松平忠吉は家臣に愛された武将!死因と徳川秀忠、井伊直政との関係は?

松平忠吉は徳川家康の四男として生まれ、井伊直政の娘婿にあたります。若くして亡くなっているため、あまり知られていませんが、周囲から将来を嘱望され、後の尾張徳川家の基礎を築きました。ここでは、松平忠吉の生涯や人柄・人物像を紹介していきます。

松平忠吉の基本情報

松平忠吉の人生(年表付き)

できごと

生誕

1580年に松平忠吉は、徳川家康の四男として浜松城下(遠江)で誕生します。1581年に親戚にあたる東条松平家の当主:松平家忠が病死すると、後継者がいなかったため、養子に入る形で三河東条1万石を領しています。その際に、祖父:松平広忠、父:徳川家康から一字ずつ拝領し、松平忠康と名乗っています。

1582年には、駿河沼津城4万石を与えられ、1590年の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は徳川家康に旧北条領であった関東への転封を命じます。それに伴い、1592年に武蔵忍城10万石を与えられています。この時に元服し、松平忠吉と改名しています。同年に徳川家康の重臣:井伊直政の娘と結婚しています。

関ヶ原の戦いで先陣を務める

1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が台頭し、政治の実権を握っていきます。1600年、徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するために、東国へ赴くとタイミングを図っていた石田三成ら反徳川方の武将らが挙兵。徳川家康(東軍)は軍を反転させ、美濃関ヶ原で、石田三成(西軍)と激突します。

この時、松平忠吉は初陣ながらも舅の井伊直政の後見の元、福島正則と先陣を争っています。合戦では手傷を負いますが、島津豊久を討ち取るなどの功績を挙げ、合戦は東軍の勝利に終わります。戦後に尾張清州52万石(他にも領地あり)を与えられています。

傷がもとで病死

その後、松平忠吉は、関ヶ原の戦いで負った傷が原因で、病に苦しむようになります。1605年には一時、危篤状態に陥りますが、奇跡的な復活を遂げます。しかし、病は治らず1607年に治療のために江戸に下り、父:徳川家康、兄:徳川秀忠に面会しますが、その数日後に亡くなりました(享年:28歳)。

死因ですが、鉄砲で撃たれた際に、鉛が入り込み、体に毒が回っていったことによる鉛中毒と言われています。※諸説あります。

松平忠吉の人柄・人物像

松平忠吉の人柄や人物像について、解説していきます。

徳川家の後継者候補だった?

徳川家康の後継者は、三男の徳川秀忠ですが、当初は、次男:結城秀康、三男:徳川秀忠、四男:松平忠吉の3人が後継者候補に上がっていました。長男:松平信康は将来を嘱望されましたが、武田家との内通を疑った織田信長によって切腹に追い込まれています。※当時の徳川家に織田家の命令を蹴る力はありませんでした。

関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠が関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を犯したこともあり、重臣の間でも意見が分かれ、岳父の井伊直政は松平忠吉を後継者に推しますが、徳川家康は、三男の徳川秀忠を後継者に決めます。これは、徳川秀忠の生母が正室のポジションであったことや、結城秀康・松平忠吉は他家に養子にいっていることが理由だと言われています。

加えて、これからは戦いの時代ではなく、治世の時代だと考えた徳川家康の思惑もあったようです。武将としての評価は結城秀康が一番高く、次いで松平忠吉、最後に徳川秀忠の順でした。しかし、徳川秀忠は合戦は苦手でしたが、政治力は優れており、後に武家諸法度を定め、参勤交代などを制度化しています。

徳川秀忠と兄弟仲は良かった

実は、徳川秀忠と松平忠吉の生母(西郷局:さいごうのつぼね)は、同じです。そのためか、兄弟仲は非常に良かったと言われています。徳川家康は正室:築山殿と、長男:松平信康が亡くなって以降、正室を置いていませんでした。それを知った豊臣秀吉が妹の朝日姫を嫁がせた経緯もあります。

松平忠吉が病死した際に、兄の徳川秀忠が嘆いたのは言うまでもありませんが、器量も良く、美男子で人望も厚かったため、天下の諸侯もその死を嘆いとも言われています。松平忠吉には跡継ぎがいなかったため、後に弟の徳川義直(徳川家康九男)が領地を引き継ぎ、御三家の尾張徳川家として存続しています。

松平忠吉の名言・エピソード

松平忠吉の名言やエピソードについて紹介したいと思います。

徳川家重臣からも愛された

松平忠吉は、温和な性格で賢かったと言われています。幼いころから家臣に感謝の念を持っていたと言われていることから、多くの家臣に慕われ、野心を持った家臣はいなかったそうです。これは幼いころに徳川本家を離れ、養子に出されたことが影響しています。幼い松平忠吉の元、東条松平家はまとまっていました。

井伊直政を尊敬していた

松平忠吉が最も慕っていたのは、岳父にあたる井伊直政です。井伊直政も松平忠吉の性格や態度に感心していたと言われています。井伊の赤備えは、元は武田の赤備え(山県昌景の部隊)が前身で、武田氏が滅亡した際、残った家臣を召し抱えて編成したものだと言われています。

井伊直政は徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)の中でも一番若くキャリアも少ない武将でした。それが徳川四天王とまで言われたのは、井伊直政や赤備えと言われる部隊の戦場での活躍が大きく影響しています。その井伊直政の武勇に松平忠吉も尊敬の念を持っていたのかもしれません。

フィクションにおける松平忠吉

フィクションにおける松平忠吉について紹介します。

信長の野望での松平忠吉

松平忠吉の能力値ですが、統率:59、武勇:66、知略:39、政治:58と、かなり物足りない印象です。登場も1595年以降なので、あまり使うことも少ないように思えます。いわゆる武官タイプとして描かれています。

ドラマでの松平忠吉

松平忠吉が代表作のドラマはありませんが、徳川家康を題材にした大河ドラマ「徳川家康」(1983年)、「葵 徳川三代」(2000年)には登場しています。徳川家康の子供は多数いるので、注視してみないと分からないかもしれません。

松平忠吉は家臣に愛された勇敢な武将

松平忠吉は28歳と若くして亡くなっているため、あまり多くの記録は残っていません。しかし、父:徳川家康、兄:徳川秀忠、岳父:井伊直政、その他の家臣にも将来を期待されていました。松平忠吉を悪く言う家臣も少なかったと思われます。

徳川家康の息子の中では、目立たない印象がありますが、いぶし銀の活躍で評価は高かったと言われています。