成田長親は忍城の戦いで活躍!「のぼうの城」の主人公で領民に慕われていた?

成田長親は成田家の一族として生まれ、豊臣秀吉の小田原征伐では北条方として忍城に籠城し、豊臣軍を苦しめた武将として知られています。成田家の一族はあまり知られていませんが、鎌倉時代から続く名家であったと言われています。

今回は成田長親の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

成田長親の基本情報

成田長親の人生

できごと

誕生

成田長親は、成田泰季の嫡男として生まれています。成田家は鎌倉時代から続く家柄で、武蔵を本拠にしていました。室町時代には関東管領:山内上杉家の家臣として勢力を広げますが、戦国時代に入り気新興勢力である小田原の北条家が勢力を伸ばしてくると、旧勢力である山内上杉家は連合軍を結成して、北条家を討伐するために兵を挙げます。

圧倒的多数で優勢だった山内上杉連合軍でしたが、北条氏康は奇襲攻撃によってこれを倒し、以後、北条家が関東で勢力を伸ばしていきます(河越夜戦)。その後、山内上杉家当主の山内上杉憲政は、越後の長尾景虎を頼り逃亡。後に上杉姓と関東管領職を譲り、長尾景虎は上杉謙信と改名しています。

その後、上杉謙信は度々、関東に出兵し北条軍と戦っています。成田家は北条家と上杉家の間で揺れ動く小勢力に過ぎませんでした。成田長親の父:成田泰季は三男だったため、兄:成田長泰(長親からみると伯父)が主君でした。成田長親は、遠山藤九郎(北条家家臣)の娘と結婚していますが、これは成田長泰の意向だと見られています。

北条家と上杉家

1574年、羽生城を巡る戦いに成田家は北条方として参戦し、上杉謙信が撤退すると、羽生領は北条方についた成田氏長(成田長泰の息子)に与えられています。以後、成田家は北条家に属していますが、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、成田氏長は北条家に味方するため、小田原城に入城したため、本拠:忍城は成田泰季が城代として守ることになりました。

忍城は城兵500と城下の民を合わせて3000人が籠城することになりました。豊臣軍は北条方の城を攻略するため、各地に軍勢を展開し、忍城には石田三成率いる2万人が攻め寄せてきました。これに対して忍城方は防備を固めますが、成田泰季が急死したため、成田長親が急遽総大将を務めることになりました。

忍城は大軍を相手に持ちこたえ、本城の小田原城が落城後も籠城を続けましたが、後に開城をしています。この戦いは、石田三成の戦下手を露呈したものになってしまいました。

その後

忍城の開城後、成田氏長の領地は没収されますが、後に成田氏長は大名として復帰しています。成田家の家臣には成田氏長に付き従ったもの、袂を分かち忍城の新領主となった松平忠吉に仕えたもの、帰農したものがいましたが、成田長親の長男:成田長季は、松平忠吉の家臣となっています。

成田長親は成田氏長に付き従いますが、後年、忍城籠城時の豊臣家への内通を成田氏長に疑われたことから不仲になり、出奔しています。その後、尾張に移り住み、64歳で亡くなっています。

成田長親の人柄・人物像

成田長親の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

領民から慕われた

成田長親は合戦よりも田植えが好きだったと言われており、領民の田植えを手伝うも、不器用だったことから、領民が3日かけて植え直したという逸話も残っています。領民は善意から手伝ってくれた成田長親を怒ることができなかったそうです。

成田家の領主は代々、領民を愛する心を持っていたとされ、それが成田長親にも受け継がれていたのかもしれません。

成田家は名門の一族だった

成田長親の伯父:成田長泰は、上杉謙信の小田原攻め(1560年・1561年)の際、鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた上杉謙信の関東管領就任式で、下馬しなかったと伝えられています。これは成田家が藤原家の連なる名家で祖先は源義家にも下馬せず、挨拶をしたということもあり、その慣例に従い下馬しなかったと言われています。

これに上杉謙信は激怒し、扇で成田長泰の烏帽子を打ち落としたため、成田長泰は忍城に撤退し、以後は北条家に従属しています。成田長親の父:成田泰季は、頼りになる一門だったと言われていますが、成田長親は特に実績があったわけではないこともあり、いわば「凡人」の武将だったと言われています。

成田長親の名言・エピソード

成田長親の名言やエピソードについて、紹介したいと思います。

甲斐姫とは?

甲斐姫は、成田氏長と最初の正室:由良成繁(下野国金山城主)の娘との間に生まれた長女で、1572年生まれとされています。忍城の戦いの際に、甲斐姫は自ら出陣し、豊臣軍の侵入を防ぎ、籠城戦では成田長親と共に指揮を取ったとも言われています。

甲斐姫は父である成田氏長と行動を共にしますが、後に豊臣秀吉に気に入られ側室になっています。成田氏長は大名に復帰していますが、これは甲斐姫のおかげという見方もあります。大坂夏の陣後に、出家したと言われています。

成田家のその後

成田長親の主君:成田氏長は、忍城を没収された後は、蒲生氏郷に預けられますが、のちに大名に復帰し、下野烏山2万石を領しています。その後、嫡男が早死にしていたため、弟の成田長忠(泰親)を養子に迎え、後を継がせています。江戸時代に入ると、成田家は家督による騒動で改易に処されています。

成田長親は成田氏長から離れた後は、長男:成田長季が仕えた松平忠吉が尾張に転封になったことから、共に尾張に移り住んだとされています。成田長親の子孫ですが、松平忠吉は関ヶ原の戦いの負傷が元で、病死していますが、その後の尾張徳川家の藩士として仕えたと言われています。

フィクションにおける成田長親

フィクションにおける成田長親について、紹介したいと思います。

信長の野望における成田長親

成田長親の能力値ですが、統率:56、武勇:35、知略:47、政治:50となっており、残念な能力になっています。この辺りは「凡人」という評価を参考を忠実に再現していると思われます。

ドラマにおける成田長親

成田長親が主役の作品ですが、映画「のぼうの城(2012年)」で公開当時は話題になりました。これは「のぼうの城」という歴史小説が原作ですが、成田長親は農作業が好きな武将として描かれており、「のぼう様」と呼ばれています。

のぼう」というのは「でくのぼう」の略とされており、作中では成田長親は武将としての統率力や武勇などの実績はありませんでしたが、領民からの人気が凄かったとされています。

成田長親は並みの武将だった

成田長親の実績ですが、忍城の戦い以外に目立った実績はありません。どちらかと言うと甲斐姫の方が注目されがちです。ただ、一族は名門の出身というプライドはあったのかもしれません。領民に人気があったというのも性格によるものと思われます。