村田珠光は一休に師事した侘び茶の創始者!心の文に残された珠玉の名言とは

村田珠光は室町時代中期の茶人で、茶の湯と禅の考えを融合させ「侘び茶」を創設し、茶道の祖とも呼ばれています。弟子に残した「心の文」と呼ばれる手紙が有名で、そこに記された茶の湯の心は、現代にまで繋がり、大切にされています。

この記事では村田珠光の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。村田珠光がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのかなど、様々な視点から解説していきます。

村田珠光の基本情報

村田珠光(むらたじゅこう)は大和国出身で室町時代中期を生きた僧侶・茶人です。

足利義政に茶の師範として仕えたとも言われていますが、その伝承ははっきりとしていません。

村田珠光の人生(年表付き)

できごと

称名寺にて修行、不良僧だった?

1423年に盲目で琵琶法師であったと言われる村田杢市を父として誕生し、11歳の時、浄土宗称名寺に入り出家します。しかし、幼い頃から茶を好み、当時流行していた奈良流という闘茶(お茶を飲んで、香りや味から産地を当てる遊び)にふけるようになります。そのうちに、寺での仕事も怠るようになり、出家し自由に動けない自分の身分を厭うまでになってしまいます。

一説では、村田珠光が25歳の時、両親と称名寺の両者から勘当され還俗し、京都において商人になったと言われています。

諸国放浪と一休宗純との出会い

こうして称名寺を出た村田珠光は、諸国放浪の旅に出ます。30歳頃、臨済宗大徳寺派の一休宗純と出会い門弟となり、禅の修行を開始します。その結果、茶の世界に禅の考えを取り入れた「茶禅一味」という境地に至り、茶を点てることで心の静けさを探求すること、精神的な発展を目指すことに重きを置くようになります。

さらに、「殿中の茶」と、諸国放浪の中で出会った「地下の茶」を融合させて、「侘び茶」という新しい茶の概念を打ち出します。

殿中の茶は、貴族や武士の間で行われていた茶で、唐物などの美術品・骨董品を部屋中に飾り立てて行われ、話題の中心が茶よりも茶器や道具の鑑賞となるものでした。一方の地下の茶は、庶民の間で行われていた地味で簡素なもので、飲むのも粗末な抹茶であり、茶器が重要視されることはありませんでした。

1467年から応仁の乱が勃発すると、村田珠光は大和国に戻り、東大寺の近くの北川端町に草庵を結び、そこで茶の湯を行うようになります。この草庵は、これまで殿中の茶では18畳ほどの広い茶室を用いたのに対して、4畳半しかない非常に粗末なものであり、北川端町自体も民家もない田園地帯でした。

4畳半しかない茶室では、自然と装飾品の数や茶室に入ることが出来る人の数も限られることとなり、「装飾品の披露場・社交場」であった茶室を「限られた少人数の者が精神を研ぎ澄ませ心を通じさせる場」へと変化させました。

足利義政と銀閣寺

諸国放浪中、村田珠光は画家で連歌師の能阿弥とも親交を持ちます。唐物奉行であった能阿弥からは、殿中の茶の指導を受けるとともに、水墨画や花道、香道、そして唐物の鑑定など多くの事を学んでいます。

また能阿弥は8代将軍・足利義政の同朋衆(将軍の雑務や、芸能関係を執り行う役職)であり、その紹介を受けて足利義政の茶指南役として仕えるようになったと言われています。能阿弥の紹介があったかどうかは、現在の茶道史研究では否定されるのが一般的なようですが、銀閣寺東求堂の書院、同人斎が4畳半であるのは、村田珠光が進言したものであると言われており、また村田珠光の草庵に、足利義政が「珠光庵主」の文字を与えたとも言われています。

村田珠光の人柄・人物像

村田珠光の人柄や人物像について説明します。

村田珠光の人柄については、直接的にどのような性格であったかについて述べられた資料は乏しいですが、後述の村田珠光の残した名言、特に「心の文」からは、彼の人となりが垣間見得ます。

連歌師との関わりと多くの弟子の育成

25歳頃から諸国放浪の旅に出た村田珠光ですが、その旅の中で多くの人々と関わります。中でも能阿弥や柴屋軒宗長らの当時を代表する優れた連歌師らと多く関わり、影響を受けたと言われています。

連歌の世界では、村田珠光が侘び茶の境地に辿り着く前から、それに似た考えが語られていました。ある室町時代の連歌師の和歌批評の中に、「品格の高い冷え枯れた境地にある歌だ」という言葉が残っています。村田珠光が冷え枯れたものを美しいと考えるようになったのは、このような連歌の世界の影響もあったと考えられます。

また村田珠光は、武将の古市澄胤、山名氏家臣の松本珠報、興福寺西福院主、商人志野宗信、石黒道堤、鳥居引拙と、幅広い身分の者を平等に弟子として受け入れています。中でも古市澄胤・鳥居引拙は、後世においても名を残す茶人へと成長しています。

このように、これまでの既成概念にとらわれずに、自らが良いと思うものは積極的に取り入れていく好奇心旺盛さと、また積極的に人と関わっていく社交性に富んだ性格であったのではないかと思われます。

一休宗純・山上宗二からの評価

一休宗純は自著『自戒集』において、当時の腐敗した禅僧の様子を嘆くとともに、自分は師匠から印可をもらっていないし、弟子の誰にもこれを与えるつもりはないと記しています。

それにも関わらず、弟子とした村田珠光に対し、圜悟克勤という宋代の禅僧の墨跡を印可の証として与えています。このことは、師である一休宗純から禅僧としても高く評価されていたことが伺えます。

また一休宗純の死後、応仁の乱によって焼失した真珠庵(一休宗純を開祖とする大徳寺塔頭)を1491年に再建する際に、村田珠光が寄進を行なった記録が残っており、村田珠光が一休宗純への恩を忘れない忠義者であったことも分かります。

千利休の弟子・山上宗二が著した『山上宗二記』では、直属の弟子である鳥居引拙、孫弟子である武野紹鴎と並び「古今の名人」と紹介されており、千利休の時代においても尊敬され高く評価されていたことがわかります。

村田珠光の名言・エピソード

村田珠光の名言やエピソードについて解説します。

心の文

弟子・古市澄胤に宛てた手紙で、「茶道」という言葉がまだ存在しなかった時代において、この手紙の中で初めて茶の湯をに対して「道」という言葉を使ったことから、村田珠光が侘び茶の創始者で、茶道の祖と呼ばれる所以になっています。

なお、弟子古市澄胤は大和国の豪族・武将であり、「淋汗茶湯」と呼ばれる、風呂に入らせてもてなしたあと、抹茶を飲んで一服するという派手な寄合いを行なっていることで有名な古市家の生まれです。村田珠光は彼の慢心や執着心を見抜き、この手紙によってそれたしなめ再び歓楽に戻らないよう諭そうとしたと言われています。

(現代語訳)

この道(=茶)において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もってのほかではないか。本来、達人には近づき教えを乞い、初心者には目をかけて育ててやるべきであろう。

そしてこの道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境界を取り払うこと。異文化を吸収し、自分独自の展開をする。これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。

さて昨今、「冷え枯れる」と言って、初心者が備前・信楽焼などを持ち、名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、心の成長に合わせ位を得、やがて辿り着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。これこそ茶の湯の面白さなのだ。

とはいうものの、それほどまでに至らない者は、道具へのこだわりを捨てよ。たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、人に教えを乞う姿勢が大事である。それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。

この道の至言として、

わが心の師となれ 心を師とするな(己の心を導く師となれ 執着に囚われた心を師とするな)

と古人も言う。

「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」「月も雲間が無きは嫌にて候」

藁屋に名馬をつなぎたるがよし=藁を積むような粗末な小屋に名馬がいるのが美しい

月も雲間が無きは嫌にて候=月は満月よりも、雲がかかっているくらいが美しいものだ

2つの名言ともに、詫びたものと名品の対比の中に美しさを見出し、完全性を否定して、足りない事を楽しむという村田珠光の姿勢が示されています。

村田珠光は茶の世界を新たに開拓した「茶道の祖」だった

村田珠光は同時代において派手で社交場としての性格が強かった茶の湯の世界に、禅の考えを持ち込み、茶によって精神を高める「茶道」を創設し、新しい価値観の茶「侘び茶」を生み出しました。

その考えは武野紹鴎、そして千利休へと受け継がれ、現在の茶道へと繋がっていきます。当時の村田珠光の事績を記す資料は少なく、その生涯は伝承の範囲を出ないところが多いですが、弟子に残した「心の文」からは、茶道だけでなく人間の生き方を示すものとして、現代においても重要な価値があると言えるでしょう。