織田信秀は織田信長の父で斎藤道三のライバル!那古野城を奪取する巧妙さも

織田信秀は織田信長の父であり、那古野城・古森城を拠点にその後の織田家繁栄の基礎を築いた武将です。

この記事では織田信秀の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。織田信秀がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける織田信秀など、様々な視点から解説していきます。

織田信秀の基本情報

織田信秀(おだのぶひで)は尾張国出身で、戦国時代を生きた武将です。

 

同じ織田家の宗家である織田大和守家に仕えましたが、後にその勢力を逆転させ、実権を掌握しました。

織田信秀の人生

できごと

織田家庶流に生まれる

織田信秀は、1511年尾張国勝幡城主であった織田信定を父として誕生します。

織田信秀が生まれた織田弾正忠家は織田家の庶流であり、宗家である織田大和守家の重臣・清洲三奉行として仕える一族でした。織田信定は津島の港を支配下に入れて勝幡城を築き、この港から多大な富を得て経済力を高めました。

織田信秀は1526年頃に家督を譲られ当主となりますが、父・織田信定の時代から勢力を拡大させ始めた織田弾正忠家は警戒されており、1532年に織田大和守家当主・織田達勝と、これと結んだ同じ清洲三奉行家の一つ、織田藤左衛門家と争います。

この争いは講和に終わりますが、戦後、織田信秀は自らの威勢を示すため、公家を招いて連日蹴鞠会を催すなどして、織田弾正忠家の存在感を大きくさせました。

松平氏・今川氏との戦い

1538年、織田信秀は織田達勝の支援を受けて今川氏豊の治めていた尾張国那古野城を謀略によって奪取します。ここを居城と定めた織田信秀は、勝幡城周辺から愛知郡(現在の名古屋市周辺)まで勢力を拡大させました。

1539年には古渡城を築き、熱田の港を支配してその経済的基盤を盤石なものとしました。さらに1548年に末森城を築いて拠点を移し、三河国松平氏や駿河国今川氏の備えとしました。

この頃の尾張国を取り巻く情勢は、北(美濃国)には斎藤道三の台頭があり、東(三河国)には松平氏、その更に東には駿河国・遠江国の今川氏が居り、一触即発の雰囲気が漂っていました。

1535年には三河国統一を果たした松平清康が尾張国に侵攻し、品野城や岩崎城が奪取された上、織田信秀の弟・織田信光の守る守山城が攻められました。その裏では織田信秀と対立する織田藤左衛門家が松平清康と通じていたと言われています。

しかし、守山城に布陣した翌日、松平清康は家臣の阿部正豊によって殺害され、主君を失った松平軍は岡崎へと撤退しました。三河の国衆はこれを受けて相次ぎ松平氏から離反し、織田信秀はこれをチャンスと見て三河への侵攻を開始しました。

1540年、松平清康の後を継いだ嫡男の松平広忠(徳川家康の父)が先手を打って尾張国鳴海城を攻めてきますが、織田信秀はこれを打ち破ります。敗北した松平広忠は安城城の守りを固めたため、織田信秀が反撃に出て安城合戦となります。

激戦の末に織田信秀が勝利して安城城の攻略に成功し、長男で庶子の織田信広を置いて支配下に入れました。

松平広忠は松平清康の死去の後から今川義元を頼ってその支援を受けるようになっており、東三河から西三河へと勢力を伸ばした今川義元は、安城城を奪い西三河に侵攻した織田信秀を駆逐すべく1542年に進軍を開始して、第一次小豆坂の戦いとなります。

この戦いは実在したか議論のある所ですが、『信長公記』によれば織田信秀はこの戦いに勝利し、西三河の権益を保持しました。

斎藤道三との戦いと第二次小豆坂の戦い

美濃国の斎藤道三とは長きに渡り戦闘が続いていましたが、1542年に斎藤道三が美濃国守護の土岐頼芸を追放すると、織田信秀は土岐頼芸を支援し、朝倉孝景と連携して美濃に出兵、大垣城奪取に成功します。

その後、1544年(または1547年)に加納口の戦いとなり再び斎藤道三と戦います。織田信秀は稲葉山城山麓の村々を焼き払っていきますが、一時兵を引き上げようとした所を斎藤軍に突かれ、5千人ほどが討死する大敗を喫します。

この合戦の敗北の後、織田家は対斎藤氏との関係を見直すようになり、織田信長の傳役・平手政秀の働きにより、織田信長と斎藤道三の娘・帰蝶を縁組させることで、和睦を結ぶこととなります。(1548年)

一方、松平広忠は今川家との関係を強固なものとするために嫡男・竹千代(徳川家康)を人質に出します。しかし、その護送の際に護送担当の戸田康光が今川家を裏切り、竹千代を織田家へと引き渡してしまいます。

織田信秀は松平広忠に対して今川氏を離反して織田家の臣従に降るよう説得しますが、松平広忠が姿勢を崩すことはありませんでした。1548年、織田信秀に岡崎城を陥落させられており、続いて第二次小豆坂の戦いとなります。

この合戦では今川氏・松平氏の連合軍が勝利して岡崎城が奪回されますが、直後の1549年に松平広忠が死去して(暗殺説もあり)、岡崎城は城主不在の状態が続くこととなります。

松平広忠の死後、今川氏により安城城も攻撃を受けて陥落し、ここを守っていた織田信広が今川氏に捕らえられたため、織田家に居た竹千代との人質交換が行われて完全に三河侵攻の拠点であった安城城を失い、ここに織田信秀の三河侵攻が挫折に終わりました。

晩年

第二次小豆坂の戦いの敗北から間も無く、織田信秀は病に臥すようになります。

これを受けて周辺諸将にも動揺が走り、1550年に今川氏が織田家と結んでいた水野信元が攻められてこれに降伏し、1551年には鳴海城を守っていた山口教継が調略を受けて今川氏方へと寝返るなど、窮地にたたされました。

このような情勢下、織田信秀の病状は悪化していき、1552年3月、末森城にて死去しました。42歳でした。

織田信秀の人柄・人物像

織田信秀の人柄や人物像について説明します。

強靭な精神力

織田信秀は、智勇に優れた武将であると評価されており、それは織田家庶流であった織田弾正忠家が宗家を差し置いて勢力を大幅に拡大させた史実からみても明らかであるといえます。

今川氏や斎藤氏との戦いにおいては必ずしも勝利ばかりではなく、むしろ敗北することも多くなっていましたが、織田信秀は生涯これに屈することはありませんでした。

斎藤道三に加納口の戦いで敗北した直後も、堂々と勅使を迎えており、苦戦や敗戦にめげない彼の強靭な精神力が伺えます。

優れた経済観念

父の代からの津島、そして熱田と2つの主要な港を支配した織田信秀は、多大な財産を蓄積することに成功しています。

朝廷への献金しており、その結果従五位下に叙位され備後守にも任命されました。1540年に伊勢神宮遷宮のために材木と銭7百貫文を献上、1543年には内裏修理料として4千貫文を献上しており、その経済的豊かさを物語っています。

蓄財するだけでなく、このように対外的にも積極的にその経済力を利用する柔軟さ・巧みさを持ち合わせていた人物であったことが伺えます。

織田信秀の名言・エピソード

織田信秀の名言やエピソードについて解説します。

那古野城の奪取

織田信秀は1538年に今川氏豊から奪取していますが、2人は連歌の友であったと言われています。

しかし、これには裏があり、元々那古野城を狙っていた織田信秀が、今川氏豊が大の連歌好きであると知り、彼に近づくために那古野城で開催された連歌会に積極的に参加し、次第にその仲を深めていきました。

次第に那古野城で宿泊を許されるほどに心を許されて、城内に織田信秀専用の小部屋が設けられるほどになりました。

ある時、織田信秀はこの小部屋に本丸に向かう小窓を作ると、今川氏豊の家臣がこの怪しい行動を主君へと報告しますが、信頼しきっていた今川氏豊はこれを気に留めませんでした。

こうして準備を整えた織田信秀は、仮病を装って当時の居城・勝幡城から軍勢を引き入れ、那古野城内を放火して混乱させ、内と外から軍を動かして挟み撃ちにすることで那古野城を奪いました。

城を奪われた今川氏豊は京都へ逃れ、その後の没年も不明となっています。

織田信長との関係

織田信秀と織田信長の関係性を示すエピソードとして、織田信秀の葬儀において、乱れた服装で現れた織田信長が、抹香をわしづかみして仏前に投げつけたという話が有名です。

これを見た人々は、「やはり織田信長は大うつけである」とささやき合い、父子の関係が芳しくなかったことを表しているととらえました。

しかし、実際の父子関係は決して悪いものではなかったと想像できます。

織田信秀は1546年頃、織田信長の元服前に那古野城を譲り、翌年には初陣を飾らせるなど、この時から織田信長を後継者として扱っていたことがわかります。

織田信秀の経済を重視する性格や、敗戦にも負けない精神力は織田信長へと色濃く引き継がれており、両者の実績を見ると、共通している点が多々見受けられます。

フィクションにおける織田信秀

フィクションにおける織田信秀を解説します。

信長の野望における織田信秀

シリーズによっても異なりますが、織田信秀のステータスは統率93、武勇95、知略53、政治61となっています。三英傑・織田信長の父らしく、統率や武勇で非常に高い数値を誇っています。

ドラマにおける織田信秀

2020年の『麒麟がくる』では俳優の高橋克典さんが演じています。ドラマの序盤では斎藤氏と何度も争う最大のライバルとして、武勇優れた強敵として描かれました。

織田家内の関係では、同母弟・織田信勝の方を偏愛しているように見えながらも、内心では織田信長の才能を認めており、「自分によく似ている」と深い愛情を示すシーンも放送されました。

織田信秀は織田家繁栄の基礎を築き息子の天下人への道を拓いた名将だった

織田信秀と言えば何と言っても「織田信長の父」として知られていますが、その功績に関しては広く知られている所ではありません。

織田信秀・織田信長の所属した織田家は実は庶流であり、その地位は決して高いものではありませんでした。

織田信長の天下取りへの道を支えたものの一つとして、織田信秀の築いた莫大な財産があげられます。織田信秀は庶流の立場から大幅に勢力を拡大させ、勝幡城、那古野城、古森城と度々拠点を移しながらその権力を盤石なものとしました。

織田家の繁栄は織田信長一代で築き上げたものではなく、織田信秀との父子2代(もしくは祖父織田信定を含めた3代)で築き上げたものであると言えるでしょう。

「尾張の虎」とも呼ばれた織田信秀は、「大うつけ」と酷評されていた若年の織田信長を後継者として育てる先見性も持ち合わせており、武勇に優れるだけでなく、非常に頭のきれる人物であったと高く評価することができるでしょう。