三淵藤英は足利幕府再興に奮闘した人物!弟・細川藤孝との関係や自害理由とは?

三淵藤英は戦国大名の細川藤孝を弟に持ち、室町幕府将軍の足利義輝、足利義昭に仕え、足利義昭の将軍擁立の際に尽力した人物でもあります。

この記事では三淵藤英の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。三淵藤英がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、フィクションの世界における三淵藤英など、様々な視点から解説していきます。

三淵藤英(みつぶちふじひで)の基本情報

三淵藤英(みつぶちふじひで)は戦国時代を生きた武将で、弟は戦国きっての文化人として知られる細川藤孝にあたります。

代々足利将軍家に仕える三淵家の跡取りとして生まれ、幕府の奉公衆として足利義輝や足利義昭に仕えた人物でした。

三淵藤英の人生

できごと

生誕〜足利将軍家の奉公衆へ

三淵藤英は、室町幕府の幕臣として活躍していた三淵晴員の嫡男として誕生します。生年については不明ながらも、弟にあたる細川藤孝が1534年生まれとなるため、それに近い1528年〜前後ではないかと言われています。三淵家は代々足利将軍家に仕えて来た血筋にあたり、父晴員は足利義晴、義輝に仕えていました。三淵藤英も1540年に足利義晴の使者として相国寺鹿苑院へ派遣されたと資料に残っており、若くから父の後継として幕府に仕えていたことが分かっています。

しかし、当時の将軍家は戦国時代に差し掛かって権力の弱体化が激しくなり、1549年には三好長慶らの反乱で足利義晴・義輝親子が京から追い出されるという事態に発展します。京を追われている間に将軍職は義晴から義輝に譲られることとなり、三淵藤英は足利義輝の家臣として、弟の細川藤孝と共に幕府復権に向けて尽力しました。

将軍家の復興に奔走

1558年、三好長慶との間に和議が成立し、近江坂本に退避していた足利義輝は5年ぶりに帰京を果たしました。義輝は足利幕府の権力と将軍権威の回復を目指し、各国の戦国大名間での修好に尽力しました。また、諸大名への懐柔策として役職を与え、自らの名前の諱名を家臣や全国の大名たちに与えました。実際に三淵藤英、細川藤孝の「藤」という字は、足利義輝の改名前の名「義藤」から取られています。

幕政の立て直しに尽力していた義輝でしたが、1565年、将軍義輝による直接統治を良く思わなかった松永久秀や三好三人衆らの手によって京の二条御所で暗殺されてしまいました。

足利義輝が暗殺されると、三淵藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟である一乗院門跡の覚慶(後の足利義昭)を監禁されていた興福寺から救出し、朝倉家の庇護下に入ります。その後、京への復帰と将軍へ擁立させるために織田信長を頼りました。

義昭と信長の対立、非業の最期

足利義昭が織田信長に擁立されて第十五代室町幕府将軍になると、三淵藤英は山城国の伏見城の守備を任されるようになります。その後も京都復帰を目指す三好三人衆を相手に戦いつつ、政治的手腕でも義昭を助け、1568年には大和守に就任することになりました。

しかし、順風満帆かに思えた義昭の将軍生活も信長との利害不一致が表面化されていき、対立関係に進んでいきます。また信頼していた弟の藤孝が信長側につくことになり、それに激怒した三淵藤英は藤孝の居城勝竜寺城を襲撃しますが、これが失敗に終わり、兄弟関係にも亀裂が入ってしまいました。

1573年には義昭が挙兵するとこれに従い二条城を任されますが、信長の大軍に押し寄せられ、やむなく降伏を行いました。その後、義昭が立て籠もっていた槇島城が陥落し、降伏した義昭は三好義継の河内国へ追放され、室町幕府は事実上消滅することになりました。

その後の三淵藤英は信長に仕え、義昭派として抵抗を続けていた岩成友通を弟の藤孝と攻めて陥落させる武功を上げますが、翌年に突如信長から領地を没収され、明智光秀のいる坂本城に預けれることになりました。

そして翌年の1574年、嫡男の秋豪と共に坂本城で自害させられ、無念の死を遂げたのでした。

三淵藤英の人柄・人物像

三淵藤英人柄や人物像について解説していきます。

高貴な家柄に生まれる

三淵藤英の父である三淵晴員は和泉守護であった細川家の子として生まれ、将軍側近である三淵晴恒の養子となりました。三淵家自体は代々に渡って足利将軍家の奉公衆として仕える名門で、三淵藤英もその跡取りとして期待されて育ちました。弟の藤孝の方は次男として誕生したこともあり、細川晴広の元に養子に出されますが、両名ともに将軍を補佐する奉公衆として活躍していくことになります。

なお、弟の藤孝の生母となったのは将軍足利義晴から下げ渡され智慶院という女性で、藤孝は義晴の隠し子とも言われています。いずれにせよ、三淵藤英と藤孝は双方ともに足利義輝(義藤)から諱名をもらっており、将軍家と結びつきの強い高貴な血筋の人物であったことが分かります。

幕臣として誇りを持っていた人物

三淵藤英は弟の細川藤孝と共に足利幕府の奉公衆として仕えていましたが、当時の幕政の弱体化もあって、弟の藤孝は後に織田信長側につき裏切ってしまいます。しかし、三淵藤英は下剋上が当たり前の戦国時代であっても、幕府の奉公衆としての誇りを捨てず、武力から政治に至るまでの数々を将軍の重臣として務め上げた人物でもありました。

その最期は、志半ばで無念の死を遂げてしまいますが、代々足利将軍家に恩を受けたことを忘れずに幕府に身を捧げた忠義の人であったと言えるでしょう。

三淵藤英の名言・エピソード

三淵藤英の名言やエピソードについて解説していきます。

不可解な自害理由

三淵藤英の最期は領地を没収され、明智光秀に預られる形で自害させられますが、その自害命令は突然のことであり、不可解な死とされてきました。

この自害理由の説にはいくつかあり、一つ目は織田信長の疑り深い性格から、忠誠心の高い三淵藤英がいずれ裏切るのではないかと危惧していた点です。そしてもう一つの説としては、明智光秀が絡んでいたという説もあります。

吉田兼見が記した兼見卿記という著書にこの事件についての記載があり、1573年に吉田兼見は京へ戻る途中に「明智光秀の家臣である渡辺宮内少輔が吉田郷という将軍御所に近い場所にある領有を足利義昭に強く願い出ている」という情報を三淵藤英の嫡男秋豪から聞いたと言います。

当時の明智光秀は、三淵藤英と同じく足利義昭から織田信長の直臣となったばかりで、徐々に信頼を得て坂本城という領地まで得ていた状況でした。しかし、家臣の渡辺宮内少輔が吉田郷の領有を欲しているという事実が信長に伝わってしまうと、信長の疑り深い性格から、光秀自身に逆臣の疑いがかかってしまう可能性があり、それを危惧した光秀がこの一件の首謀者として三淵藤英・秋豪親子を密告し、自害に追い込んだというものです。

光秀は実直な性格ながら、かなり策士な一面も持っていたと伝わっていた為、自らの保身をかけて三淵藤英を自害させるという説にも信憑性があったのではないでしょうか。

最後の最後まで信長に抗い続けた

三淵藤英は1573年の足利義昭挙兵に伴って二条城の守護を任されますが、織田信長の大軍に囲まれると、他の主要な奉公衆は信長に寝返る者も多くおり、全て城から退去してしまいました。

その状況下で三淵藤英とその軍勢のみが最後まで残って戦い続けました。弟藤孝や味方の奉公衆にも裏切られながらも抵抗を続けた三淵藤英は、織田家の重臣である柴田勝家の説得を受けて、ようやく城を退去したと言われています。

この幕府への忠誠心の高さが信長には裏目に出てしまい、嫡男を伴わせて自害という結果をもたらしてしまいますが、次男の光行は藤孝に仕えることになり、後に徳川家康から高い評価を受けて徳川直属の旗本になるという功績を挙げました。

フィクションにおける三淵藤英

フィクションにおける三淵藤英を解説していきます。

信長の野望における三淵藤英

三淵藤英は信長の野望シリーズでは「信長の野望 創造パワーアップキット版」に登場しており、能力値は統率39,武勇35,武勇35,知略62,政治57となっています。

ドラマにおける三淵藤英

ドラマにおいての三淵藤英は、2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で登場しています。明智光秀が主人公のドラマとなっている為、三淵藤英の登場シーンも多く、俳優の谷原章介さんが三淵藤英役を演じられています。ドラマ内では乱れた世の中を将軍家としていかに導いていけるのかを模索し続けている人物として描かれています。

三淵藤英は将軍家再興を最後まで願い続けた人物

三淵藤英は足利将軍家の奉公衆として、乱れた世の中をいかに立て直していけるかを考え、最後まで足利幕府の権威と復興に奮闘した人物でした。弟の藤孝とは志は同じくも袂を分かつ形となり、結果として信長に付いた藤孝が後の大名として結果を残しましたが、もし将軍家を支える各大名が信長を破っていたならば、三淵藤英が台頭する未来があったのではないでしょうか。