織田信包は織田信長の弟で最も信頼された武将!いい話や能力についても紹介!

織田信包(おだのぶかね)は、織田信長の9歳下の弟として生まれ、織田家の一族の中でも高い地位にいました。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕え、江戸時代まで生存しています。

今回は織田信包の人生を年表付きで分かり易く解説し、人柄・人物像や名言・エピソードについても触れていきたいと思います。

織田信包の基本情報

織田信包の人生(年表付き)

できごと

織田信長に従い、各地を転戦

織田信包は、織田信秀の四男(織田信長の弟)として生まれています。出生については、1543年か、1548年とされています。1568年2月に、兄の織田信長の命令で北伊勢を支配する長野氏に養子として入り、伊賀上野城を居城としてますが、後に織田信長の命令により、この養子縁組は解消され、織田家に戻っています。

その後、1569年10月に伊勢大河内城が落城し、北畠家が織田家に臣従すると、織田信包は伊勢安濃津城主に任命されています。以後も織田信長に従い、各地を転戦しています。

豊臣秀吉に仕える

1582年6月に織田信長・信忠父子が本能寺の変で亡くなると、豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領しています。翌1583年には、甥の織田信孝と対立し、柴田勝家・滝川一益の領地を攻略しています。

1590年の小田原征伐で、北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したことで、豊臣秀吉の怒りを買い、1594年9月に改易に処されています。改易後は剃髪し、「老犬斎」と号し、京都にて隠遁生活をおくっています。

その後、近江国に2万石を与えられ、豊臣秀吉の御伽衆となり、1598年には丹波国氷上郡柏原(兵庫県丹波市柏原)に3万6000石を与えられています。

大坂冬の陣直前で死去

豊臣秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して丹後田辺城攻撃に参加していますが、戦後に徳川家康に罪は問われず、所領を安堵されています。その後は大坂城で豊臣秀頼を補佐していますが、1614年7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死しました。(享年:72歳)

片桐且元による毒殺説などが流れましたが、はっきりとしたことは分かっていません。家督は三男の織田信則が継承しています。

織田信包の人柄・人物像

織田信包の人柄や人物像について、紹介していきます。

織田信長が最も信頼していた身内だった

織田信包の母親は、土田御前で兄の織田信長と同じであることから、重用されていたとも言われています。織田信包の幼少期については、記録がほとんどなく表舞台に登場するのは20歳を過ぎてからです。織田信包は、北伊勢の長野氏の養子にになり、長野三十郎と名乗り、正室には長野工藤氏第15代当主:長野藤定の娘を正室に迎えています。

その後、織田家は伊勢で勢力を拡大し、織田信長の次男:織田信雄が北畠氏、三男:織田信孝が神戸氏に養子として入り、織田信包には安濃津城が与えられ、織田家の人物が統治することで伊勢の支配を強くしています。

織田信包は、各地を転戦していますが、領地はそれほど増えていません。織田信長の嫡男:織田信忠が家督を相続すると、これを補佐する役目を与えられたことから、身内をあまり信用しなかった織田信長が弟の織田信包を信頼し、器量を認めていたことが伺えます。

織田信包の地位ですが、1581年に京都で行われた馬揃えでは、織田信忠、織田信雄に次いで3番目に位置しており、これに織田信孝が続いています。これは織田信長が肉親の中(息子以外)で最も信用していたと言っても過言ではないような気がします。

野望はなかったが、世渡りはうまい

織田信包ですが、地味な印象であまり目立ちません。しかし、1573年に浅井長政討伐戦では、妹:お市の方と、その娘の茶々(淀殿)・お初・お江を居城である上野城で保護しています。しかし、本能寺の変の際、織田信包が織田信長・信忠父子の仇討に動いた形跡はなく、特に何もしていないことから、争いを好まず野望も持っていなかったようにも思えます。

その後は豊臣秀吉の元で転戦しますが、改易となった後も御伽衆として復帰したり、関ヶ原の戦いでは、自身は西軍、長男は東軍に味方させたこともあり、処分させるのを回避させていることから、世渡りの非凡さも伺えます。

織田信包の名言・エピソード

織田信包の名言やエピソードを紹介したいと思います。

意外に高評価

ある日、豊臣秀吉が重臣の、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、蒲生氏郷、毛利輝元を集め話をしていました。豊臣秀吉は、「織田信包に兵5000を与え、蒲生氏郷に兵1万を与え、合戦させるのなら、どちらに味方するか?」と重臣たちに問いました。

重臣たちが返答に困る中、豊臣秀吉は、「自分は織田信包に味方する。理由は蒲生方より兜付きの首を5つほど取れば、その中に蒲生氏郷の首もあるだろう。織田信包方が、4900まで討ち取られても織田信包本人が討ち取られることはないだろう。したがって大将が早く討ち取られる蒲生軍の方が、大きく負けるであろう」と述べています。

織田信包は、意外にも大きな負けが少なかったと思われます。

羽柴をしなす峰の城かな

1583年、羽柴秀長・秀次は滝川家の峰城(伊勢)を攻めるが、城方もよく防いで戦いました。織田信包の部隊も城攻めに参加し、城の近くで大声を上げました。「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」(われらの俳句に返答してみよ)。

これに城方は、「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう。それがし、只今とっさに作った狂歌がある。お前たち、これに返歌せよ!」と逆に返歌を求めました。

その句は、「上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな」(上野介<織田信包のこと>程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)というものでした。これに織田信包隊は返答につまり、鉄砲を撃ちかけることしかできなかったと伝わっています。

フィクションにおける織田信包

フィクションにおける織田信包について、紹介していきます。

信長の野望における織田信包

信長の野望における能力値は、統率:57、武勇:54、知略:34、政治:56と、物足りない印象です。登場は1558年以降ですが、あまり使うことはなさそうです。やはり織田家は織田信長の能力値がずば抜けて高く、息子や弟の評価は低めです。

しかし、近年は織田信秀(織田信長の父)の能力値が高くなっていることから、今後、多少の能力値の変化があるかもしれません。

ドラマにおける織田信包

織田信包を主人公にした作品や代表作はありません。やはり織田信長の弟と言えば、織田信勝(信行)や織田有楽斎のイメージが強く、織田信包はイマイチ知名度に欠けます。

織田信包は地味だが、意外にも評価が高い

織田信包は、地味な印象であまり知られていませんが、織田信長には、信用できる数少ない肉親でした。しかし、織田家の一族の中では長生きしている印象があります。今後はドラマなどにもっと登場してほしいものです。