ルイスフロイスは外国人として戦国時代を伝えた人物!信長や秀吉との関係とは?

ルイスフロイスはキリスト・カトリック教の宣教師として、戦国時代にポルトガルから日本に渡り、布教活動に努めました。また織田信長や豊臣秀吉らと謁見し、当時の日本を記した「日本史」を書いた人物でもあります。

この記事ではルイスフロイスの生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。ルイスフロイスがどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、フィクションにおけるルイスフロイスなど、様々な視点から解説していきます。

ルイスフロイスの基本情報

ルイスフロイスは、戦国時代にポルトガルから日本に渡ったキリスト・カトリック教の宣教師です。

戦国大名への謁見など日本での布教活動の他に、当時の日本の歴史を記した貴重な資料「日本史」を作成した人物でもあります。

ルイスフロイスの人生

できごと

誕生〜イエズス会の宣教師へ

ルイスフロイスは1532年にポルトガルのリスボンにある貴族の家に生まれました。9歳でポルトガルの宮廷に仕えた後、1548年に16歳でキリスト・イエズス会に入門します。その後2ヶ月間の研修を経た後は、世界宣教を目指すためにインドのゴアに向けてリスボンを出発しました。この後、ルイスフロイスが故郷リスボンの地を踏むことはありませんでした。

1548年ゴアに到着したルイスフロイスは、聖パウロ・コレジオで修行を積み、ゴアやマラッカなどで宣教活動に従事します。またこの頃には、日本で布教活動を行なった後、インドへ一時帰国していたフランシスコ・ザビエルとの出会いを果たし、ザビエルから日本の事を聞くことで興味を持ち始めました。

1561年には司祭に叙階され、語学と文才を評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事も行いました。

憧れの地、日本へ

1562年にマカオに向かったルイスフロイスはその足で念願の日本へと航路を進めることになります。1563年に日本の横瀬浦(現在の長崎県西海市)に到着すると、既にキリスト大名として洗礼を受けていた大村純忠に謁見し、念願であった日本での布教活動を開始します。その後、大村純忠と後藤貴明の争いにより横瀬浦が破壊されたため、平戸に居を移し、そこで日本語や日本の風習について学んでいきました。

また、当時の日本国内でのキリスト教布教は最盛期にあたり、ルイスフロイスは日本に置ける活動詳細をイエズス会に向けて送り、この報告書は日本の当時の暮らしなどを知ることができる貴重な歴史資料となっています。

その後、1565年には平戸から京都に入り、将軍足利義輝への謁見など、ガスパル・ヴィレラやロレンソ了斎らの宣教師と共に布教活動を進めます。1566年には京都地区での布教責任者に就任しました。

信長、秀吉との出会い

1569年には、当時足利義昭を将軍として擁立し上洛していた織田信長と二条城で初めて対面することになります。織田信長は日本古来の仏教などの在り方に疑問を持っていた人物でもあったため、ルイスフロイスは織田信長の信任を勝ち取り、畿内でのキリスト布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノらと共に精力的に活動を広めていきました。

1577年には、九州の豊後の大名である大友宗麟がキリシタンに改宗し、九州各地での布教活動で活躍します。1583年以降は宣教の現場からは離れ、日本での布教活動を記録する役目を担い、またアレッサンドロ・ヴァリニャーノの要請を受けて「日本史」の執筆を始めることになります。

信長の死後、豊臣秀吉の時代に入ると、当初の秀吉はキリスト教の布教を許可していましたが、天下統一が目の前まで近づいてくると、キリスト教の影響力に危機感を抱き始め、1587年には伴天連追放令を発令しました。これに伴い、ルイスフロイスは畿内を去ることになり、長崎に移って密かに布教活動しながら「日本史」の執筆に注力します。その後、1592年にヴァリニャーノと共に日本からマカオへ向かい、この地で「日本史」を完成させました。

1595年に病身を押して長崎に戻り、1597年に長崎の「二十六聖人の殉教記録」を執筆し、65歳でこの世を去りました。

ルイスフロイスの人柄・人物像

語学と文筆の才能に長けていた

ルイスフロイスは、イエズス会の宣教師として各地で布教活動を行なっていたと共に、詳細記録の執筆などに才能があった人物と言われています。初めの布教地であるインドのゴアでは各宣教地からの通信を扱う業務に従事しており、日本に来てからは布教活動に従事する傍ら、日本語や日本文化の理解にも努め、詳細を記録していました。

これらはルイスフロイスが執筆した「日本史」という資料に形となって残ります。戦国時代を生きた人々の生活模様や、織田信長や豊臣秀吉など日本史上に名を残す人物たちがどのような人物であったのかなどが記載されており、戦国当時の確かな資料が余り残っていない中で、この「日本史」はルイスフロイスという外国人の第三者から見た目線で物事を捉えており、一つの信憑性を生み出した作品となっています。この「日本史」は現代で翻訳され出版されますが、400字詰の原稿用紙で6000枚を費やす長文に渡っており、戦国〜安土桃山時代の当時の様子を伺うことが出来る大変価値の高い資料として評価されています。

歴史の真の語り部

ルイスフロイスは「日本史」という歴史資料を作り上げますが、これは当時日本人が記した「信長公記」や江戸時代になってから作られた書物と異なり、ルイスフロイスが生で見た事実が織り交ぜられた体験が記録されています。ただ単に記録しただけではなく、ルイスフロイス自体が日本の諸事情に通じており、また詳述を好む性格と非凡な観察眼があってこそ成し遂げられた大作でした。

また、豊臣秀吉など当時の著名人が発した言葉が一人称で記録されており、「皆が見る通り、予は醜い顔をしており五体も貧弱だが、予の日本に置ける成功を忘れるでないぞ」という秀吉の言葉は、外国人であるルイスフロイスだからこそ書けであろう歴史の真実となりました。

ルイスフロイスの名言・エピソード

信長とルイスフロイス

ルイスフロイスが日本でのキリスト布教のキーマンとして頼りにした人物が織田信長でした。織田信長との関係は、信長の新しい物好きの性格も幸いし、相思相愛だったようで、信長についての様々な様子が「日本史」には記されています。

彼が記した信長像は、外見は「中くらいの背丈で華奢、髭は少なく、声は甲高い」、そして内面・行動については「極度に戦を好み、鍛錬に勤しみ、名誉心に富み、正義において厳格だ」と記してあり、「日本史」の中での信長について「とあるキリシタンの家臣が愛人と同居しており、これに対して信長は「キリストの教えに背くのではないのか」と咎め、それでも浮気をやめなかった家臣をクビにした」という記述があります。また「風紀が乱れることに厳しく、二条城の建築中に人夫が女性に絡んでいたところ、信長が激昂して首をはねた」という記述もあり、ルイスフロイスは規則や女性との節度に厳しい信長の姿勢にキリストの教えと準ずる点を感じて好感を持ったのではないでしょうか。

明智光秀極悪人説

織田信長と親しい間柄であったルイスフロイスは、信長に謀反を起こした人物とされる明智光秀についても記録と推察をいくつか残しています。

まずその性格は「頭が良く、狡猾で、主人へのおべっかを欠かさない。余所者で皆に疎まれていた。」「裏切りや密会を好み、刑は残酷かつ独裁的で抜け目がない、戦争においては謀略を得意とし、計略と策謀の達人…」という印象を受けたということが記されています。

また「信長に贈与することを怠らず、おべっかを使い満足させ、時には嘘泣きまでして、そうやって人を騙すことに自分は長けていると他人に自慢する」とあり、本能寺の変後は「明智は残虐な性格だから、京市内を虐殺し、放火を命ずるのではないかと冷や冷やした」「明智は悪魔とその偶像の大いなる友」と過去の比叡山焼き討ちを行なった経緯からも、ルイスフロイスから見た光秀はとても恐ろしい存在であったことが分かっています。

フィクションにおけるルイスフロイス

フィクションにおけるルイスフロイスについて解説していきます。

信長の野望におけるルイスフロイス

信長の野望シリーズでのルイスフロイスは、数多いる南蛮人の一人という扱いになっており、様々なアイテムや技術をもたらしてくれる人物となっています。

ドラマにおけるルイスフロイス

ドラマにおいてのルイスフロイスは、2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」2014年放送のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場しており、両作品ともにブラジル出身俳優のオジエル・ノザキさんがルイスフロイス役を演じられています。

ルイスフロイスは日本の真実を伝えた宣教師

イエズス会の宣教師として来日したルイスフロイスは、非常に優れた観察眼と文才を持ち、「日本史」という現代日本の歴史を語る上で外すことの出来ない、重要な資料を作った人物でした。

日本語や日本の文化に勤しんだルイスフロイスは、キリスト教の宣教師の枠組みを超え、日本人より日本のことを知っている異国から来た伝承者と評価されています。