森可成は、織田信長の家臣として戦場で活躍。森長可、森蘭丸の父親と言った方が通じるかもしれません。織田信長の天下統一の過程で戦死してしまいますが、その功績は認められており、子供たちは武将や側近として取り立てられています。今回は森可成の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介してきたいと思います。
森可成の基本情報
本名 | 森可成 |
生涯 | 大永3年(1523)~元亀元年(1570) |
時代 | 戦国時代 |
出身国 | 美濃国 |
居城 | 金山城(美濃)→宇佐山城(近江) |
主君 | 土岐氏→織田信長 |
官位 | 不明 |
妻(正室) | えい(妙向尼、林通安の娘) |
子 | 可隆、長可、蘭丸(成利)、坊丸、力丸、忠政、碧松院(関成政室)、娘(青木秀重室)、うめ(木下勝俊室) |
森可成の人生
年 | できごと |
---|---|
1523年 | 誕生 |
1554年 | 織田信長に仕える |
1555年 | 織田信長の清洲攻めに参戦。織田信友を討ち取る武功を挙げる |
1556年 | 美濃で斎藤道三VS斎藤義龍による内紛がおこる。森可成は織田信長軍に加わり、斎藤道三の救援に向かうが、斎藤道三が戦死したため、合戦は行われず |
1556年 | 稲生の戦い(織田信長VS織田信勝)に参戦 |
1558年 | 浮野の戦いに参戦 |
1560年 | 桶狭間の戦いに参戦 |
1565年 | 美濃攻略戦での武功で美濃金山城を与えられる |
1568年 | 織田信長が上洛。森可成は柴田勝家と共に先鋒をつとめる。この時の功績により、近江宇佐山城を与えられる |
1570年 | 姉川の戦いに参戦 |
1570年 | 浅井・朝倉連合軍が攻め寄せてくる。最初は撃退するも比叡山延暦寺が浅井・浅井軍として参戦。奮戦するも討死(享年:48歳) |
土岐氏滅亡後、織田信長の家臣に
森可成は、森可行の息子として尾張国葉栗郡蓮台(現:岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。当初は美濃の守護の土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三が土岐氏を滅ぼした後の1554年には尾張の織田信長に仕えています。
織田信長の家督相続と尾張統一に尽力し、1555年の清洲城攻めでは織田信友を討つ功績を挙げています。1556年に美濃で斎藤道三と斎藤義龍による内乱がおこると、織田信長の舅にあたる斎藤道三を援助し、織田信長と弟:織田信勝(信行)による家督争いである稲生の戦いにも参戦しています。
多くの合戦で活躍
その後、1558年の浮野の戦い、1560年の桶狭間の戦いにも参加。美濃攻略でも武功を挙げ、1565年に美濃金山城を与えられています。1568年に美濃を攻略した織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、柴田勝家と共に先鋒を務めました。上洛後には近江宇佐山城を与えられています。
1570年の姉川の戦いにも参戦し、突撃してきた磯野員昌隊を阻止するなど活躍しています。
大軍を相手に奮戦するも、討死
1570年9月、宇佐山城に在った森可成は、浅井・朝倉連合軍の進撃を阻止するために、坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に浅井・朝倉軍3万をわずか1千で撃退しています。しかし、石山本願寺法主:顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も浅井・朝倉連合軍に加わり、敵の数は増大します。
しかし、9月20日には、連合軍の先鋒を押し返すなど健闘を見せますが、数に勝る敵軍の勢いに押され、討ち死にしています(宇佐山城の戦い)享年48歳。織田信長は直後に、比叡山延暦寺を焼き討ちをしていますが、これは森可成の死の弔い合戦という見方もありますが、定かではありません。森可成の戦死については、文書が残っており、壮絶なものであったと現代に伝わっています。
森可成の人柄・人物像
森可成の人柄や人物像について、紹介していきます。
武勇の誉れ高い武将
森可成は、十文字槍の使い手で武勇の誉れ高く「攻めの三左」の異名を誇っていました。織田家においては柴田勝家よりから織田信長に仕えていたことから、織田信長の信頼も厚かったようです。武辺者のイメージがありますが、織田信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに非常に多くの文章を発しており、織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたことが伺えます。
武具や甲冑にもこだわり
森可成は、槍だけでなく武具や甲冑にもこだわりも持っていたと言われています。戦国時代は兜にこだわりを持っていた武将もいました。直江兼続の「愛」の前立てや、伊達政宗の「三日月」もそうです。
森可成の兜は、兜は鉄錆地の頭形鉢で、眉庇上に眉を打ち出すデザインで存在感は抜群でした。森可成は鎧を黒で統一していたこともあり、敵は本能的な恐怖を抱かせることに大いに役立ったと思われます。
森可成の名言・エピソード
森可成の名言やエピソードについて、紹介したいと思います。
愛妻家であり、子供たちは取り立てられた
森可成は正室:えいとの間に、六男三女と子宝に恵まれています。森可成の死後、跡継ぎの森長可は武将として取り立てられ、1582年の甲州征伐では先鋒部隊の将として活躍しています。戦後は、恩賞として信濃川中島四郡と海津城20万石を与えられています。父:森可成譲りの武勇と槍術に優れていたことから、「鬼武蔵」と呼ばれていました。
三男の森蘭丸(成利)は、1577年に織田信長に小姓として抜擢されています。後に弟の坊丸、力丸も織田信長の小姓に取り立てられています。以後は織田信長と共に行動し、本能寺の変の際は1万人以上の明智軍相手に奮戦していますが、討ち死にしています(享年:18歳)。坊丸、力丸も運命を共にしています。
森可成の息子は6人中5人が戦死
森可成には6人の息子がいましたが、そのうち5人が戦死しています。まず長男の森可隆ですが、父:森可成と共に宇佐山城の戦いで戦死。長男が戦死したため、次男の森長可が跡継ぎになりますが、1584年の小牧・長久手の戦いで戦死。三男:森蘭丸・四男:森坊丸、五男:森力丸は、本能寺の変で織田信長と共に戦死しています。
このように森家の男子は相次いで戦死しており、森可成の正室で兄弟の母親:えい(妙向尼)の悲しみはいかばかりであったかと察してしまいます。最終的に森家は六男:森忠政が継ぎ、後に信濃川中島13万石が与えられ、その後、美作18万石へと栄転しています。森家の家名は以降、明治時代まで存続しています。
フィクションにおける森可成
フィクションにおける森可成について、紹介したいと思います。
信長の野望における森可成
森可成の能力値ですが、統率:70、武勇:83、知略:65、政治:44、と軍事的な能力が高めです。以前はもっと能力値が低めでしたが、シリーズごとに評価が見直され、能力値が上がってきた印象です。ほぼ戦闘要員として使用するイメージがあります。
ドラマにおける森可成
森可成は、「信長協奏曲」、「殿といっしょ」、「信長の忍び」などの漫画作品に登場しています。作中で森可成は織田信長に仕える猛将で、子だくさんのビックダディとしてイメージで描かれています。特に「信長の忍び」は森可成が史上最も活躍した漫画の呼び声が高く、イケメン武将になっています。これは息子の森蘭丸が美男子であったことから、それを参考にしていると思われます。
森可成は織田信長の信頼厚き猛将
森可成は、森蘭丸の父親のイメージが強いです。あまり知られていませんが織田家への仕官歴は古い方から数えた方が早いです。子供たちは織田信長に取り立てられていますが、5人は戦死という悲劇に見舞われていますが、明治時代まで子孫は残っています。
今後は森可成自身が注目されることを期待しています。