三好長慶は足利義輝を追放した梟雄の将?三好政権を樹立した天下人

三好長慶は室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝父子や管領・細川晴元らの有力者を政治の中心から追い出し、三好政権を確立させて中央の実権を掌握した武将です。

この記事では三好長慶の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。三好長慶がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける三好長慶など、様々な視点から解説していきます。

三好長慶の基本情報

三好長慶(みよしながよし)は阿波国出身で、細川晴元に仕えますが後に離反して、彼と対立していた細川氏綱を名目上の主君としました。

三好長慶の人生

できごと

父の死と一向一揆

三好長慶は、1522年、阿波国を本拠地とし山城国下五郡守護代を務めていた三好元長の嫡男として誕生します。父・三好元長は室町幕府管領・細川晴元の重臣であり、細川晴元の同族で対立していた細川高国を1531年の中嶋の戦いで敗北させており、その影響力は非常に大きいものとなっていました。

三好元長の活躍で宿敵・細川高国を破った細川晴元でしたが、その後、政治方針を巡って両者は対立するようになります。

細川晴元は三好政長・木沢長政と結び、一向一揆衆をけしかけて蜂起を起こさせ、1532年に三好元長を殺害させました。三好元長は熱心な法華衆徒であり、以前本願寺勢の弾圧を行なっていた為に、一向一揆衆から深く恨まれていました。

この内三好政長は三好氏分家の出身でありながら、従前から本家当主である三好元長と仲違いしている人物でした。

この時三好長慶は10歳であり、父の死により三好本家の家督を相続したものの、阿波国へと逃走することとなりました。

蜂起を起こした一向一揆衆の勢いはやがて細川晴元でも抑えられないほどに拡大し、享禄・天文の乱へと発展します。細川晴元は一向一揆衆鎮圧へと態度を一変させ、全面対決が開始しました。

一進一退の攻防戦を繰り広げられる内、しだいに両者に和睦の気運が高まっていき、1533年に三好長慶の斡旋により和睦が締結されました。三好長慶はわずか12歳でありました。

この直後に元服し、同年8月に和睦を破った一向一揆衆と戦って摂津越水城を奪回しますが、1534年には反対に一向一揆衆に協力して細川晴元軍と戦っています。しかし、木沢長政の仲介や、まだ年少であるということからこれを許され、以降細川晴元に臣従することとなりました。

細川晴元への離反と帰参

三好長慶はその後細川高国の弟である細川晴国や一向一揆衆との戦いに参陣して武功を挙げ、徐々にその存在感を高めていきました。

同じく細川晴元に仕え、父の仇敵でもある三好政長とは、父と同じく三好長慶も対立を続けいていました。以前父が務めており、その死後は三好政長がとって変わっていた河内十七箇所の代官職を細川晴元に要求しますが、これを拒否されます。

その為、三好長慶は直接幕府に訴えてこれを要求しますが、結局不首尾に終わり、これによって細川晴元との関係にも亀裂が生じるようになりました。

1539年、細川晴元の意を受けて三好政長が進軍し、京都において三好長慶との小規模の戦闘が起こりますが、最終的に両者は和睦し、三好長慶は和睦の条件として摂津越水城を与えられました。その後、摂津守護代に任じられた三好長慶は幕府に出仕するようになり、その勢力は主家・細川家を凌ぐほどに拡大していきました。

その後も、細川晴元と領地における税の徴収を巡って対立するなど、両者の関係は悪化の一途を辿りますが、畠山氏に仕えていた木沢長政が勢力を拡大させて細川晴元と対立するようになり、1542年に太平寺の戦いが勃発すると、三好長慶は三好政長と共に細川軍に参陣し、この戦いに勝利します。

この勝利により約10年間機内で勢力をふるっていた木沢氏が没落し、変わって三好長慶・細川晴元の勢力が拡大することとなりました。その後、細川高国の従甥である細川氏綱が細川高国の旧臣を集めて蜂起すると、その戦いにおいても細川晴元軍として戦い、勝利に導いています。

細川氏綱はその後遊佐長政と結んで抵抗を続け、一時細川晴元・三好長慶軍が追い詰められる事態となりましたが、1547年の舎利寺の戦いで巻き返してこの戦いに勝利すると、細川氏綱を支援していた将軍・足利義晴も近江坂本へと敗走することとなり、ここに細川晴元政権が確立したのでした。

三好政長との戦い

舎利寺の戦いの後、細川氏綱と協力した罪により、池田信正が細川晴元により切腹を命じられます。池田信正は、先の太平寺の戦いでは三好長慶に従軍しており、舎利寺の戦いでは細川氏綱に帰参したものの、三好長慶に降伏していました。

この命令は三好長政の進言によるものであり、この処置に不満を持った三好長慶は、細川氏綱・遊佐長政と結び、細川晴元から離反します。そして1549年、三好政長の江口城を包囲し、江口の戦いを勃発させました。

この戦いで三好長慶はついに父の仇敵・三好政長を討ち取り、三好政長を支援していた細川晴元も、足利義晴・足利義輝父子を伴って近江坂本へと避難します。これによって和泉や摂津は三好長慶に掌握され、細川氏綱を伴って上洛を果たした三好長慶は、実質的な京都の支配者となりました。

足利義輝との対立

江口の戦い後、近江坂本に逃れた足利義晴・足利義輝、そして細川晴元でしたが、京都復帰を画策し始め、その拠点として銀閣寺の裏手に中尾城を築城します。

足利義晴は1550年に病没しますが、跡をついだ足利義輝は父の意志を受け継ぎ、対三好長慶の姿勢を継続していきました。間も無く足利義輝が中尾城に入城して中尾城の戦いが勃発しますが、結局足利義輝が堅田へと退却し、三好長慶によって中尾城も陥落させれました。

将軍と管領を失った京都において、三好長慶がこれらに変わって治安維持や公家の保護に務めて幕府なしで政権を動かす独自の体制を構築しますが、その後2度に渡り暗殺事件が勃発します。これをチャンスと見た足利義輝・細川晴元が再び挙兵し、1551年に相国寺の戦いとなります。

三好長慶の家臣・松永久秀らの活躍もありこの戦いに勝利した三好長慶は、足利義輝と和睦を結び、1552年に足利義輝の帰京が実現されました。足利義輝の上洛により三好長慶は御伽衆の格式を与えられ、ついに細川家家臣から将軍家直臣へと出世を果たしました。

しかし、細川晴元はこれを不服として抗戦を続け、1553年には足利義輝も再び細川晴元と組んで三好長慶への対立姿勢を示したため、京都の混乱は収まることがありませんでした。三好長慶との対立の末、足利義輝は京都から近江朽木へと敗走することとなり、以降5年の年月をその地で過ごすこととなりました。

1558年、再び京都奪還を目指して、六角義賢の支援を受けた足利義輝・細川晴元が挙兵しますが(北白川の戦い)、三好長慶によって足利義輝の奉公衆70人が討ち取られ、両者は六角義賢の仲介により和睦を結ぶこととなりました。

足利義輝は細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりの帰京を果たしますが、細川晴元は和睦に反対して行方を眩ませた後、三好長慶によって普門寺城hへと幽閉されてしまいました。

三好長慶は足利義輝・室町幕府との関係修復に努め、1560年には相伴衆に任じられます。この頃、三好長慶の勢力圏は摂津、山城、丹波、和泉ほか8か国以上に拡大しており、全国を見ても最大の大名へとのし上がっていました。

勢力の陰り

以降、畠山氏と戦って河内を平定し、その後松永久秀の活躍で大和北部も制圧、1561年には10カ国を領土化させ、多くの諸大名が三好長慶に誼を通じるようになりました。

しかし、同年4月、弟の十河一存が急死します。猛将・鬼十河と恐れられていた十河一存は、三好家における軍事的な柱であり、三好長慶の勢力拡大の立役者でありました。その氏は瞬く間に周辺諸国に広がり、この混乱に乗じて畠山高政と六角義賢が挙兵します。(久米田の戦い)

この戦いでもう一人の弟で総大将を務めた三好実休が戦死し、三好軍は敗北を喫します。続く教興寺の戦いでは、嫡男・三好義興や松永久秀、弟の安宅冬康らの奮闘により畠山氏を破りますが、久米田の戦いは三好氏没落の遠因になったと考えられています。

1562年に室町幕府の政所執事であった伊勢貞孝も畠山氏・六角氏と結んで挙兵、和泉で根来衆が挙兵、大和で多武峯衆徒の挙兵、さらに細川晴元の残党も反乱を起こすなど、各地で反三好を掲げた動きが活発化していきます。

久米田の戦いの頃から三好長慶は病に苦しむようになっており、弟達を相次いで失い精神的にも苦しい状況に陥っていました。

不幸は重なり、1563年に嫡男の三好義興が急死します。(松永久秀による暗殺説も存在)更に名目上の主君であった細川氏綱と、かつての主君細川晴元を相次いで病死します。

相次ぐ身内・旧知の者達の死にますます病状を深め精神的にも苦しんでいた三好長慶は、1564年、残っていた弟の安宅冬康を誅殺します。これは松永久秀の讒言により、謀反を疑われたからだとも言われています。

安宅冬康は人望高い武将で、仁慈の将軍として慕われ、十河一存亡き後も、三好長慶を献身的に支えていた人物でありました。彼を誅殺した後、三好長慶はその後悔に苛まれ、その約1ヶ月後に病気により死去しました。43歳でした。

三好長慶亡き後、家督は養子として迎えていた十河一存の子・三好義継が相続しますが、松永久秀や三好三人衆によって実権を掌握され、やがて三好家滅亡を迎えることとなります。

三好長慶の人柄・人物像

三好長慶の人柄や人物像について説明します。

保守的で優柔不断な人物としての評価

父の代からの主君・細川晴元や、さらに将軍・足利義晴、足利義輝と対立して中央の政権を掌握した三好長慶は、下剋上の武将ながら、保守的・優柔不断という評価を受けることが多い人物です。

その評価は、主に足利義輝に対する処分から導かれています。

何度も三好長慶に背いて戦いを引き起こし、暗殺事件の黒幕とも考えられた足利義輝に対して、三好長慶は厳しい処罰を下さず、彼の逃亡を見逃し、足利義輝の逃亡先である坂本や朽木などに自ら攻め込むことはしていませんし、多くの戦いで和睦を締結して争いを終結させています。

また後年には、倒幕が可能であった立場にも関わらず、足利義輝との関係修復を計っており、既に室町幕府の権力が形骸化していたにも関わらず、幕府直臣となり、嫡男に「義」の字を賜るなど、室町幕府に擦り寄るような態度をとっています。

しかし、戦国時代・下剋上の世の中と言っても、未だ室町幕府は存在しており、管領の家臣、幕府から見れば陪臣にすぎない三好長慶が、その後盾や大義名分を得るために、将軍家との関係を完全に破壊させなかったのも、当時の常識から考えれば当然であったとも言えます。

評価の変遷

「剣豪将軍」で知られる足利義輝を長年京都から追い出した三好長慶は、現在では悪役・梟雄の武将としてのイメージも強くなっています。

しかし、三好長慶と時代を同じくする越前・朝倉氏の勇将、朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』の中で、政治・人材登用に優れた武将として、武田信玄や上杉謙信と並べて三好長慶を高く評価しています。

将軍家の忠臣であり将軍復権のために奔走していた細川藤孝も三好長慶の才能を認めていたとされ、敵対者からも一目置かれる存在であったことがわかります。

時代を進めて、江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』や、『当代記』においても、三好長慶が畿内を治めたことを、彼の功績として高く評価しています。

江戸後期に頼山陽が『日本外史』を著し、その中で三好長慶を「老いて病み恍惚として人を知らず」と酷評すると、これがスタンダード化し、近代の歴史小説の大家・司馬遼太郎も、著書『街道をゆく』の中で「三好長慶は保守的である」と評しました。

教養人としての一面

戦を繰り返した三好長慶ですが、その教養は大変深く、臨済宗僧侶・大林宗套は、三好長慶の三回忌に際して「心に万葉・古今をそらんじ、風月を吟弄すること三千」と讃えています。

特に連歌に通じ、朝廷・公家とも度々連歌会を催し、細川藤孝や松永貞徳らも彼に模範したと言われています。特に細川藤孝は、三好長慶について「修理大夫(=三好長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」と評価しています。

久米田の戦いで弟・三好実休が戦死した際も連歌会の途中であったと言われ、戦死の報告を受けた際も冷静に一句を読んで周囲を感嘆させました。

三好長慶の歌として、「歌連歌 ぬるきものぞと言うものの 梓弓矢も取りたるもなし」などが残っています。

三好長慶の名言・エピソード

三好長慶の名言やエピソードについて解説します。

三年の荒行

『名将言行録』によれば、17歳の時、「これより3年、夏の季節に100日間、虚空蔵求問持法の荒行を行い、それによって記憶力を鍛える」と宣言、3年にかけて実行したと言われ、信心深い一面を持ち合わせていたことが伺えます。

この宣言を聞いた家臣が、「細川氏の重臣である三好家に生まれ、冥加も果報も誰よりめでたくおわしますあなた様なのに、なぜ荒行などする必要があるのですか」と問うと、三好長慶は、

「三好の家に生まれたからと言って、冥加も果報も自然と身についていると考えるのは、推量にすぎない。私は、推量が嫌いだ。それよりも荒行をして、私自身の力にどれだけの冥加と果報がついてくるか、それを自分て確かめたい」

と答えました。さらに続けて、

「人間は木と同じだ。風が強い所では独り立ち出来ない場合があって、その時は添え木をしなければならない。人間の修行はこの本体である木に対しての添え木と同じだ。添え木のない人間は、必ず倒れる」と言いました。

自らの出自の高さだけに驕らず、修行によって精神を高めてこそ、立派な人間になれると説いたのでした。

安宅冬康の殺害

晩年の三好長慶の失速の原因として、相次ぐ弟達の死が挙げられますが、中でも温厚で人望の厚かった弟・安宅冬康の誅殺は、三好長慶の評価を下げており、現在でもはっきりとした理由がわかっていません。

三好家重臣・松永久秀の「謀反の兆しあり」という讒言によるもの、というのが真しやかし語られてきましたが、当時の史料には「何者かの讒言によって殺害された」としか書かれておらず、何者か=松永久秀であるという確証がありません。

また、三好長慶が自らの意思で安宅冬康を殺害された可能性も否定できず、十河一存・三好実休・そして嫡男三好義興と相次いで亡くした三好長慶はその精神的なショックから鬱病を患い、正常な判断を下すことが出来なかったのではないかとも言われています。

兄弟間で後継を巡って争われるのは戦国の世の常でもあり、人望を集めていた安宅冬康によって三好家を乗っ取られるのではないか・自分が殺害されるのではないかという被害妄想に支配されてしまったのかもしれません。

フィクションにおける三好長慶

フィクションにおける三好長慶を解説します。

信長の野望における三好長慶

シリーズによっても異なりますが、信長の野望における三好長慶のステータスは、統率91、武勇70、知略89、内政96、外政95となっています。非常にバランスのとれた、かつどの項目でも高数値を誇るステータスとなっています。

特に内政・外政の数値はトップクラスとなっており、将軍や管領に変わって中央を支配した政治手腕が高く評価されていると言えます。

ドラマにおける三好長慶

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、俳優の山路和弘さんが演じています。

これまで、将軍を追い出した下剋上の梟雄・悪役として登場することも多かった三好長慶ですが、この作品でも、松永久秀とともに足利義輝・細川晴元を脅かす存在として描かれ、山路和弘さんも監督から「めちゃくちゃ悪そうな感じで(演じてほしい)」と言われたと語っています。

三好長慶は寛容さも持ち合わせた戦国初の天下人だった

日本史上で「天下人」と言うと、イメージされるのはやはり織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人ですが、その前に、若年の頃からの巧みで複雑な行動の末、中央を支配し時代の寵児となった武将として、三好長慶がいました。

織田信長らと比較して「保守的」とも評価されることの多い三好長慶ですが、将軍・足利義輝や管領・細川晴元を完全に滅ぼすことはせず、あくまでも室町幕府の存在を前提として権力を掌握しようとしたからであり、これをもって低い評価をくだすのは妥当ではないとも思えます。

将軍・管領を中央から追い出して、その後ろ盾を持たずに政治運営を行なったのはむしろ戦国史上画期的なことであり、三好長慶による中央支配は、その後の織田信長にも非常に大きく影響しています。

三英傑と比べて史料も少なく、知名度も劣る三好長慶ですが、戦国史の権力推移を語る上では欠かせない存在です。

摂津・山城など10カ国にも及ぶ影響力を誇った三好長慶は、戦国史上初の天下人として、その政治手腕と武勇を高く評価することが出来るでしょう。