丁の鉄砲を用意して兵に配布し、「三段撃ち」と呼ばれる新戦法を繰り広げ、武田の騎馬隊を次々に撃ち落としました。また兵力数も織田・徳川軍が圧倒しており、この戦いは織田・徳川軍の大勝で幕を閉じました。

度重なる謀反 三木合戦・有岡城の戦い

朝倉・浅井・武田と破り勢いづいた織田信長は、朝廷より1575年に権大納言、右近衛大将の地位を与えられ、「天下人」としての立場を事実上公認されます。1576年に本拠地として安土城の築城も開始し、全国制覇の達成は目前までせまっていました。

織田信長は1575年から丹後国侵攻を開始しますが、赤井直正らの奮闘により中々戦功が上がらず、以降智将・明智光秀をもってしても丹後国平定は5年の月日を要することになります。

この丹後の地で反織田勢力を討伐する重要な役割を担っていたのが、丹後国八上城主・波多野秀治でした。しかし、1576年に波多野秀治は反旗を翻し、赤井直正に従って黒井城の戦いに参戦し、明智軍は敗北します。

織田信長はこれに激怒し、八上城を攻撃させ、1579年に波多野秀治を降伏させると磔にして処刑しました。

さらに波多野秀治の娘を正室としていた播磨国の別所長治も、その間の1578年に謀反を起こし、毛利氏と結んだ別所氏との間に三木合戦が勃発します。この戦いは2年に及ぶ激戦となりました。

別所長治は三木城に籠城し、海辺にあったこの城に対し毛利氏が兵糧を運び入れていました。織田信長の命を受けて総大将となていた羽柴秀吉は、兵糧輸送の中間地であった淡河城を落とすなど、兵糧の輸送を阻止していきます。

別所軍についていた宇喜多氏の裏切りにより毛利氏の支援も不可能となると、三木城の兵糧はついに底をつき、「三木の干殺し」と称される凄惨な兵糧攻めが行われました。

1580年、ついに別所長治が切腹し、三木城が開場されると、織田信長は間も無く播磨国一円を掌握しました。

しかし、三木合戦が勃発した約2ヶ月後には、一向一揆衆との戦いの主力を担っていた荒木村重も謀反を起こしています。(有岡城の戦い)

当時、荒木村重は三木合戦へと従軍していましたが、突如戦線を離脱して有岡城へと帰還してしまいます。縁戚関係のあった明智光秀や荒木村重に恩顧があった高山右近らが説得を行いますが失敗し、織田信長は約5万の大軍を有岡城へと派遣してこれを制圧しました。

本能寺の変前後

こうして家臣達の謀反を乗り越えると共に、石山本願寺との戦いを収束させ、丹後国平定も完了させた織田信長は、残す課題を長篠の戦い後もなお勢力を有していた甲斐国武田家、中国地方の覇者毛利家、四国地方の長宗我部家と定めます。

1582年2月、徳川氏・北条氏と結んで武田勝頼の領地へと侵攻を開始し、高遠城の戦い・天目山の戦いと連戦していずれも勝利します。天目山の戦いの後、武田勝頼は自害し、ついに武田家が滅亡しました。

武田氏の滅亡は奥羽の大名たちにも衝撃を与え、蘆名氏は織田信長に「無二の忠誠」を誓い、伊達家の側近で外交を担当していた遠藤基信が織田信長の天下統一のために奔走することを呼びかけるなど、東北の大名達も恭順の姿勢を示しました。

織田信長はこの頃長宗我部元親攻略を決定し、軍勢の準備にとりかかります。長宗我部家との外交は従来明智光秀が担当しており、一説ではこのことに不満をもったことが本能寺の変の一因になったとも言われます。(長曾我部元親黒幕説)

さらに羽柴秀吉には毛利氏の備中高松城攻略を命じますが、毛利氏の抵抗は激しく、明智光秀に援軍に向かうよう支持します。そして織田信長自らも中国遠征の出兵準備をするため、森蘭丸らの小姪衆のみを連れ、京都・本能寺へと逗留しました。

京都滞在は5日間を予定しており、近衛前久らの公卿を招いて茶会を催すなど、穏やかな時間を過ごしていました。しかし、6月2日未明、中国地方に向かっていたはずの明智光秀率いる約1万3千の軍勢が突如本能寺に討ち入ってきます。

しばらく奮闘した織田信長でしたが、圧倒的大軍の前に、ついにここまでと悟って自ら火を放ち、燃え盛る本能寺の奥深くに籠ってここで切腹しました。49歳でした。織田信長の遺体はその後も見つからず、明智光秀を狼狽させました。

なお、明智光秀の謀反の理由は、朝廷黒幕説、長宗我部黒幕説、怨恨説など様々議論されていますが、その理由はいまだはっきりとしていません。

織田信長の人柄・人物像

織田信長の人柄や人物像について説明します。

ルイス・フロイスによる評価

織田信長に仕えた宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、織田信長の人物像・性格について詳細な記録を残しています。

「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(キャプテン=司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であった」

「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。」

「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。」

「非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。」

「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。」

「彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。」

残虐性

織田信長は「鳴かぬなら 殺してしまおう ホトトギス」の句に表されているように、織田信長は高い残虐性を持っていた武将として知られています。様々な戦いでその残虐性を発揮している織田信長ですが、特に代表とされるものが比叡山延暦寺の焼き討ちです。

比叡山焼き討ちの理由としては、朝倉・浅井軍に加担したから、当時の比叡山は腐敗しきっていたからなどの理由があり、その犠牲者の数などにも議論があるところではありますが、ここでは『言継卿記』や『信長公記』などにおけるその残虐性が伺える記述を紹介します。

織田信長は「前代未聞の戦である」と焼き討ちを静止しようとした家臣の諫言も聞かずにこれを決定し、また攻撃を受けた比叡山が中止を嘆願しても聞き入れず、

「零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、

山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、

信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」とあるように、僧侶・学僧は勿論のこと、児童・女性までも悉く殺害しました。

その犠牲者の数は3千から4千にも及ぶと言われています。

また、有岡城の戦いの後の処置も苛烈を極めており、この謀反の首謀者・荒木村重は逃亡に成功していますが、荒木一族と重臣36名が京中引き回しの上に六条河原で首を討たれ、その中には懐妊中であった女性や、わずか14歳の少年もいました。

さらに家臣とその妻子122名も磔として鉄砲で撃ち殺し、それ以外の男性124名、女性388名を農家に詰め込み、生きたまま火を放って殺害しています。1581年から1582年には荒木村重の残党を匿ったとして高野山を包囲し、131名の高僧と宗徒を殺害しました。

山中の猿のエピソードの人情味

高い残虐性を有した織田信長ですが、一方で庶民や弱者には慈悲深さを持ち合わせていたようで、そのことが伺えるエピソードが、「山中の猿」です。

美濃国と近江国の国境近くの山中の村に、「山中の猿」と呼ばれる障害者が乞食として暮らしていました。岐阜城と京都を度々往来していた織田信長はこの様子を見て、哀れに思っていました。

そこで、1575年、織田信長は木綿20反を山中の猿に与えた上、村民達を呼びあつめ「この木綿を金に変え、この者に小屋を建てて、この者が飢えないように毎年麦や米を施すように」と命じました。

集められた村民は、その慈悲深さに感涙し、その指示に従ったといいます。

この他、数々の文献に織田信長が身分に捉われず庶民と仲睦まじく交流した記録が残っており、庶民と共に踊ったり、その汗を拭ってやったり、工事の音頭をとったりしたと伝わっています。

また、家臣、ことに謀反者に対しては厳しい処罰を行なった織田信長でしたが、勇敢に戦った敵将に対しては尊敬の意を示し、人情味のある処置を施しています。

その一例が長篠の戦いで、自らの命を犠牲にして長篠城陥落を救った鳥居強右衛門に対する処置です。織田信長は彼の忠義と勇敢さを讃え、自ら指揮して尾張国甘泉寺に立派な墓を作っています。

織田信長の名言・エピソード

織田信長の名言やエピソードについてに解説します。

派手好きな一面と数奇者としての一面

丹後国平定・石山本願寺との和睦を果たした翌年の1581年、織田信長は「京都御馬揃」という軍事パレードを開催しています。

織田家家臣団を総動員したうえ、近衛前久らの公家、正親町天皇まで招待した非常に大規模なものでした。内裏の東側には幅109m、長さ872mにも及ぶ巨大な馬場と、天皇が観覧するための豪華な御座所を設けました。

家臣達には各々着飾って出向くよう命じており、織田信長自身も、頭には唐冠を乗せ、白地の唐草模様に紅梅をあしらった着物の上に唐錦の小袖を重ね、ヤクの尾で作られた腰蓑と、金銀に縁取られた脇差をつけるなどの奇抜な格好で登場しました。

一方、茶の湯や鷹狩り、相撲にも通じており、上洛して以降は名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになります。茶道具を家臣への褒賞にするなど多いに政治にも利用したため「御茶道御政道」とも称されますが、1573年頃からは千利休も織田信長に仕えており、純粋に茶の湯を楽しむ風流人としての側面もありました。

織田信長に反旗を翻した松永久秀に対しては、その赦免の条件として名器・「平蜘蛛釜」の譲渡しを提案したと言われているほどであり、いかに名物狩りに情熱を注いでいたかが伺えます。

画期的な試み・改革者

ルイス・フロイス評で家臣の忠言にほとんど従わなかったと言われたように、織田信長は専制的に行動方針や政策を決定していましたが、その発想力は類まれなものがあり、数々な画期的な試みを行いました。

戦においては、三段構えの鉄砲隊、直属軍「黒母衣衆・赤母衣衆」の組織、各家の次男・三男の積極的な採用(稲刈りなど領地経営から離れられないような時期でも常に戦闘に出られるような専門部隊の創出のため)、鉄甲船の造船などがその一例として挙げられます。(こうして取り立てられた人物の代表が前田家四男で赤母衣衆にも属した前田利家です。)

経済面での改革と言えば、まず浮かぶのが「楽市楽座」です。

安土城下の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者を排除し、自由取引を奨励して経済活動を活発化させました。また、通行税も廃止して物流を盛んにし、安土城下には多くの人と物が集まるようになりました。

安土城から京都に向かう街道の整備も行なっており、街道を広げてまっすぐにし、不必要な関所をなくしただけでなく、松や柳を植えさせて日焼け対策を行い、一定間隔で飲食店も設置させました。これによって街道の治安は良好となり、人の往来が倍増し、その分だけ商業も活性化していきました。

フィクションにおける織田信長

フィクションにおける織田信長を解説します。

信長の野望における織田信長

シリーズによっても異なりますが、織田信長のステータスは統率92、武勇89、知略94、政治105となっています。どの項目でも高い数値を誇りますが、数々の革新的政策を行なった史実の示すように、特に政治105という数値が突出しています。

ドラマにおける織田信長

織田信長は、数々のフィクションや歴史ドラマに登場しており、多くはカリスマ性をもった革新者として描かれています。1963年から2009年までの大河ドラマ48作品中18作に登場しており、この数は豊臣秀吉と並んで他の歴史上の人物よりも遥かに多くなっています。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では俳優の染谷将太が演じており、これまでの織田信長像とは一線をかくし、カリスマ性を持ち合わせながらも、純粋で苦悩することも多い人間味溢れる人物として描かれています。

織田信長は残虐性と慈愛の両面をもつ非常に魅力溢れる武将だった

若年の頃から、尾張国織田家の分家の出身でありながら織田宗家・同母弟を制する軍事的・精神的強靭さを発揮した織田信長は、桶狭間の戦いを制して東海の覇者となり、そして足利義昭と共に上洛を果たしてからは急速に天下人への道を駆け上がっていきました。

金ヶ崎の戦い、三方ヶ原の戦いなどで大敗を喫したり、織田信長包囲網を形成されるなど、危機的な場面も多々ありながら、その度に類まれなる才能を発揮し、時に強運をも味方につけてその危機を脱しており、その戦歴を見ると誠に天晴であると評価できます。

謀反者や宗教勢力に対する処置は苛烈を極め、その残虐性を示すエピソードが多々残っていますが、一方で庶民等に対しては人情味溢れる微笑ましいエピソードも残しており、その二面性は織田信長という武将を一層魅力的な人物として見せているように思えます。

天下統一を目前にして本能の変に倒れますが、その生き様は最期までドラマティックであり、「三英傑」の一人として讃えられるにふさわしい、まさに日本史を作り上げた代表的な戦国大名・歴史の担い手の一人であると言えるでしょう。