二階堂盛義は須賀川の誇る武将!信長の野望での驚き顔が話題に?

二階堂盛義は陸奥国、現在の福島県岩瀬郡を治めた武将です。生涯蘆名氏や田村氏との戦いに翻弄されましたが、二階堂家の全盛期をもたらした政治手腕に優れた人物です。

この記事では二階堂盛義の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。二階堂盛義がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける二階堂盛義など、様々な視点から解説していきます。

二階堂盛義の基本情報

二階堂盛義(にかいどうもりよし)は、国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

生涯の前半は、蘆名氏や田村氏らの周辺諸将と戦いましたが、その後会津四郡を支配した蘆名盛氏に仕えました。

二階堂盛義の人生(年表付き)

できごと

周辺諸将との戦い

二階堂盛義は、1544年、二階堂家6代目当主・二階堂照行の嫡男として誕生します。

二階堂氏は、1444年頃に初代当主・二階堂為氏が諸豪族を討ち倒して陸奥国岩瀬郡を統一し戦国大名となってから、代々その地を治めてきた一族でした。

この頃から、領土を隣にする蘆名氏や田村氏、または伊達氏らとの争いが続いており、その状況は父・二階堂照行の代にも変わらず、この頃すでに二階堂氏は「わずか五十余郷を領す」状態となっており、一族の衰退が始まっていました。

1542年頃から伊達氏内でお家騒動・天文の乱が発生し、伊達稙宗と伊達晴宗が対立すると、1547年頃、二階堂照行は蘆名盛氏と共に伊達晴宗方に味方し、伊達稙宗の味方についた田村隆顕と対立します。

1548年に天文の乱が終結してもこの対立は収まらず、1550年、蘆名盛氏と田村隆顕との間に安積郡での戦いが勃発しました。二階堂照行も、この戦いに蘆名氏側として戦っています。

このように、蘆名氏とは比較的良好な関係を築いていたものの、1558年から1560年頃、二階堂盛義が伊達晴宗の娘・阿南姫を妻に迎えたことをきっかけに、一転して関係が悪化します。二階堂氏は、北に蘆名氏・田村氏、南に佐竹氏に挟まれるという危機的状態に陥りました。

1559年2月には、田村氏との間に渋川合戦が勃発しますが敗北を喫し、岩瀬郡今泉城を奪われます。1562年、田村氏は松山城にも攻め込んできますが、二階堂照行・二階堂盛義父子がこれを敗退せます。

しかし、同じ頃から蘆名盛氏も岩瀬郡への侵攻を開始し、二階堂盛義が伊達氏の支援を受けてこれと戦いますが、いずれも破れてしまいます。

蘆名氏との関係を修復する

各所で敗北し苦戦を強いられていた最中の1564年、父・二階堂照行が死去したため、二階堂盛義は家督を継ぎ7代目当主に就任します。

その直後の1565年、蘆名盛氏が松山城・横田城への侵攻を開始します。1562年に田村氏の侵攻を受けた際にはその防衛に成功した二階堂盛義でしたが、今度の戦いでは終始苦戦した上に横田城主が生け捕りにされたことで、1566年についに和睦を成立させます。

その際、人質として嫡男の二階堂盛隆を差し出し、このことがきっかけで悪化していた蘆名氏との関係が修復に向かいました。以降は、蘆名氏との協力体制のもと田村氏らとの戦いを繰り広げていきます。

1574年、岩瀬郡河東郷に侵攻してきた田村氏と、蘆名氏と協力して岩瀬郡越久・安積郡富田で戦い、これに敗北します。同年、蘆名盛氏の後家督を継いでいた蘆名盛興が死去したため、人質に入っていた嫡男・二階堂盛隆が蘆名氏の家督を継ぐことになり、蘆名盛隆と名を改め、ますます蘆名氏との関係が深化しました。

1576年、田村氏が蘆名領の片平城を侵攻したため二階堂盛義も田村軍と戦いますが、ここでも敗北します。しかし、翌1577年に佐竹氏・石川氏の援軍を受けたことで田村氏を破り、1580年の下小山田合戦へと突入します。

二階堂盛義は僅か100騎ほどで本陣を敷き、400〜600ほどの田村軍を待ち構えました。しかし、実は各所に伏兵を潜ませてあり、おびき寄せた田村軍を挟み撃ちする作戦をとっていました。この作戦が見事功を成し、二階堂軍が大勝します。その勢いのまま田村郡に侵攻し、大平城を陥落させることにも成功しました。

御代田合戦

下小山田合戦と時を同じくする1580年3月から、佐竹義重と田村清顕の間で御代田合戦が勃発します。

佐竹氏は二階堂氏・蘆名氏などの諸侯を味方につけ東北連合軍を形成した一方、田村氏は孤立してしまったため、伊達輝宗に助けを求め、田村清顕の娘・愛姫と伊達輝宗嫡男・伊達政宗の婚姻を成立させ同盟を結びました。

当初戦いは膠着し大きな衝突は起こっていませんでしたが、同年7月に田村軍が二階堂領の篠川城を攻めたことで、二階堂盛義と蘆名盛隆が御代田城への攻撃を開始します。

しかし、御代田城は堅城であり、戦いは長期化します。9月には、篠川城が反撃を受け、二階堂盛義はこれにより負傷し突然温泉療養に向かい、重臣の須田盛秀らに軍の指揮をまかせてしまいます。その後、1581年4月に両者は和睦し実質的には佐竹氏の勝利で戦いは終結しました。

1581年8月、御代田合戦で受けた傷がもととなり、二階堂盛義は死去しました。38歳でした。

その後、1582年に二階堂盛義の後をついで8代目当主となった二階堂行親がわずか13歳で死去し、1584年に蘆名家において二階堂家再興を試みた蘆名盛隆が家臣によって殺害されると、蘆名氏と共に二階堂氏も衰退し、1589年に伊達政宗により須賀川城が落とされ、二階堂氏は滅亡することとなりました。

二階堂盛義の人柄・人物像

二階堂盛義の人柄や人物像について説明します。

二階堂氏の全盛期を築いた政治手腕

父・二階堂照行の代には田村氏らに領土を奪われ衰退していた二階堂家ですが、嫡男・二階堂(蘆名)盛隆を人質として差し出すことで蘆名氏との関係を修復させ、領土の回復・拡大に成功し二階堂家の全盛期をもたらしています。二階堂家の領地は、二階堂盛義が当主となってから、岩瀬郡の他、田村・安積・石川など68村5万7千石にまで及ぶようになりました。

このように、政治的判断力に優れていた上に、下小山田合戦では伏兵を忍ばせる巧妙な作戦で戦いを制するなど、領国支配において優れた手腕を持っていた人物であったことが伺えます。

一方、蘆名家を継いだ嫡男・蘆名盛隆は『奥羽永慶軍記』において「猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かった」と批判されており、現に二階堂盛義の死後、数年のうちに二階堂氏滅亡したことからも、二階堂盛義の存在意義が大きかったのではないかと推測出来ます。

後世・地元での評価

1980年に福島民報社が発行した『福島大百科事典』では、二階堂盛義は、勇猛果敢な大名としてより能吏的で文化的な大名であったと記されています。

二階堂家は藤原南家・藤原武智麻呂の子孫であるとも言われた名家であり、二階堂盛義もその家名に恥じぬ文化教養を持つ人物でありました。後述の須賀川の火祭り・松明あかしの伝統が続くなど、須賀川市では現在も二階堂盛義やその妻・阿南姫への尊敬が深いようです。

二階堂盛義の名言・エピソード

二階堂盛義の名言やエピソードについて解説します。

二階堂氏の誇りも持って戦い続けた阿南姫

二階堂盛義の死後、家督を継いだ二階堂行親が早逝してしまったため、二階堂盛義の妻・阿南姫が二階堂家当主。須賀川城主として領内を統治することになります。

この時代は伊達政宗が勢力を拡大させ東北統一を成し遂げようと周辺諸将を攻め込んでいた厳しい状況にありましたが、阿南姫は伊達晴宗の娘であり、伊達政宗とは叔母と甥の関係にあったため、血縁関係をいかしてこれを頼ることがいくらでも可能な状況にありました。

しかし、阿南姫は武士のような勇猛さを備えていた人物であったようで、伊達家との同盟の道を選ばず、それどころか伊達政宗を恨んで対立するようりなります。

郡山合戦、人取橋の戦い、摺上原の戦いと蘆名氏や佐竹氏らと協力して伊達政宗と連戦し、何度も降伏勧告を受けますがこれを拒否、ついに1589年に須賀川城を落とされ、二階堂氏は滅亡てしまいました。

その際、自害しようとしたものの捕らえられてこれを果たせず、伊達政宗は彼女を厚遇したと言われますが、後にこれも拒絶し、以降は佐竹氏らの庇護を受けて生き長らえました。

福島県須賀川市・松明あかしの由来

須賀川市において400年以上の歴史を誇り日本三大火祭りにも数えられる「松明あかし」の由来は、二階堂家・阿南姫が実質的当主であった時代に遡ります。

伊達政宗による須賀川城攻略の直前、阿南姫に対して和睦するよう要求してきます。しかし、これに怒った家臣や須賀川の町衆は、10月10日の夜、松明を灯して十日山に集まり、そこで命をかけて須賀川城を守ることを決定します。

阿南姫は彼らに対し、「義を重んじ節に死のうとする者は私と戦い、城を運命を共にしようぞ」と語りかけ、ついに須賀川城での戦いが始まりました。

この戦いで須賀川城は陥落、多くの者が死にました。その慰霊のために、新しい領主の目を憚ってムジナ狩りと消し、彼らが戦いの前に持った松明を五老山で燃やしはじめたのをきっかけに、現在の須賀川松明あかしが生まれました。

五老山とは、天正9年に、田村清顕や二階堂盛義の老臣5人が講和の交渉をした二階堂家とゆかりの深い山です。

フィクションにおける二階堂盛義

フィクションにおける二階堂盛義を解説します。

信長の野望における二階堂盛義

福島県の一部を支配していた大名にすぎない二階堂盛義の名前を有名にしたのは、ゲーム『信長の野望』であるといっても過言ではありません。

『信長の野望・蒼天録』において驚いたような、ユーモアのある表情で描かれるキャラクターとして登場したことで、当時一躍話題に上がりました。

そのステータスは、シリーズによっても異なりますが、統率43、武勇38、知略50、政治70となっています。

二階堂盛義は二階堂氏前世を築いた先見性優れた武将だった

衰退の一途にあった二階堂家の再興は、長年敵対してきた蘆名氏と和睦し、今後はその力を借りることで戦いを制しようとした二階堂盛義の判断無しでは成し得ないことでした。

その生涯、田村氏らと戦いに翻弄された二階堂盛義でしたが、蘆名氏はじめ、時に伊達氏、時に佐竹氏ら周辺大名との協力によって、人生の後半では連戦戦勝を飾っています。彼の先見性・判断力は大変見事であると評価することができるでしょう。