村上義清は武田信玄を2度破った最強クラスの武将!墓や逸話について!

村上義清は北信濃の大名で、あの武田信玄を2度破っています。武田信玄のライバルと言えば上杉謙信のイメージが強いですが、最初のライバルはこの村上義清と言っても過言ではありません。

今回は村上義清の人生を年表付き分かり易く解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介していきたと思います。

村上義清の基本情報

村上義清の人生

できごと

誕生

村上義清は、北信濃の戦国大名:村上顕国の息子として生まれました。1515年、13歳で元服し、右京権亮と称しています。このころに村上顕国の支配下にあった小川氏が背いたため、隣接地の高坂氏大日方氏にこれを討たせたとされていますが、これについては定かではありません。

1516年には従五位に叙任され、佐渡守に任官されています。1517年に父:村上顕国に葛尾城を譲られ、1520年に病死した父の跡を受けて、家督を相続しています。村上顕国が病死したのが、1526年という説もあります。

武田信玄を2度破る

その後、1521年に従四位下に昇叙し、左衛門佐に転任。1527年に左近衛少将に転任し、1536年には正四位上に昇叙しています。当時の村上家は北信濃では、井上氏や高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾としていた海野氏を抑え込んでいました。信濃の守護代であった大井氏を下し、甲斐の武田氏と抗争を続けていました。

1541年の海野平の戦いにおいて、小県郡を完全に掌握し、村上氏最大の領土を築きます。しかし、武田氏は武田信虎の跡を受けた武田信玄の元、信濃に攻勢に出てきており、1548年に小県南部へ侵攻してきており、村上義清は上田原の戦いで武田信玄を破っています。

この戦いで、武田軍は、重臣の板垣信方、甘利虎泰を失うなどの損害を受けており、武田信玄が喫した初めての敗北とも言われています。1550年、村上義清は高梨政頼と戦うため、本領を留守にした隙に、武田信玄が要衝である砥石城に攻め込んできます。これを受け、村上義清は高遠政頼と和睦し、砥石城の応援に駆けつけます。

兵力において圧倒的に優勢だった武田軍でしたが、難攻不落の砥石城に苦戦。応援にかけつけた村上義清軍は2000ほどでしたが、砥石城兵と村上本隊が挟み撃ちに成功し、武田軍は戦況の不利を悟り、退却。これを村上軍は追撃し、武田軍は1000人ほどの死傷者を出す大敗を喫し、武田信玄も身代わりの影武者を立て、脱出する有様でした。

この戦いを砥石崩れと言われており、武田軍が大敗した合戦として知られています。武田信玄を二度破った村上義清ですが、海野平の戦いで亡命していた真田幸隆が武田家に仕官し、村上家重臣への調略を開始。その結果、1551年に砥石城は落城し、家臣団に動揺が広がります。その後も村上方から武田方へ寝返る諸将が続出し、村上義清は越後に亡命しています。

川中島の戦いの後は、上杉家家臣に

村上義清は、越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼っています。これを受け上杉軍は北信濃に出兵します。これが、上杉軍と武田軍が激戦を繰り広げた5度に渡る川中島の戦いのきっかけになりました。その後、村上義清は上杉家の家臣に迎えられ、嫡男の村上国清は、山浦姓を与えられ上杉謙信の養子に迎えられています。

1561年の第四次川中島の戦いで村上義清は、武田信玄の弟:武田信繁を討ち取ったとされています。1573年1月1日に、村上義清は越後根知城にて病死しています(享年:73歳)。宿敵:武田信玄はその5ヵ月後に病死しています。1582年に武田氏が滅亡すると、村上国清は信濃海津城代に任命され、村上氏は旧領を回復しています。

村上義清の人柄・人物像

村上義清の人柄や人物像について、紹介していきたいと思います。

武田信玄が苦戦した相手

後に「甲斐の虎」と言われた武田信玄が、最初に苦戦した相手が村上義清でした。武田軍の信濃侵攻は当初は順調でしたが、大きな壁にぶちあたります。それが村上義清の存在でした。村上義清は武田信玄を2度破っていることから、強い武将であったと言われています。

武田信玄も村上義清を力で攻略できなかったため、調略に切り替えて、信濃から追うことに成功しています。この調略の成功が真田幸隆の名を大いに高めることになりました。これ以後、真田幸隆は武田家重臣として重宝され、知略は息子の真田昌幸に受け継がれ、孫の真田幸村は大坂の陣での活躍から「日本一の兵」と後世に伝えられています。

豪胆で血気盛んだった

村上義清は、合戦においては自ら先頭に立って敵陣に切り込むような猛将であったと言われています。また、長槍術の達人と言われ、戦場で長槍を用いた戦術の創始者の1人とも伝えられています。後に上杉軍として川中島の戦いに参戦していますが、上杉謙信も村上義清の存在だけでも武田軍に恐怖を与えられると考えていたのかもしれません。

村上義清の名言・エピソード

村上義清の名言やエピソードについて紹介していきたいと思います。

源氏の末裔だった村上義清

村上氏の先祖は清和源氏の一族とされ、最初に村上姓を名乗ったのが源仲宗とされていますが、これについては定かではありません。源仲宗の嫡男:源顕清が白河上皇を呪詛したことで、本人だけでなく一族も連座制問われ、源仲宗の一族が信濃に流罪になったことが信濃村上氏の始まりとされています。

その後、鎌倉時代・室町時代と村上氏は目立った活躍はありませんでしたが、村上義清の代に戦国大名として最盛期を築いています。しかし、村上義清が武田軍に追われると、村上氏は上杉家の家臣として取り立てられます。その後村上国清が旧領を回復しますが、上杉景勝に他家との内通を疑われ、海津城代を追われたことから、家臣も四散して没落し、歴史から姿を消しています。

現代の村上姓は瀬戸内地方に多くあると言われています。これは村上水軍(戦国時代は毛利氏に協力)の末裔とされており、村上水軍の先祖と信濃村上氏の先祖が同じだということは証明されていません。しかし2005年、新潟県において村上サミットが開催されており、全国の「村上姓」が集まったとされています。

村上義清の墓について

村上義清のお墓ですが、亡くなった際の居城である越後:根知城があった新潟県糸魚川市の安福寺にあります。しかし、もう一つお墓があると言われています。村上義清が亡くなって84年後の1657年に長谷川利次という代官が村上義清を供養するために、お墓を立てました。その場所がかつての村上義清の居城だった葛尾城の城下でした。

長谷川利次は葛尾城周辺の町を担当していた代官で、地元の名家であった村上氏を偲び、村上義清の子孫と相談して、わざわざ安福寺から分骨して村上義清の墓を建立したそうです。地元の良い話であり、感慨深いものを感じます。

フィクションにおける村上義清

フィクションにおける村上義清について、紹介していきます。

信長の野望における村上義清

村上義清の能力値ですが、統率:89、武勇:92、知略:71、政治:51と完全な猛将タイプです。しかし、知略が70以上のため、武勇一辺倒の武将ではなさそうです。合戦や軍事ではかなり重宝されそうです。

ドラマにおける村上義清

村上義清が登場するドラマとしては、大河ドラマ「武田信玄(1988年)」、「風林火山(2008年)」があり、武田信玄の仇敵として描かれることが多いです。武田信玄のライバルと言うと上杉謙信のイメージが強いですが、村上義清も以前よりは脚光を浴びてきたようにも思えます。

村上義清は武田信玄を2度破った猛将

村上義清は武勇一辺倒のイメージが強いですが、優れた戦略家の側面もあるように思えます。武田信玄を2度破っていることから、一定以上の知略もあったと考えられます。また川中島の戦いの戦いに参戦していることから、旧領の回復に執念を燃やしていたことも伺えます。