愛姫は伊達政宗の正室!その夫婦仲は非常に睦まじく多くの手紙が現存する

愛姫は東北地方を掌握し初代仙台藩主となった伊達政宗の正室であり、英明な武将として知られた田村清顕の一人娘でもあります。

この記事では愛姫の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。愛姫がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける愛姫など、様々な視点から解説していきます。

愛姫の基本情報

愛姫(めごひめ)は陸奥国(現在の福島県三春町)出身で、安土桃山時代から江戸時代前期を生きた女性です。

わずか12歳で伊達政宗の正室となり、伊達家人質として大阪・江戸と転々とした人生を送りました。

愛姫の人生

できごと

群雄割拠の地・東北に生まれる

愛姫は、1568年、陸奥国田村郡三春城主・田村清顕の娘として誕生します。

母は相馬顕胤の娘・於北であり、この夫婦の間には愛姫以外は子供に恵まれず、愛姫は大切な一人娘として養育されていました。

この頃の東北地方は、伊達・田村・相馬・蘆名・大内と諸将犇めく軍級割拠の地であり、戦と和睦が繰り返させている状態にありました。

伊達政宗の父・伊達輝宗は、愛姫の母の兄である相馬盛胤と長い間戦っていましたが、戦局は硬直状態にありました。

また、父・田村清顕も蘆名氏と佐竹氏に囲まれて苦戦していたため、窮地を脱したいという思惑が一致した両者は、嫡男・伊達政宗と一人娘・愛姫の結婚を決定します。1579年に二人は結婚しますが、伊達政宗13歳、愛姫12歳という若さでした。

こうして伊達・田村連合が成立すると、伊達家は相馬氏に奪われていた丸森城を奪還、1584年には金山城を攻略することに成功して、南東北全域に勢力を拡大させました。

伊達政宗の東北支配と実家・田村家の衰退

1584年に伊達政宗が伊達家の家督を継ぐと、これまで周辺諸将との平和を重んじる方針であった伊達輝宗の時代から一変して、好戦的な強硬政策の時代へと突入します。

1585年、伊達政宗は愛姫の父・田村清顕の要求により、その支配から独立していた大内定綱に対して、再び田村家の傘下に入るよう命じます。しかしこれは拒否され、さらに大内定綱が蘆名氏を頼ったため、伊達・田村軍対大内・蘆名軍の戦いが勃発します。(関柴合戦、それに続く人取橋の戦い)

しかし、1586年に田村清顕が死去してしまい、愛姫しか子供がいなかった田村家はその後継を巡って内紛が発生します。

愛姫が男児を産んだ暁には、その子を田村家の養子として家督を継がせるというのが従来からの方針でしたが、この時まだ子供は生まれておらず、田村家内に伊達政宗と愛姫は不仲であるという噂が広まります。

これを不安視した愛姫の母・於北は、伊達家との協調路線を破棄し実家の相馬氏に頼り始めます。こうして1588年2月から伊達家と相馬家・蘆名家連合の間に郡山合戦が起こり、伊達家が勝利すると、伊達政宗は於北を隠居させ、三春城に留まって田村家内の相馬派を排除して田村氏を実質上伊達家の傘下へと組み込みました。(田村仕置)

翌1589年には蘆名氏との間に摺上原の戦いが勃発し、蘆名氏は滅亡、ついに伊達政宗が南東北の覇権を掌握しました。

伊達家人質として

1587年、関白となっていた時の権力者・豊臣秀吉により惣無事令が発布されますが、伊達政宗はこれを無視して戦を続行します。

しかし、当時伊達政宗が戦っていた会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵すると圧力をかけられ、1590年から豊臣秀吉による小田原征伐に参陣するよう求められると、ついにその臣従に降ることを決意します。この時、豊臣秀吉に降らなかった愛姫の実家・田村家は取り潰しとなっています。

愛姫は伊達家の人質として京都・聚楽第の伊達屋敷に移ることとなり、8月に会津で豊臣秀吉と謁見した後、聚楽第へと入り、1594年にはここで第一子となる五郎八姫を産みました。

伊達政宗は豊臣家臣として朝鮮出兵にも参加するなど奮闘しますが、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次がその不興を買って切腹させられると、彼と親しかった伊達政宗にも疑惑の目が向けられます。伊達政宗は弁明のために奔走し、最終的には許されますが、聚楽第は破壊され、愛姫は豊臣秀頼の居城・伏見城下へと移されました。

1600年に関ヶ原の戦いが起こると伊達政宗は東軍に加わり、徳川家康が勝利して江戸幕府を開くと、1603年、愛姫は今度はその人質として江戸の伊達屋敷へと移りました。愛姫はこの年に第三子となる伊達宗綱、1609年には第四子竹松丸を産んでいます。(竹松丸はその後夭折)

伊達政宗死去とその後

その後も愛姫は人質として江戸に据え置かれ、伊達政宗とは別々に暮らします。1620年に夫が改易されたために愛姫と共に江戸で暮らしていた五郎八姫が仙台へと戻ることになり、伊達政宗は愛姫に対して「娘を手放すのは寂しいだろうが、数年に一度はそちらに顔を出させるので、今は我慢してほしい」と手紙を送っています。

1634年頃から、伊達政宗は体調不良を訴えるようになり、1636年についに死去してしまいます。これを受けて愛姫は剃髪し、伊達政宗が再興させた瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入り陽徳院と称します。

仏教に帰依しながら穏やかな晩年を過ごした愛姫は、体調を崩した際も徳川家光より見舞いの使者が送られるなどの非常な高待遇を受けています。そして1653年、86歳で亡くなりました。

愛姫の人柄・人物像

愛姫の人柄や人物像について説明します。

懐に忍ばせた短剣

伊達家人質として聚楽第に入った愛姫は、伊達政宗に対して随時手紙で京都の情勢を知らせており、外交官的な役割を果たしています。

「天下は未だ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首(=短剣)を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」と記された手紙も残っており、伊達家の正室として常に剛胆たる覚悟を持っていた強い女性であったことが伺えます。

社交的で行動力のある女性

聚楽第での愛姫の様子を記すものとして、豊臣秀吉正室・北政所の女官が残した手紙が存在します。

そこには、愛姫が豊臣秀吉や北政所と親しく付き合い、食事や付き人も豊臣秀吉から与えられて丁重に扱われていると記されていました。

江戸での暮らしの様子は、『木村宇右衛門覚書』に残っており、江戸で催される節句の準備をする際、愛姫は節句のための衣服の仕立てを監督し、自らも衣服を縫ったと記されています。節句以外でも、伊達家では将軍家などに献上する大量の服を仕立てる必要があったために、愛姫は多数の女中を集めて裁縫工場のようなものを作り上げてこれを指揮していました。

伊達政宗の母であり男勝りな性格であったと言われる義姫とも良好な関係を築いていたようで、『伊達家文書』には、愛姫が義姫手製の提げ袋を大切に愛用していると記されています。

このように、愛姫は社交性が高く、また一族のために積極的に行動する人物であったことが分かります。

愛姫の名言・エピソード

愛姫の名言やエピソードについて解説します。

伊達政宗との夫婦仲

愛姫が伊達家に輿入れした当初、伊達政宗暗殺事件に田村氏一派の関与があったと疑われて、彼女の乳母や侍女達が殺害されたため、一時夫婦仲が悪くなったと言われています。

その後も愛姫は人質として大阪や江戸を転々としたため、2人が一緒に過ごすことはほとんどありませんでしたが、それにも関わらず夫婦仲は改善して行き、伊達政宗が愛姫に送った手紙が多数現存しています。

1613年に伊達政宗から愛姫に送られた手紙は、仏教の無常観に基づいて季節のことや美しい花や草木のことなどを、『枕草子』や『徒然草』を引用した交渉な文体で記しており、伊達政宗にとって愛姫が自分の内面・心持ちを素直に吐露できる存在であったことが分かります。

2人は3男1女に恵まれ、末の竹松丸は、当時としては非常に高齢出産である愛姫が40歳をすぎた時の子であり、離れ離れで暮らしていても、また年齢を重ねても夫婦仲が非常に良かったと言えます。

伊達政宗の死去に際して

夫婦仲の良かった2人ですが、伊達政宗は愛姫が臨終に立ち会うことを拒否しています。

晩年、体調を崩すようになった伊達政宗の元に、愛姫は度々お見舞いをしたちと申し出ますが、伊達政宗はこれも虚拒否しています。

それは、夫婦仲が悪化してしまったからではなく、「見苦しく見せられたものではないので、病気が快復するのを待ってほしい」「武士が女子供に囲まれて死ぬのは本望ではない」という、伊達政宗の思いやりと信念からくるものでした。

愛姫はこれに落胆しながらも納得して、夫の意志を尊重してお見舞いと臨終への立会いを断念しました。伊達政宗は死の前日に「これまでの度々の見舞いに感謝している。そのうち会ってお礼をしたい。子供達の仲が良好であるように愛姫から助言してほしい。伊達家が末長く繁栄するよう、折々家臣に伝えてほしい。」と言い残したと言われています。(『木村宇右衛門覚書』)

1652年、愛姫は伊達政宗の17回忌に際して甲冑姿の伊達政宗像を作らせます。伊達政宗は幼い頃に受けた病気により生涯隻眼でありましたが、多くの肖像画では隻眼ではない通常の顔立ちで描かれています。

甲冑像を作る際も通常の顔立ちのものを作ろうとしていたところ、愛姫が「生前のそのままの姿を残したい」と、隻眼の甲冑像を作らせました。

また、愛姫の死後、侍女達が遺品を整理していたところ、文箱の中から伊達政宗から送られた多数の手紙や、伊達政宗が幼い頃に書いた文字の手習いなどが発見されており、愛姫の夫に対する深い愛情が伺えます。

田村家の再興

改易されていた田村家の旧臣達は、伊達政宗亡き後、愛姫を頼って伊達家に仕官します。愛姫も実家・田村家の再興を願っており、嫡男で仙台藩2代目となった伊達忠宗に対しても度々田村家の再興を願い出ています。

伊達忠宗の側室・房が懐妊したことを夢のお告げで知った愛姫は、大層喜んで

「めでたくめでたく 色良き花の枝をこそ見る」という文を書き房に送っています。この時房が産んだ子が後に田村家を再興させる伊達宗良となります。(伊達宗良を花に、その母である房を枝に例えて讃えた歌ではないかと考えられています)

フィクションにおける愛姫

フィクションにおける愛姫を解説します。

ドラマにおける愛姫

伊達政宗の正室として、大河ドラマ『独眼竜政宗』(演:桜田淳子)や、『天地人』(演:杏)で登場しています。伊達政宗正室であることに誇りを持って生涯彼を支え、内面の強さも持ち合わせた賢夫人として描かれています。

愛姫は夫と離れ離れに暮らしながらも良妻賢母として伊達家を支えた女性だった

愛姫は伊達家の人質として大阪や江戸で暮らしたため、その生涯夫と共に本拠地・仙台で暮らした日々はほとんど無かったと考えられています。それにも関わらず、仙台では夫の伊達政宗と共に今でも尊敬を受けています。

田村家の姫として複雑な立場に置かれながらも、戦いに明け暮れた伊達政宗を支えて東北の覇権掌握に貢献し、豊臣秀吉や徳川家康の時代には人質となって伊達家の存続と繁栄を支えたその逞しい姿は、正に乱世の武士の妻としての鑑であり、東北の雄・伊達政宗の心の拠り所として大きく貢献した女性であると高く評価できるでしょう。