京極マリアの本名は於慶で浅井長政の妹!キリスト教信仰に生きた女性

京極マリアは浅井長政の妹であり、名門・京極家に嫁いだ女性です。その名は、細川ガラシャ等と並んで敬虔なキリスト教徒として知られており、厳しい時代において生涯信仰を貫いた人物でした。

この記事では京極マリアの生涯を年表付きで分かりやすく解説します。京極マリアがどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける京極マリアなど、様々な視点から解説していきます。

京極マリアの基本情報

京極マリア(きょうごくまりあ)は、近江国出身で、戦国時代から江戸時代初期を生きた女性です。

京極高吉の妻となり京極高次、京極竜子らを産み、キリスト教の洗礼を受けてからはその布教に努めました。

京極マリアの人生(年表付き)

できごと

浅井家に生まれる

京極マリアは、1542年、近江国の大名浅井久政の次女として誕生します。

兄は浅井長政であり、父・浅井久政が1560年に家臣達により家督を強制的に譲渡させられた上に隠居に追い込まれると、3代目当主となった浅井長政のもと浅井家は急成長を遂げていきました。

一方、京極家は鎌倉時代から続き、室町幕府の支配下では三管四職を務めた名門であり、北近江を支配してきた有力な大名でした。浅井家は、その京極家に従う豪族の一つという立ち位置に過ぎませんでした。

しかし、当時の京極家は、南近江を支配する六角氏や、浅井久松の父・浅井亮政らと争う中で、その勢力は衰退の一途を辿っていました。

京極高吉の夫となる京極高吉も、室町幕府13代将軍・足利義輝の近臣として仕えた後、1560年に権力奪回を目指して台頭してきた浅井長政と戦いますが敗北し、近江の支配権は完全に浅井家に移ってしまったのでした。

京極高吉の妻として

そんな状況下の1562年、19歳程だった京極マリアは、59歳の京極高吉の後妻として嫁ぎます。京極家と浅井家の関係修復・強化を図る、完全な政略結婚でした。

二人の仲は良好であったようで、1563年には嫡男・京極高次が生まれ、続いて京極高知、京極竜子ら2男3女に恵まれました。その頃、京極マリアの実家浅井家は、浅井長政が織田信長の妹・お市の方と結婚して同盟を結び、その最盛期を迎えていました。

しかし、その後同盟は決裂して戦となり、1573年の小谷城の戦いでついに浅井家は滅亡、父の浅井久松・兄の浅井長政ともに自害してしまいます。京極高吉は、1568年頃、嫡男・京極高次を織田家の人質として美濃国に送り、自身は家督を譲って隠居しており、また浅井家対織田家の一連の戦にも加担しなかったため、処罰を免れています。

京極マリアも夫に付き従い、上平寺へと隠居しています。その後、安土城下町に移り住んだ京極高吉・京極マリア夫妻は、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父と出会います。

織田信長はキリスト教に対して非常に寛容であり、オルガンティノ神父とも親交をもっていました。そのオルガンティノ神父のもと、1581年に夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受けます。京極マリアの洗礼名は、「ドンナ・マリア」であり、この洗礼名をもって後世「京極マリア」と呼ばれています。

キリスト教の敬虔な信徒

しかし、安土城下でキリスト教洗礼を受けた数日後、夫・京極高吉が急逝してしまいます。

翌1582年には本能寺の変とそれに続いて山崎の戦いが勃発し、明智光秀方についていた武田元明に嫁いでいた長女・京極竜子が豊臣秀吉に捕らえられてしまいます。

京極竜子はそこで豊臣秀吉からその類まれな美貌を見初められて、側室となります。姪である淀殿も豊臣秀吉の側室となっていました。しかし、キリスト教において「側室」という存在は認められていないため、京極マリアは非常に苦悩し、彼女達のために深く祈るようになりました。

さらに受難は続き、1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発令して、キリスト教の弾圧を開始します。

それでも京極マリアは信仰を捨てず、一族の者をキリスト教へと導いていきます。末娘の朽木マグタレナが最初に受洗し、続いて次女・氏家行広室(俗名・阿也)、1596年に次男・京極高知、1601年頃には嫡男の正妻で姪でもある初と嫡男・京極高次が受洗します。

大阪の陣で大阪城が落城した際には、姪の淀殿が自害し、その介錯を次女の夫・氏家行広が務めて果てるなど、京極マリアの心痛が治まることはありませんでした。

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、京極高次、京極高知ともに武功をあげ、京極高次は若狭国8万5千石、京極高吉は丹後国12万3千石の大名へと出世を果たします。

この息子達は、主君である豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教を弾圧したことを受けて、その信仰心は薄らいでおり、大々的に布教活動をしていた母・京極マリアを匿うために、京極高知の領土であり京極高次の領土・若狭国からもほど近い丹後国泉源寺村に隠居させます。

ここで京極マリアは此御堂という建物を住まいとして布教活動を行い、信仰生活に身を捧げながら、1618年に死去しました。

京極マリアの人柄・人物像

京極マリアの人柄や人物像について説明します。

深い信仰心

豊臣秀吉のバテレン追放令から端緒をなして始まったキリスト教弾圧の中でも、京極マリアは生涯決して信仰を捨てなかったことから、彼女が深い信仰心をもった人物であったことは、その人生をみても明らかであると言えます。

息子達に匿われて泉源寺村の隠棲先に赴く際も、京極マリアは自らの足で歩いて行ったと伝わっています。それは、イエス・キリストが血と汗を流しながら、磔にされたゴルゴダの丘に向かったという聖書のエピソードに基づいて、キリストと同じように自分もその痛みを経験しようという想いからでした。

そしてこの隠棲先でも布教活動を行い、安土城下に居た頃から親交のあるオルガンティノ神父によれば、京極マリアはその生涯を通して900人の人々を洗礼に導いたと言われています。晩年を過ごした泉源寺村では「泉源寺様」と呼ばれてその人柄を大変慕われました。

オルガンティノ神父は書簡の中で、日本人について「私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み(中略)、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」と述べています。

このような日本人に対する高評価を構築した一因に、敬虔なキリスト教徒であり多くの人に慕われた京極マリアの人柄があったかもしれません。

愛された母親・強運の持ち主

京極マリアは、2男3女の子供達から非常に尊敬を受け愛された母親でした。

次女・氏家広行室の阿也は、晩年の母を頻繁に見舞いに訪れています。

長女・京極竜子は洗礼こそしなかったものの、側近達の中でも深く愛されて、豊臣秀吉に対してキリスト教徒である母の助命嘆願をしています。

嫡男・京極高次と次男・京極高知も徳川家康から大いに評価されてそれぞれが広大な領土も持つ大名へと出世し、衰えていた京極家の家名を再興させます。そして、京極マリアを守る為に彼女に安寧の地・泉源寺村を与えました。

多くのキリスト教徒やキリシタン大名達が棄教したり追放・非業の死を迎えた中で、京極マリアが最後まで信仰を貫き穏やかな晩年を過ごすことが出来たのは、彼女が京極家と浅井家という高貴な血筋をもっていたことに加えて、娘や息子達が大出世を果たす大変な強運の持ち主であったからだとも言えるでしょう。

京極マリアの名言・エピソード

京極マリアの名言やエピソードについて解説します。

パウロ三木との関わり

1597年、豊臣秀吉は後世「日本二十六聖人」と呼ばれるキリスト教徒達を長崎において処刑します。その中には、京極マリアと同じくオルガンティノ神父から洗礼を受け親交のあったパウロ三木がいました。

京極マリアは捕らえられたパウロ三木を何度も見舞い、彼が京都を引き回されて左耳を切り落とされた際には駆け寄って手当をしようとしました。その後、パウロ三木は陸路で長崎に送られますが、京極マリアは彼が乗せられた荷車の後を鼻緒が切れるのも気にせずに見送っていたと言われています。

末娘・マグタレナの死

子供達の中でも最も早く洗礼を受けた末娘・朽木宣綱室のマグタレナは、1606年、産後の肥立ちが悪く、若くして死去してしまいます。京極マリアはこの末娘を憐れみ、朽木家に懇願して京都の切支丹教会にてキリスト式の葬儀を行わせました。

このことが仏僧らの反発を招き大問題となり、淀殿が徳川家康に苦情を訴える事態へと発展しています。

フィクションにおける京極マリア

フィクションにおける京極マリアを解説します。

戦国BASARAにおける京極マリア

ゲーム『戦国BASARA』では、自分自身を非常に高く評価し、他人をすぐ評価したがる高慢なキャラクターとして登場しています。武器は両手の袖から伸びる布で、属性は風、肩書きは「愛染艶花」となっています。

戦国大戦における京極マリア

カードゲーム戦国大戦では「慈愛の聖女」の二つ名を持つキャラクターとして登場し、浅井朝倉軍の武将として参戦します。ステータスは武力3、統率8の騎馬隊であり、特技は「防柵」と「魅力」となっています。

京極マリアはキリスト教苦境の時代において信仰を貫いた強い女性だった

京極マリアの後半の人生は、キリスト教を寛容に受け入れた織田信長の時代から一変し、豊臣秀吉・徳川家康の時代には厳しい弾圧を受ける苦境の時代となりました。

そんな情勢にも屈せず信仰を貫き、生涯敬虔なキリスト教徒として布教にも努めた京極マリアは、深い信仰心のみならず、強い精神力をもった女性であったと推測することができます。

勢いづいていた浅井家から、名門ながらも衰退していた京極家に後妻として嫁ぎ、その後生家は滅亡するなど、若い頃から苦難を経験した中で、その精神力が培われたのかもしれません。

激動の時代において、苦難の多い人生を送りながらも心の拠り所となるキリスト教と出会い、子供達の出世に恵まれ晩年を穏やかに迎えられたことは、彼女にとって大変幸福であったと言えるでしょう。