中浦ジュリアンが殉教の際に叫んだ名言とは?地味ながら真っ直ぐに生きた生涯!

中浦ジュリアンは天正遣欧使節のメンバーとしてローマに派遣された人物です。他の使節のメンバーのが華々しいエピソードを持っていることに比べるとやや地味ですが、長年にわたりキリスト教の布教を続けた芯の通った努力家でした。

この記事では中浦ジュリアンの生涯を年表付きで分りやすく解説します。中浦ジュリアンがどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける中浦ジュリアンなど、様々な視点から解説していきます。

中浦ジュリアンの基本情報

中浦ジュリアンは肥前国出身の、安土桃山時代から江戸時代に生きたイエズス会の司祭です。

大村純忠の家臣の家に生まれ、天正遣欧使節の一人としてローマに派遣され、帰国後は九州でキリスト教の布教活動を行いました。

中浦ジュリアンの人生(年表付き)

できごと

天正遣欧使節としてローマに派遣

中浦ジュリアンは1568年に肥前国に生まれました。父は大村純忠の家臣で、肥前国中浦の領主・中浦純吉であったとされています。1580年頃に有馬にあった、司祭・修道士育成のための初等教育機関である「セミナリオ」に入学します。ここで、共に使節となる伊東マンショ・原マルチノ・千々石ミゲルと出会います。

1582年、天正遣欧使節の一人に選ばれます。この使節の目的には、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本人のことを知らしめること、使節の少年たちにヨーロッパ世界を目撃させ、その見聞と感動を帰国後、日本国民に伝えさせることでキリスト教布教の効果を期待したことだったいわれています。2年の月日をかけて使節はヨーロッパに到着し、ローマ法皇との謁見、また何人もの王や貴人から歓待を請けます。その他にも舞踏会に参加したり、ピサの斜塔を訪れるなど、日本では得難い体験をいくつもして、1590年に帰国します。

日本での布教活動

帰国すると、聚楽第にて豊臣秀吉に謁見し、西洋から持ち帰った楽器を演奏してみせるなどをします。そののち中浦ジュリアンは司祭になるべく、聖職者の最高学府であるコレジオに入学し、勉学に励みます。そして肥後八代において布教活動を行います。当時はすでに豊臣秀吉による禁教令なども出されていましたがそれほど厳しいものではなく、八代の麦島城の城代であった小西行長は敬虔なキリシタンであり、活発に布教活動をすることができました。

中浦ジュリアンは神学をより高度に学ぶためにマカオのコレジオへの留学、その帰国後は博多での布教など、精力的な活動を行いますが、当時のヨーロッパの神父の中には日本人に偏見を抱いており、司祭へ叙階することに難色を示した人物もいたそうです。しかし、地道に実績を残していくことで認められ、1607年に司祭に叙階します。

幕府のキリシタン弾圧

順調に信者が増えていきますが、幕府によるキリシタン取締りの政策も徐々に強まっていきます。関ヶ原の戦い後に福岡を治めていた黒田氏も、当初キリスト教を認めていたものの、キリスト教弾圧の方向に舵を切っていきます。

1614年に幕府からキリシタン追放令が発布されると、中浦ジュリアンは地下に潜伏し、布教活動をしていくことを決意します。その中で伊東マンショは病死、原マルチノはマカオへ追放、千々石ミゲルは棄教し、ローマに赴いた四人の中では中浦ジュリアン一人だけが、幕府のキリスト教迫害に対峙することになりました。

多くの仲間が見つかり、処刑されたり、棄教をしていく中で中浦ジュリアンは活動を続けます。天草、南肥後、筑前、筑後、豊前に潜伏している信者のもとへ毎年のように訪れ、彼らを励ましたといいます。

1632年に中浦ジュリアンは小倉で捕縛され、翌年に長崎で穴吊るしの刑に処せられ死去します。

中浦ジュリアンの人柄・人物像

中浦ジュリアンの人柄や人物像についてまとめます。

父も熱心なキリシタン

中浦ジュリアンの父、中浦純吉は洗礼も受けた熱心なキリシタンだったといわれます。また、その主君である大村純忠もキリシタン大名として有名です。中浦純吉は1569年に久津峠の戦いに大村方として参戦しますが、大村方が敗走した際に殿を務め、その際に討死します。中浦ジュリアンがキリスト教の布教活動を続ける気持ちの中には、そのような立派な最後を遂げた父の姿があったのかもしれません。

一人で地道に布教活動

他の使節メンバーであった、伊東マンショは音楽の才能に秀でていたり、原マルチノは語学能力を多方面で発揮するなどのエピソードがある一方で、中浦ジュリアンはその様な記録はみられません。しかし、長年にわたり日本で布教活動を行っており、司祭としての使命は四人のなかでは最も果たしたといえるでしょう。

中浦ジュリアンの名言・エピソード

中浦ジュリアンの名言・エピソードについて解説します。

特別なローマ法王への謁見

天正遣欧使節としてローマに赴き、いよいよローマ法王に謁見するとなったときに中浦ジュリアンは伝染病にかかってしまいます。中浦ジュリアンは「お会いすれば病気は治る」と言い、無理を押して謁見に臨もうとしますが、倒れてしまい叶いませんでした。しかし、それを憐れに思った貴人が後日、特別に中浦ジュリアンをローマ法王のものと呼び寄せ、謁見を叶えました。このことは中浦ジュリアンにとって、信じることで必ず御加護が与えられる、ということを感じさせたのではないのでしょうか。

信仰を曲げない強い意志

中浦ジュリアンが処せられた「穴吊るしの刑」はキリシタン弾圧の刑罰の中で非常に過酷なことで有名でした。深さ2メートルほどの穴に逆さ吊るしにされ、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることでことで簡単に死ぬことはできず、一方で棄教の意思表示は容易にできるというものでした。

この拷問によってポルトガル出身の宣教師ですら棄教を宣言しています。中浦ジュリアンはその過酷な責めに対しても自らの意思を曲げず、最後には「私はローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と叫んだといいます。最後まで自らの意思を曲げない強い意志のあらわれではないでしょうか。

フィクションにおける中浦ジュリアン

フィクションにおける中浦ジュリアンを解説します。

ドラマ、漫画、小説などにおける中浦ジュリアン

天正遣欧使節についてはドラマ、マンガ、小説など様々な作品が制作されています。

最近では「MAGI-天正遣欧少年使節」というドラマが制作され、Amazon Prime Videoで世界中に配信されています。中浦ジュリアン役は森永悠希が演じました。

中浦ジュリアンは地味ながらもまじめな努力家

他の使節のメンバーである伊東マンショや原マルチノが秀でた才能の持ち主であったと伝わっていることに対して、中浦ジュリアンにはそのような逸話はあまり伝わっておらず地味な印象を受けます。しかし、その分地道な活動を長年続け、幕府の弾圧という過酷な状況の中で、多くの信者から慕われ、頼られる存在でした。

中浦ジュリアンの生誕地とされる場所は現在「中浦ジュリアン記念公園」として整備され、資料やゆかりの品などが保存されています。中浦ジュリアンの真っ直ぐな気持ちは現在に至るまで多くの人々の手で伝えられています。