村上武吉は村上海賊の内、最も勢力を誇った能島村上海賊の大将をつとめた人物です。
瀬戸内地方の有力大名毛利家に仕え、織田信長・豊臣秀吉らにもその軍事力を大いに警戒されました。大ヒットした和田竜氏著『村上海賊の娘』主人公・景の父であり、瀬戸内地方ではカリスマ的存在として尊敬を集めています。
そんな村上武吉がどんな生涯を送ったのか、年表や逸話を紹介しながら解説します。
村上武吉の基本情報
本名 | 村上武吉(むらかみたけよし) |
生涯 | 天文2年(1533年)頃〜慶長9年8月22日(1604年9月15日) |
時代 | 戦国時代〜江戸時代初期 |
出身国 | 伊予国 |
居城 | 能島城 |
主君 | 毛利元就→毛利隆元→毛利輝元→小早川隆景→毛利輝元 |
官位 | 掃部頭、大和守 |
妻(正室) | 村上通康の娘 |
子 | 村上元吉、村上景親 |
村上武吉(むらかみたけよし)は、伊予国出身の戦国時代から江戸時代初期を生きた武将で、瀬戸内海で海賊活動を行った能島村上水軍の大将です。厳島の戦いを機に、毛利元就、その子孫である歴代毛利家当主に仕えました。
村上武吉の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1533年頃 | 誕生 |
1541年頃〜1551年頃 | 家督争いを制し、能島当主となる |
1555年 | 毛利元就と陶晴賢の間で起った厳島の戦いに参戦し勝利する |
1571年2月〜1572年 | 小早隆景らに能島を包囲・海上封鎖される |
1576年 | 毛利輝元と織田信長の間で起った第一次木津川口の戦いに参戦し大勝する |
1578年 | 第二次木津川口の戦いに参戦するも大敗する |
1582年 | 本能寺の変が勃発し、毛利輝元が豊臣秀吉と和睦
小早川隆景からの攻撃を受け能島城を追われる 家督を長男の村上元吉に譲る |
1588年 | 海賊停止令が発布される |
1600年 | 関ヶ原の戦いが勃発。長男村上元吉が西軍に参加、戦死 |
1604年 | 死去 |
家督相続
村上海賊は、能島村上家、因島村上家、来島村上家の3家に別れており、南北朝の時代より、時に協力し時に争いながら独自に勢力を保っていました。しかし、村上武吉の父が死去すると、従兄の村上義益との間に「能島騒動」と呼ばれる家督争いが発生します。来島村上家が村上義益に加勢し苦戦、退却を余儀なくされます。
しかし叔父である村上隆重の支援を受けたことから状況は一変し、村上義益を撃破します。この戦いに勝利したことから、村上武吉が能島当主となり、来島村上家とも和議を結び、能島村上家が3島の頭領格にのし上がることとなりました。
村上武吉が当主となると、村上水軍は瀬戸内海を航行する船に対し、通行税である「帆別銭」を徴収するようになります。
帆別銭を支払った船は村上水軍の旗印を掲げることで村上水軍が後盾にあることを示し、他の海賊から襲われることなく安全に航海することが出来るようになったのです。これが大きな収入源となり、村上水軍の最盛期を向かえます。
厳島の戦いと、その後
1551年、周防・安芸等の守護をつとめていた大内義隆が、家臣である陶晴賢に殺害される事件が起こります。
同じく大内義隆の家臣であった毛利元就は、その仇討ちを名目に掲げ、陶晴賢に対し攻撃を仕掛け始め、ついに1555年、厳島の戦いが勃発します。同じ頃、陶晴賢と能島村上家の間では、陶氏の帆別銭未払いに起因し、争いが続いていました。
そんな状況下、毛利方に協力を要請され、村上海賊も出兵します。実際に村上武吉が出兵したかどうかは諸説ある所ですが、これを機に村上海賊と毛利家の結びつきが強くなります。しかし、1571年に毛利元就が死去すると、村上武吉は毛利家に反旗を翻します。
以前から南蛮貿易で利益を得ようと豊後の大友宗麟から持ちかけられていたものの、毛利元就の三男小早川隆景に制止され、能島・因島・来島の3家ともこれを拒否していました。
しかし、村上武吉はこの制止を振り切り大友宗麟に寝返ったのです。小早川隆景は能島城を包囲・海上封鎖し孤立させます。補給を絶たれた村上武吉はついに降伏勧告を受け入れ、以降は毛利水軍の一派として益々活動することとなります。
特に石山本願寺と織田信長の対立に端を発する、毛利氏対織田氏の第一次木津川の戦いにおいて、村上水軍は大いに活躍し、勝利を納めます。この戦いには、村上武吉の長男、村上元吉が参陣しています。
ところが続く第二次木津川の戦いにおいては、村上武吉自身が指揮をとった水軍が、織田氏の大鉄砲を搭載した鉄甲船の前に大敗を喫します。
海賊停止令を受けて
1582年、本能寺の変により織田信長が倒されます。この大事件を機に、当時争っていた毛利輝元と豊臣秀吉が和解。山崎の戦いで明智光秀を討った豊臣秀吉が天下人となります。
この頃、来島を占領していた村上武吉は、その返還を命じられますが、これを拒否します。加えて四国攻めの要請も拒絶したため、既に豊臣秀吉の臣下に下っていた小早川隆景から攻められ、占領していた来島だけでなく本拠地能島まで明け渡すことになります。
1588年には海賊停止令が発布され、村上水軍の帆別銭徴収はこれに反すると詰問を受け、毛利家の家臣に組み込まれます。村上武吉は、周防の島へと、更に小早川隆景の跡を小早川秀秋が継ぐと長門へと移ります。豊臣秀吉の死去直前の1598年には豊臣姓を与えられ、瀬戸内海沿岸の竹原へと移り石高を与えられます。
関ヶ原の戦いが勃発すると、家督を継いでいた長男村上元吉が毛利方として西軍に参陣し戦死します。毛利家の減封に伴い竹原を離れることとなり、江戸幕府が全国の海を掌握、ここに村上水軍は壊滅します。村上武吉は周防大島に渡り移り、1604年に72歳で死去します。
村上武吉の人柄・人物像
村上武吉の人柄や人物像についてまとめます。
ルイス・フロイスによる評価
宣教師ルイス・フロイス著『日本史』において、村上武吉は日本最大の海賊と称され、以下のような記録が残っています。
「大きい城を構え多数の部下や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。他国の沿岸や海辺の人々は彼らによる襲撃を恐れ、毎年年貢を献上していた」このようにルイス・フロイスの目には、村上武吉は絶大な軍事力を背景に富を築き上げる野蛮な海賊として映っていたようです。
教養があり雅な一面も
「海賊」の名から持たれる野蛮なイメージとは裏腹に、村上武吉は雅な一面も持ち合わせていました。連歌を好み多数の作品を残し、頻繁に連歌会も催しています。また海の安全を願う為に信仰心も深く、伊予国大山祇神社を崇め、また光林寺に灯篭を寄進したという記録も残っています。
村上武吉の名言・エピソード
村上武吉の名言やエピソードについて解説します。
毛利元就も恐れた軍事力「1日だけ味方になって」
厳島の戦いの際、村上武吉はすんなりと毛利方についた訳ではありません。それまで毛利元就は村上水軍の軍事力を恐れ砦を築く等、大いに警戒してきました。
戦いに際しこの強大な軍事力を手に入れようと何度も使いが出されましたが、村上武吉は臣下につくことを良しとせず中々首を縦に振らず、「1日だけの味方で良いから」という条件でやっと毛利氏の為に水軍の派遣を承諾しました。
村上水軍を味方につけたことで、数の上では圧倒的に不利だった毛利軍が、日本三大奇襲の一つに数えられる厳島の戦いを制したのです。村上武吉が著した水軍の兵法書『村上舟戦要法』は、バルチック艦隊を撃破した秋山真之の丁字戦法にも参考にされたと言われています。
村上武吉は愛妻家?子孫は以外と多い!
村上水軍の最盛期を築き莫大な富と名声も得た村上武吉ですが、意外にもその妻は生涯ただ一人で、側室を置きませんでした。その妻とは家督争いの能島騒動の和議の証として結婚しており、完全に政略結婚であったにも関わらずです。2人の間には村上元吉・景親の兄弟が産まれましたが、何人も女性を養女として引き取って育てています。
現在でも広島県尾道市や愛媛県今治市は「村上」という姓が多い地域として知られます。おそらく、宗家直系の子孫ではないものの、村上水軍の一員だった者・村上武吉への尊敬心から村上姓を名乗る者が多かったのだと思われます。
村上海軍の末裔を名乗る人は多く、芸能人でも村上ジョージさんや村上信五さん(関ジャニ∞)等が挙げられます。
フィクションにおける村上武吉
フィクションにおける村上武吉を解説します。
和田竜氏著『村上海賊の娘』における村上武吉
和田竜氏著『村上海軍の娘』が2014年に本屋大賞を受賞し、村上海賊の名を全国に知らしめました。主人公で男勝りな若き女海賊景の父親である村上武吉は、飄々とした食わせ者で、卓越した指導力を持つ一方、景には甘く娘の輿入れ先を悩む父親らしい一面も持つ人物として描かれています。
信長の野望における村上武吉
信長の野望における村上武吉の能力値は、作品によって異なりますが、統率82・武勇86・知略78・内政38・外政52。大名としての志は「大海賊」です。登用出来れば力強い守護神となってくれるキャラクターとなっています。
村上武吉は村上海賊の最盛期を築いた水軍大将
村上武吉は帆別銭の徴収で海の治安を守ると同時に富を築きあげ、多くの戦で戦果を挙げた人物でした。彼の活躍なしでは毛利家の繁栄も無かったと言っても過言ではないでしょう。最後は臣下に下り拠点を転々とした後、村上海賊の終焉を向かえてしまいましたが、その名は今も語り継がれ瀬戸内のヒーローとして尊敬を集めています。