丹羽長秀の通称は「五郎左」!信長の野望での能力値や安土城を築城したのは本当?

丹羽長秀は織田家の重臣ですが、その割にはイマイチ地味な印象があります。しかし、政治・軍事両面で活躍し、織田信長かたの信頼も厚い武将でした。今回は丹羽長秀の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

丹羽長秀の基本情報

丹羽長秀の人生

できごと

織田信長に仕え、台頭

丹羽長秀は1534年に、丹羽長政の次男として生まれました。丹羽氏は元は斯波氏の家臣でしたが、1550年から丹羽長秀は織田信長に仕えています。1553年の梅津表の合戦で初陣を果たし、1556年の稲生の戦いでは織田信長側に付き、1560年の桶狭間の戦いでは、今川義元攻撃部隊には加わってはいないものの、従軍はしていました。

織田信長が美濃攻めを始めたころから台頭し始め、1568年に織田信長上洛戦で手柄を立て、1571年には近江佐和山城主となりました。

各地を転戦する

1573年の朝倉義景討伐戦で武功を立て、若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となりました。(最初の織田家臣での城持ち大名は明智光秀だと言われています)

以降も高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆討伐戦などで各地を転戦しています。丹羽長秀は軍事面だけでなく、内政面でも優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行も務めています。つまり、安土城を建立したのは丹羽長政と言っても良いかもしれません。

家老としての序列も、佐久間信盛が失脚後(石山本願寺との和睦後に追放された)には、柴田勝家に次ぐ二番手にまで出世し、織田家の双璧(柴田・丹羽)とも言われていました。1582年6月には、四国派遣軍の副将(大将:織田信孝)として準備を進めていました。しかし、直前に本能寺の変が起こると兵の逃亡が相次ぎ断念。

明智光秀の共犯者として、津田信澄(明智光秀の娘婿)を殺害し、その後は織田信孝と共に、羽柴秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで明智光秀を討っています。

羽柴秀吉に味方し大大名になる

山崎の戦い後は羽柴秀吉を支持し、織田家の後継者には三法師(織田秀信)を推し、結果として織田信長の後継者としての羽柴秀吉の地位を認めています。1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉を援護し、戦後は若狭に加え、越前の一部と加賀の一部を与えられ、約123万石の大名となりました。

1585年に、51歳で病死しています。

丹羽長秀の人柄・人物像

丹羽長秀の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

米五郎左(こめごろうざ)

丹羽長秀は「五郎左(ごろうざ)」が通称でした(五郎左衛門尉の略)。4人の織田家臣を表したものに「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田、退き佐久間」というものがあります。「木綿藤吉=華美ではないが、丈夫な羽柴秀吉、掛かれ柴田=武勇の誉れ高い柴田勝家、退き佐久間=撤退戦が得意だった佐久間信盛」のことを示していました。

米五郎左は、「非常に器用でどのような任務もこなし、米のように毎日の生活に欠くことのできない存在」ということを表しており、丹羽長秀が織田家でいかに必要な存在だったかを物語っています。

1575年7月に、織田信長は家臣の官位下賜と贈姓を朝廷に上奏しています。羽柴秀吉には「筑前守」、明智光秀には九州の名族「惟任(これとう)」姓が与えられています。丹羽長秀にも同じく九州の名族「惟住(これずみ)」姓が与えられていますが、丹羽長秀は「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と一度断っています。

五郎左という名前に愛着があったのかもしれませんね。

織田信長とは縁戚関係だった

丹羽長政の正室は、織田信広(織田信長の兄)の娘で、嫡男:丹羽長重も織田信長の五女と結婚しています。さらに織田信長からは「長」の字を偏諱を受け、親しい主従関係だったことが伺えます。2代にわたって織田信長の縁戚となった家臣は他にいません。織田信長も「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれる逸話も残っています。

丹羽長秀は、方面軍司令官にはなれなかったものの、安土城の普請奉行や機内の行政の仕事をそつなくこなしており、行政・軍事両面で活躍したことから織田信長の信頼も厚かったことは変わりませんでした。

丹羽長秀の名言・エピソード

丹羽長秀の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

羽柴秀吉とは立場が逆転

丹羽長秀は、羽柴秀吉にとっては上役でした。羽柴という姓も、「丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつとって羽柴」としたようです。本能寺の変時には、大坂付近にいたとされる丹羽長秀なので、織田信長の仇討をするには絶好の場所にいました。

しかし、兵の逃亡が相次ぎそれどころではなく、津田信澄を明智光秀の共犯者として殺害し、織田信孝を補佐することしか出来ませんでした。予想に反して、羽柴秀吉が中国地方から物凄い速さで戻ってきたため、羽柴秀吉の軍に加わるしか方法がありませんでした。

山崎の戦いで、織田家での羽柴秀吉の立場はゆるぎないものになり、丹羽長秀は羽柴秀吉の家臣のような扱いになり、立場が逆転。内心は面白くなかったと思われます。

その後の丹羽氏は?

丹羽長秀の死後、嫡男の丹羽長重が後継者となりました。しかし、重大な軍律違反があったということで領国の大半と有力家臣の多くを召し上げられています。これは羽柴秀吉による丹羽氏の勢力削減作戦とも言われています。(加賀松任4万石にまで減らされた)

丹羽長重ですが、1600年の関ケ原の戦いでは西軍に属したため、一度改易となっていますが、後に大名として復帰し、1627年には白河10万7000石まで加増されています。以後、明治維新まで丹羽氏は残り、1884年には華族となっています。

フィクションにおける丹羽長秀

フィクションにおける丹羽長秀について、紹介したいと思います。

信長の野望における丹羽長秀

能力値ですが、統率:80、武勇:75、知略:73、政治:84と評判通りの万能タイプです。信長の野望もシリーズが新しくなるごとに、織田家臣の能力値が上がっているので、丹羽長秀は目立たなくなってきたかもしれません。しかし、政治・軍事の両面で仕える数少ない武将とも言えるでしょう。

ドラマにおける丹羽長秀

丹羽長秀を主役と作品はありませんが、多くのドラマに登場しています。しかし、どうしても地味な印象があるので、ドラマではイマイチ存在感が出せていないかもしれません。

丹羽長秀は万能タイプだった

丹羽長秀は織田家の双璧と言われるほどの武将でしたが、あまり目立っていないのが残念な気がします。知名度では柴田勝家や羽柴秀吉におよばないものの、織田信長からの評価が高かったことから、能力が高かったのは間違いなさそうです。