松永久秀は三大梟雄の悪名高い武将!最後は平蜘蛛と共に爆死した?

松永久秀は三好長慶、織田信長に仕えた武将で、主君の変更の過程や最期の死に様について苛烈なエピソードを残している人物です。

この記事では松永久秀の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。松永久秀がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける松永久秀など、様々な視点から解説してきます。

松永久秀の基本情報

松永久秀(まつながひさひで)は阿波国、もしくは山城国・摂津国出身とされ、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

三好家の重臣として、三好長慶・三好義継と仕えましたが後に裏切り、最後は織田信長を主君としました。

松永久秀の人生

できごと

三好長慶に抜擢される

松永久秀の幼少から青年期についてはよくわかっておらず、出身国も阿波国・山城国・摂津国など諸説あり、父母も不詳となっています。

1533年頃には室町幕府管領・細川氏の家臣である三好長慶の右筆(書記官)を務め、1540年頃には奉行職にあったと思われる書状も残っており、この頃は三好家の文官として出仕していたようです。

1542年の木沢長政討伐には指令官をして出陣して武功を挙げ、徐々に武人としての才覚も表した松永久秀は、その両面を三好長慶から信頼され、三好家内での地位を高めていきます。

1549年、三好長慶が主君・細川晴元と将軍・足利義昭を追放して京都における実権を掌握します。松永久秀は三好家の家宰となり、公家や寺社などとの折衝役を担当する重役を担いました。

1551年、追放された細川晴元が挙兵して相国寺の戦いが勃発すると、松永久秀は指揮官として迎え撃ち、これを制圧しました。1558年にも細川晴元・足利義輝との間に北白川の戦いが勃発しますが、小競り合いを繰り広げた末、和睦に終わりました。この和睦の結果、室町幕府との関係は改善に向かい、足利義輝は帰郷を果たしました。

足利義輝との関係改善と三好家の畿内支配

この頃、三好長慶は丹波国や河内国、大和国への侵攻も開始しており、松永久秀もこれに従軍し、特に大和国の有力大名であった筒井氏当主・筒井順慶と激しく争いました。

筒井城を陥落させた松永久秀は、続けて大和国で強大な勢力を誇っていた興福寺軍も破って大和国を三好家の手中に取り込み、信貴山城を改修して天守を造り、筒井氏の牽制としました。

1560年には三好長慶の嫡男・三好義興と共に室町幕府御伽衆に任じられ、1561年に足利義輝が三好義興の邸宅を訪れた際には、将軍に太刀を献上する役目と将軍家側近達の接待係を務め、足利義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えていくなど、三好家と将軍家を繋ぐ重要なポジションを担うようになりました。

1561年、六角義賢が三好長慶と対立して将軍地蔵山の戦いが勃発すると、松永久秀は三好義興と共に出陣するものの敗北します。しかし、その後六角義賢と結んで上洛を企てた河内国の守護大名・畠山高政を久米田の戦い・教興寺の戦いで破ると、畿内における三好氏の勢力が拡大しました。

1563年、共に戦ってきた三好家嫡男・三好義興が死去し(松永久秀により暗殺されたという説も存在)、さらに翌1564年に三好長慶の弟で三好政権を支え人望の厚かった安宅冬康が松永久秀の「(安宅冬康に)謀反の野心あり」という讒訴によって自害に追い込まれ、その数ヶ月後に三好長慶も死去します。

松永久秀は三好三人衆(=三好長逸・三好政康・岩成友通)と共に三好家の実権を握り、三好長慶の甥・三好義継を当主に据えました。

永禄の変と三好三人衆との対立

三好長慶が死去し三好家の権威に陰りが生じ始めると、足利義輝は将軍の復権を狙った行動を取るようになり、松永久秀らとの対立を深めます。こうして1565年、松永久秀は嫡男の松永久通、三好三人衆と共に上洛して室町御所の足利義輝を襲撃、殺害します。(永禄の変)

彼らは新将軍に足利義栄を奉じますが、その後三好三人衆は当主・三好義継を取り込み、松永久秀の排除を目論むようになります。1566年、三好三人衆は松永久秀の本拠地となっていた大和国への侵攻を開始し、多聞山城を包囲しますが、松永軍の士気は非常に高く、戦いは膠着状態となりました。

松永久秀に大和国を追われていた筒井順慶や、篠原長房・池田勝正らが三好三人衆の味方につくなど、劣勢に立たされた松永久秀は一時逃亡して姿を眩ませます。しかし、1567年に三好三人衆の拘束下にあった三好義継が松永久秀を頼って出奔し和睦を締結すると、三好三人衆の本拠地となっていた東大寺を攻め込み、東大寺大仏殿の戦いとなります。

この戦いは半年間に及び、その状況について、『多聞院日記』には

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

と記されており、大仏殿が焼失するなどの大損害が出たものの、松永軍が勝利してその復権を果たしました。しかし、三好三人衆は依然として強大な勢力を有しており、1568年には信貴山城が落とされるなど(信貴山城の戦い)、松永軍の劣勢が続きました。

織田信長の臣従に降る

この劣勢を挽回するため、松永久秀は桶狭間の戦いを制して勢力を拡大させていた織田信長との連携を図るようになります。1566年には両者の間でやりとりがされており、織田信長も大和国衆に対して松永久秀への助力を呼びかけていました。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しますが、松永久秀もこの上洛に協力し、三好義継と共に織田信長の臣従に降りました。一方の三好三人衆は上洛に反対して抵抗するものの相次いで敗退し、その勢力を衰えさせました。三好三人衆に奉じられた足利義栄も急死したため、足利義昭が15代将軍として就任します。

織田信長の後ろ盾を得た松永久秀は大和国筒井城を包囲して筒井順慶を敗走させ、ここに畿内の混乱が収束しました。

なお、足利義昭は兄・足利義輝を永禄の変で殺害した松永久秀を恨んでいましたが、織田信長のとりなしによって松永久秀を直臣とし、大和国支配を認めました。織田信長の家臣となった松永久秀は、1570年の金ヶ崎の戦いや石山本願寺攻めなどに従軍し、武功を挙げています。

特に織田信長が朝倉・浅井軍に大敗して「金ヶ崎の退き口」と称される危機的な退却戦では、京都への帰還ルートにあった朽木谷を治めていた朽木元綱の説得を行うなど、大変な活躍を演じています。

1571年、筒井順慶が大和国での復権を目指して辰市城の戦いを起こすと、これに敗北しますが、最終的には明智光秀らの仲介でついに長きに渡って戦いを続けていた両者が和睦し、筒井順慶も織田信長の臣下に加わりました。

織田信長との対立

織田信長の元で活躍していた松永久秀ですが、織田信長と足利義昭の関係が悪化し、これを受けた武田信玄が織田信長包囲網を形成し始めると、密かにこれに通じ、反織田信長の姿勢に転じます。

1572年にこれを表面化させ、三好義継、そして三好三人衆と結びます。しかし、1573年に武田信玄が急死すると織田信長包囲網は瓦解し、足利義昭も槇島城の戦いに破れ追放されます。

同年、三好義継も若江城の戦いで織田信長に敗北して自害すると、松永久秀が籠る多聞山城も包囲されました。松永久秀は多聞山城を明け渡して降伏し、三好三人衆の一人・岩永友通も淀古城の戦いで討死します。この時、すでに三好長逸は行方不明、三好政康は没しており、ここに三好三人衆が完全に消滅しました。

この松永久秀の裏切りにも関わらず、織田信長はこれを許し、松永久秀を佐久間信盛の与力として配します。しかし、大和国の支配権は取り上げられ、1576年にはかつての宿敵・筒井順慶が大和国支配を任じられました。

このことに不満をもったのか、松永久秀は1577年に当時従軍していた本願寺攻めから無許可で離脱し、上杉謙信や毛利輝元、石山本願寺勢と呼応して信貴山城に立て籠りました。織田信長は筒井順慶を先鋒とする約4万の大軍を差し向け、信貴山城の戦いとなります。

松永軍は兵力数の上で圧倒的に不利な状況にありながら奮闘し、戦いは持久戦をなりました。しかし、松永久秀の信頼厚かった森好久という人物が筒井順慶の調略を受けて裏切ると、戦況は一転して松永軍が壊滅していきます。

松永久秀と息子・松永久通は自害を決心し、「頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ」と『川角太閤記』に記されたように、鉄砲の火薬によって爆死しました。68歳でした。奇しくも、この日は松永久秀の三悪事の一つ、東大寺大仏殿の焼き払いと同月同日でありました。

松永久秀の人柄・人物像

松永久秀の人柄や人物像について説明します。

日本三大梟雄・三大悪事

松永久秀は、斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本三大梟雄に並べられ、三好義興や安宅冬康といった三好長慶を支えた人望厚い人物を死に追いやり、三好家の実権を奪った下剋上の代表的人物・忠義心のない人物としての悪評を受けることが多くなっています。

織田信長も、徳川家康に松永久秀を紹介した際、「この老人は全く油断できない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏殿の焼き討ちである。常人では一つとして成せないことも三つも成した男だ」と語ったと言われています。

しかし、三好義興暗殺説については後世に創作されたもので全くの事実無根であると考えられており、実際には三好義興の死因は病死となっています。安宅冬康についての讒訴も、はっきりと松永久秀によって行われたと書かれているもの(『三好別記』ほか)と、松永久秀が関与したとは明記されていないもの(『足利季世記』ほか)が存在しており、三好長慶が自らの意思で殺害を決定したという説もあります。

そして松永久秀が首謀者として語られることの多い永禄の変に関しても、事件当日松永久秀は大和国にいて参加しておらず、実際に足利義輝を殺害したのは松永久通と三好三人衆でした。(但、足利義輝の殺害については容認していた)

東大寺大仏殿の焼失も松永久秀の命令によると考えられていますが、命令は無く残り火が燃え移ってしまっただけ、三好軍に加わっていたキリシタンが放火したものと、これに関しても諸説別れています。

いずれにせよ、当時の人々は松永久秀がこれらの事件の首謀者であるとまことしやかに考えており、その悪名高いイメージが世間に蔓延していたことが伺えます。

武将としての力量

『足利季世記』には「松永は分別才覚、人に優れ、武勇は無双なり、諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」と、

ルイス・フロイスの『日本史』には「偉大なまた稀有な天稟(生まれつきの才能)を持ち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」と記されており、松永久秀の才能を評価するとともに、彼が欲深くずる賢かったとの悪評も残しています。

1565年、筒井順慶が三好三人衆と結んで松永久秀に攻撃を仕掛けたときには、「武勇無双」と評された松永久秀の戦いぶりを見た高田当次郎らの多くの筒井氏家臣が筒井順慶を見限って離反しています。また関ヶ原の戦いの際には、筒井氏家老の島清興が「今時の諸侯は明智光秀や松永久秀のような果断に欠けている」とぼやいたとも言われます。

茶人としての側面

松永久秀は、美男子であり立ち振る舞いの優雅な教養人であったとも言われており、特に茶道においては武野紹鴎に師事してその道を極めていました。

1554年に武野紹鴎の茶会に豪商・今井宗久と共に参加した記録が残っており、1558年にも今井宗久、千利休の師・北向道陳ら高名な茶人達と茶会を催し、1560年には津田宗達の茶会にも参加しています。

当時、一流の茶人の条件として名物と呼ばれる茶器を所有していることがありましたが、松永久秀はその財力をもって多数の名物を所持していました。織田信長の臣下に降った際には、人質として名物「九十九髪茄子」を差し出しています。

信貴山城の戦いの後、織田信長から「名物・平蜘蛛の釜を差し出せば助命する」と持ちかけられるものの、松永久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ」と、茶釜もろとも点火して自爆したとされています。

松永久秀の名言・エピソード

松永久秀の名言やエピソードについて解説します。

近世式城郭建築の祖

松永久秀は城郭建築にも才覚を発揮し、多聞作りを創始した人物であるとされています。

多聞作りとは松永久秀が多聞山城を築く際に用いた当時画期的な方式であり、それまで公家屋敷や寺院にしかなかった礎石と石垣を使用して、壁は厚い土壁を採用し、瓦屋根の屋根を敷き、また塁上に長屋形状の櫓(=多聞櫓)を築きあげました。これは後の安土城造築にも手本とされ、近代式城郭建築の発端をなしました。

古墳を破壊して築城した事でも有名であり、これは古墳が高台や水濠を備えていたことから城を改造するには最適な地形であったことに目をつけたからでありました。

自害直前の言葉

松永久秀は健康維持を強く意識しており、「(飼育していた松虫を見て)松虫でも飼い方次第でこんなにも長生きする。人間は日々養生する事で長い命を得ること間違いない」と日々養生に励んでいました。

毎日お灸もすえており、自害の前にも灸の用意を命じており、

「百会(頭のてっぺん)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。だが我は常に中風(脳卒中による下半身不随)を憂う。死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くて動けなくなったのだと笑われる。そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう」と語ったとされています。

クリスマス休戦

松永久秀は三好三人衆と争っていた1565年から1566年頃、松永軍にも三好軍にも多くのキリシタンがいたため、日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じたとされます。

この逸話はルイス・フロイスの『日本史』により導かれたものですが、そこには

「キリシタンたちは自分達がどれほど仲が良いかを異教徒達に示そうとして、大広間を借り、70名程がクリスマスにそこに集まって礼拝した。互いに敵対していたにも関わらずあたかも同一の家臣であるかのようだった」と記されているだけであり、そこに松永久秀による休戦命令があったとは明記されていません。

松永久秀はキリシタン大名でもないばかりか、1565年には宣教師の追放も行なっています。

子孫

嫡男・松永久通は父と共に戦死しますが、彦兵衛と呼ばれた子は逃亡に成功し、その系統の子孫から太平洋戦争初期に活躍した航空隊指揮官・松永貞市中将が出て、さらにその子孫として編集者・著作家の松永真理と続いています。

江戸時代の俳人・松永貞徳も松永久秀の甥孫で、儒学者の松永尺五は彼の甥曾孫にあたり、その才覚が脈々と続いていることがわかります。

フィクションにおける松永久秀

フィクションにおける松永久秀を解説します。

信長の野望における松永久秀

シリーズによっても異なりますが、松永久秀の能力値は、統率81、武勇62、知略100、政治95となっています。また、義理の値が(「革新」シリーズにおいて)1となっており、藤堂高虎や斎藤道三と並んで最も忠義心の低い武将の一人となっています。

ドラマにおける松永久秀

フィクションにおける松永久秀は、そのイメージ通り、狡猾で裏切り癖のある人物として登場することが多くなっています。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では俳優の吉田鋼太郎さんが演じ、ドラマの序盤から主人公・明智光秀と交流をもつ人物として登場します。一癖ある人物ではあるものの、悪役としての描写は薄く、京都の政況を左右する重要な武将として活躍しています。

悪名高い松永久秀だがその才能は群を抜いており三好家への義も薄いと言えない

三好家の乗っ取り・足利義輝の殺害・東大寺の焼き払いと三悪事の首謀者とされ、窮地を救ってくれた織田信長にも三度に渡り反旗を翻すなど、松永久秀の悪名高さはまさに「三大梟雄」に並べられるに相応しいものとなっています。

しかし、三悪事のいずれも松永久秀の首謀と考えるには疑いの余地があり、特に三好家の乗っ取りに関しては事実無根の冤罪であることも含まれています。

文官としても武人としても、また城郭建築者や茶人としてもその類まれなる才覚を発揮した松永久秀は、三好長慶の元で抜擢され出世を果たし、三好家の勢力拡大に貢献した第一人者でありました。

三好三人衆が三好長慶の跡を継いだ三好義継を傀儡にしようと拘束状態に置いたのに対し、松永久秀は出奔してきた彼を保護するなど、三好家に対する忠義心は決して浅くなかったとも思えます。

謀反者に対して苛烈な処罰を行なった織田信長でしたが、松永久秀の裏切りを三度も許した上、信貴山城の戦いでも茶釜の差し出しを条件に助命をもちかけるなど大変寛大な処置を行なっており、これはひとえに松永久秀の才能がいかに優れていたかを表しています。

宿敵・筒井順慶もその死後松永久秀の遺体を手厚く葬ったと言われており、敵将にも認められるほどの勇将であった松永久秀は、悪将としてのみ評価するには惜しく、今一度考慮してみる必要があるかもしれません。