毛利隆元は厳島の戦いの引金を引いた?名言は家訓として残る有能な武将だった!

毛利隆元は毛利元就の息子で、「毛利の3本矢」と呼ばれる兄弟の長男にあたります。軍事では次男吉川元春、知略では三男小早川景隆の活躍が有名で「毛利両川」と賞賛されており、毛利隆元はその影に隠れがちですが、毛利家当主として、父・毛利元就と並んで毛利氏が守護大名へと成長する基礎を築いた武将です。

この記事では毛利隆元の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。毛利隆元がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマにおける毛利隆元など、様々な視点から解説していきます。

毛利隆元の基本情報

毛利隆元(もうりたかもと)は安芸国出身の戦国時代を生きた武将です。

はじめ守護大名大内義隆に仕えましたが、家臣によって彼が殺害されて以降は、毛利家当主となり自らが安芸国や周防国の守護大名となりました。

毛利隆元の人生(年表付き)

できごと

毛利家当主となるまで

毛利隆元は、1523年に毛利元就の嫡男として誕生しますが、当時の毛利元就は大内氏に臣従する身分にすぎず、1537年にその忠誠を示すために大内義隆の元へと人質に入ります。同じように弟達も、吉川家・小早川家へとそれぞれ養子に入っています。

大内義隆の下で元服を済ませた毛利隆元は、公家文化好きだった大内義隆の影響を強く受けながら育ちます。毛利隆元は非常に端正な顔立ちであったようで、大内義隆に気に入られ、大変厚い待遇を受けました。またこの生活の中で大内氏家臣であり後に舅となる内藤興盛や、陶晴賢らとの親交も深めます。

1540年に帰国の許が出て父の元へ戻ると、1542年に勃発した月山富田城攻めに参陣します。

尼子氏が安芸の支配を奪おうと侵攻を開始し、大内氏・毛利氏軍と敵対したことにより戦いが始まりました。この戦いで毛利軍は最後尾部隊を務め、毛利隆元は厳しい撤退戦を経験します。しかし、戦いは長期間に及んだ末に敗退を喫しました。これ以降大内氏は衰退、尼子氏は繁栄していくこととなります。

1546年に突然毛利元就が隠居し、家督を毛利元就に譲ります。

そんな矢先の1550年、専横甚だしかった家臣の井上元兼とその一派が、未だ実験を握っていた毛利元就の主導下で粛清されます。そしてその後、毛利隆元は自身に直轄の「五奉行制」を発足させ、新しく透明性の高い行政機構を築き上げていきます。

厳島の戦い

1551年、大内氏家臣陶晴賢によって大内義隆が自害に追い込まれる事件が発生します。(大寧寺の変)

毛利隆元と陶晴賢とは人質時代からの旧知の仲でしたが、彼を「虎狼ノ心」と罵り、主君であり養父とも言える大内義隆の死に悲しみ、怒りに震えます。しかし、毛利元就は悪天候や兵力差を危惧して陶晴賢との対決を渋りました。

そんな父に対し、毛利隆元が「毛利と陶はいずれ決裂する運命にあり、今やらないでいつやるのですか」と一喝したことで、ついに1555年、厳島の戦いが勃発します。毛利元就が危惧していた通り、陶軍が3万程であったのに対し、毛利軍は5千程と数の上で圧倒的不利な状況でした。

しかし、弟・小早川景隆が率いた毛利水軍・村上水軍の活躍や事前の調略などが功をなし、日本三大奇襲の一つに挙げられるこの戦いを制し、陶氏を滅亡させます。

ついに守護大名となる

陶氏の滅亡により守護・大内氏の衰退がさらに加速すると、これをチャンスとみた毛利隆元は大内氏の所領周防国・長門国に攻め入り、1557年に当主大内義長を滅ぼし大内氏旧領を支配します。(防長経略)

しかし、この旧領を巡り大内義長の兄・大友宗麟が豊後国より、そして長年敵対してきた尼子氏が出雲国から攻めてきます。毛利隆元はこの危機的状態を、弟・小早川景隆と協力して大友軍を退けることで乗り越えます。さらに1560年に尼子氏当主の尼子晴久が急死すると、毛利隆元はいち早く大友宗麟と和睦し、尼子氏征伐に全力を傾けるようになります。

そして、毛利隆元が13代将軍足利義輝より、1560年に安芸、1562年に備中・備後・長門、1563年に周防の守護職に任じられたことで、毛利氏は正式な中国地方の守護大名としての立場を確立しました。

破竹の勢いの毛利隆元でしたが、尼子氏攻めに参加する途中であった1563年8月4日に急死します。

前日に備後の武将で家臣の和知誠春より饗宴を受けており、暗殺されたとも、急性アルコール中毒であったのではないかとも言われています。

毛利隆元の人柄・人物像

毛利隆元の人柄や人物像について説明します。

父・毛利元就からの評価

毛利元就が突如隠居し家督譲渡を宣言した際、毛利隆元は非常に狼狽し、「父が隠居するなら、自分も輝元に家督を譲って隠居する」、「父が後見してくれるなら私でも毛利の領地は保てると思う」と弱気の発言を繰り返します。

毛利元就はこれを叱責し、老臣・志道広良を毛利隆元の教育係に任命します。毛利元就は毛利隆元に宛てた手紙の中で「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、経略、調略が肝要に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と戒めており、「優柔不断で武将としての資質に欠けている」とも書き残しています。

大内義隆の影響で教養に優れ温和な性格であった毛利隆元ですが、父からはあまり評価されていなかったようです。

自分への自身の無さはコンプレックスから?

毛利隆元は自分でも「武将としての資質に欠けている」ことを分かっていたようで、「名将の下には不遇な子が生まれる」、「ただただ父上の武運長久、無病息災を願う。そのためには自分の身命を捧げてもよい」などとこぼしています。

父だけでなく、有能な弟達に対しても引け目を感じていたようで、毛利元就への手紙の中で「2人は私の城に来てもすぐ帰ってしまうし、自分の家のことばかり考えて、相談は父上ばかりにする。私は除け者にされています。」と不満を述べています。これを心配した毛利元就が兄弟達を呼びつけ、「三本の矢」で有名な『三子教訓状』を授けたと言われています。

毛利隆元の名言・エピソード

毛利隆元の名言やエピソードについて解説します。

愛妻家

1549年、内藤興盛の娘で大内義隆の養女であった尾崎局と結婚しますが、毛利隆元は彼女を深く愛し、生涯側室を持ちませんでした。また戦場から妻に出した「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田城に戻るというので手紙を書いた」という手紙も残っています。

財政面での活躍

毛利氏の繁栄において、軍事面では弟・吉川元春と小早川景隆の貢献が大きいですが、毛利隆元は内政面、特に財政面で大きく貢献しています。

一例として、厳島の戦い・防長経略の後に旧大内領を手に入れた毛利隆元は、大内氏が勘合貿易で使っていた勘合札を手に入れて大陸との交易を再開するための商業取引を行い、財を得ています。また、温厚な毛利隆元の性格は国人や商人達から慕われ、軍への参加交渉や資金提供、借金を借りるにもスムーズに行うことが出来たと言います。

実際、毛利隆元が死去すると、毛利家の財政は傾いてしまいます。(収入が4000石程減少)弟達はこの時に兄のこれまでの尽力を痛感し、以降毛利家のために一層尽くすようになったと言われています。

毛利家御家訓

毛利隆元が五奉行制を創設した当初は、父・毛利元就の派閥と毛利隆元の派閥が対立してしまい、これをなんとか治めようと訓戒状を発給します。そしてこの時に発された言葉の多くが『毛利家御家訓』として残り宗家運営の模範とされます。

「文を以って治め、武を以って守る。功あるを賞すれば、すなわち忠ある者が増える。罪を罰すれば、すなわち咎ある者は減る。賞罰を行うに躊躇せず。」等の言葉がその一例です。

フィクションにおける毛利隆元

フィクションにおける毛利隆元を解説します。

信長の野望における毛利隆元

シリーズによっても異なりますが、ステータスは統率78、武勇70、知略77、内政85、外政71となっています。父や弟達と比較すると低い数値ですが、バランスのとれたステータスとなっています。また内政85という高数値が目立ちます。

ドラマにおける毛利隆元

1997年の大河ドラマ『毛利元就』に登場し、俳優の上川隆也さんが演じています。

偉大な父や優秀な弟達との狭間で苦悩し、父の得意とする謀略戦には懐疑的な人物として描かれています。その死去に際しては、毛利元就(演:中村橋之助)がその名を叫び悲しむシーンもありました。

毛利隆元は生涯劣等感を持ち続けたが、実は毛利家繁栄の影の立役者だった

父や弟達の活躍と比較すると、どうしても影の薄い毛利隆元ですが、実は内政・財政面から毛利家の覇業を支えていました。父や弟達からも、毛利隆元の存在感が強く認識されたのはその死後であったかもしれませんが、毛利元就も彼の死を深く悲しみ、「隆元の存命中は世の中に恐れも少なかったものだ」と述べたと言われます。

軍事の面でも、父を一括して運命を決した一戦・厳島の戦いを勃発させたり、また大友氏との戦いにおいても武功をたてており、決して武勇に欠ける人物ではありませんでした。

毛利の3本の矢の1本であり、温和な性格で慕われた毛利隆元は、仁徳の武将として高く評価することができるでしょう。