黒田孝高は豊臣秀吉の参謀!家紋は有岡城での幽閉生活が由来?

黒田孝高は「軍師官兵衛」の通り名で知られる豊臣秀吉の参謀であり、その天下統一に大きく貢献した頭脳明晰な武将です。主要な戦のほとんどに参加し、武略だけでなく調略や交渉など内政外政問わず幅広く活躍しました。

この記事では黒田孝高の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。黒田孝高がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける黒田孝高など、様々な視点から解説していきます。

黒田孝高の基本情報

黒田孝高(くろだよしたか)は播磨国出身で、戦国時代から江戸時代初期を生きた武将です。

主君・小寺政職が織田信長に討たれた後は、織田信長に、そして長きに渡って豊臣秀吉に仕え、晩年は徳川家康に仕えました。

黒田孝高の人生(年表付き)

できごと

小寺氏家臣時代と織田信長

黒田孝高は1546年、播磨国にて小寺家家老であった父・黒田職隆と、当主小寺政職の娘であった母・お岩の間に生まれました。

1562年には、小寺氏と対立していた浦上氏との戦いにおいて初陣を飾ります。1564年、浦上清宗に黒田孝高の妹が嫁ぎますが、その婚礼当日の宴席中に、赤松政秀の奇襲に合い、浦上清宗・妹共に殺害される事件が起こります。当時の播磨国は小寺氏・浦上氏・赤松氏・別所氏ほか、有力武将が争う群雄割拠の時代であり、この事件を機に赤松氏との対立を激化させました。

1567年、黒田職隆より家督を譲られると、その直後の1569年、織田信長家臣の池田勝正・別所安治らの支援を受けた赤松政秀が、小寺政職の支城の一つで、黒田孝高が守っていた姫路城に攻め込んできました。兵力数の上で圧倒的不利にあった黒田孝高でしたが、籠城しつつ奇襲を仕掛けるなどして、たった300の兵で赤松軍を敗退へと追い込みます。

赤松政秀はその後浦上宗景と戦い降伏しており、赤松氏の勢力は衰退します。一方、この頃織田信長が播磨への侵攻を画策し始め、かねてから織田信長の才能を認めていた黒田孝高は、小寺政職に織田家への臣従を提言します。こうして1575年、羽柴秀吉の取次により岐阜城にて織田信長との謁見を果たします。翌年、主君の小寺政職にも織田信長と謁見させました。

1577年5月、織田氏と結んだ小寺氏と、三木氏と結んだ毛利氏の間に英賀合戦が勃発します。黒田孝高は、500の先鋭兵で奇襲を仕掛けて三木・毛利軍を混乱させ、これに勝利します。

豊臣秀吉の播磨侵攻と有岡城の戦い

同年10月、織田信長は羽柴秀吉を播磨に進駐させます。すると、黒田孝高は姫路城を羽柴秀吉に提供して自らは二の丸に移り、全面的に支援しました。これにより、羽柴秀吉から領地を安堵されると共に、高い信頼を受けて彼の参謀として活躍するようになります。

羽柴秀吉は播磨進駐から約1ヶ月の間に、播磨国の諸将から人質を取り、織田家に臣従させることに成功します。その間、黒田孝高は播磨国上月城の戦いでも武功を挙げ、羽柴秀吉の播磨国攻略の一端を担いました。

しかし、この頃から織田氏と別所氏の間に亀裂が入るようになり、1578年、ついに三木合戦が勃発します。三木城主・別所長治は、東播磨のほとんどの国衆を味方につけて織田氏に反旗を翻し、三木城に籠城しました。黒田孝高は、別所軍の宇喜多直家を調略するなどして活躍しますが、双方奮闘して激戦が続きます。

そんな時に、織田家の重臣であった荒木村重が謀反という衝撃的な一報が入ります。(有岡城の戦い)

織田信長は、明智光秀や高山右近らを説得に向かわせますが、これに失敗、ついに荒木村重の治める摂津国に5万もの大軍を派遣します。その頃、羽柴秀吉も、黒田孝高を荒木村重の説得に向かわせますが、捕らえられて有岡城の牢に投獄されてしまいます。1579年10月に有岡城が陥落するまで、黒田孝高の幽閉生活は10ヶ月にも及びました。

主君の小寺政職は、荒木村重謀反に同調したため、織田信長により討伐されて落ち延び、小寺氏はここで滅亡しました。有岡城から解放された黒田孝高は、1580年、羽柴秀吉に従ってついに別所長治の三木城を陥落させます。

その功労により織田信長から播磨国・山崎に1万石を与えられ、羽柴秀吉の与力となりました。さらに1581年には加増を受け、2万石の大名へと出世します。

豊臣秀吉の天下統一に貢献

三木合戦を終えた黒田孝高は、続いて羽柴秀吉の中国侵攻に従軍します。

1581年に第二次鳥取城攻め、1582年に備中高松城攻めと連戦します。鳥取城攻めは、後世「鳥取の飢え殺し」と評させれた、兵糧攻めによって勝利を飾った一戦ですが、この作戦を提案したのは黒田孝高であったと言われています。

また備中高松城攻めは、羽柴秀吉が水攻めを行ったことで有名ですが、水を堰き止めるために土嚢を積んだ船を沈める策を提案したのも、また黒田孝高であったと言われています。

この水攻めの最中に、本能寺の変が勃発し織田信長が自害に追い込まれます。これを知った黒田孝高は、羽柴秀吉にすぐさま備中高松城戦を和睦させ、明智光秀討伐に向かうよう進言します。こうして羽柴秀吉の中国大返しが行われ、山崎の戦いで明智光秀を破ると、一気に天下統一への道が開かれました。

1583年に織田信長の後継を巡って対立した柴田勝家と羽柴秀吉の間に賤ヶ岳の戦いが起こると、黒田孝高も参戦し、嫡男・黒田長政と共に武功を挙げます。さらに1584年には徳川家康との小牧・長久手の戦いと続きますが、ここでは当初大阪城の居留守役を務めていましたが、後に参戦し、殿を務めるなどして活躍します。

その間に毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定させており、彼らを実施的に羽柴秀吉の配下に加えることにも成功しています。

1585年からは四国攻め従軍を命じられ、その先鋒を務めます。四国の諸城を陥落させ、ついに長曾我部元親を降伏させました。さらに九州征伐と続き、豊臣秀長指揮のもと先鋒隊を務め、ここでも次々に城を落とし、島津氏を降伏させました。

こうして四国・九州平定を成し遂げた黒田孝高は、豊前国12万石を与えられ、中津城の築城に着手します。

1589年には黒田長政に家督を譲り隠居しますが、1590年の小田原攻めでは、使者として小田原城に赴き、当主・北条氏政を説得し、無血開城させることに成功します。これを持って、ついに豊臣秀吉は天下統一を成し遂げたのでした。

豊臣家との亀裂と関ヶ原の戦い

1592年に豊臣秀吉(1586年に羽柴より改姓)が朝鮮出兵を開始すると、黒田孝高もこれに参加して朝鮮に渡ります。

しかし、豊臣秀吉が計画した晋州城攻略計画に反対したことから石田三成と対立し、帰国してしまいます。豊臣秀吉はこれを戦線離脱とみなし激怒、のちに黒田孝高に蟄居を命じたため、1593年に出家し、如水と名乗るようになります。

その数年後の1598年に豊臣秀吉が死去、さらに1599年に徳川家康と豊臣氏旧臣らの均衡を保つ存在だった前田利家が死去すると、嫡男・黒田長政は石田三成との対立を深め、徳川家康に接近していきます。

こうした中、1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると、黒田家は当然東軍に加わります。嫡男・黒田長政は豊臣恩顧の大名の多くを徳川方に引き込んだ上、次々と武功を挙げ、黒田孝高も、九州に残って戦うと同時に、小早川秀秋や吉川広家など西軍の諸将の寝返りを交渉する役目を果たします。

戦後、これらの功績は徳川家康に賞賛され、筑前国52万3千石を与えられました。そして1604年、病を受けて59歳で死去しました。

黒田孝高の人柄・人物像

黒田孝高の人柄や人物像について説明します。

豊臣秀吉からの評価

天正5年に豊臣秀吉から送られた書状には、「あなたのことは、弟の小一郎と同じように心安く思っている。何も言わなくても、あなたの判断で進めれば良い。播磨国では、あなた方父子のやる事で間違いないだろう。」と記されており、いかに豊臣秀吉からの信頼が厚かったかが分かります。

織田信長や北条氏政もまた、黒田孝高の人柄に惚れ込んだ人物の一人です。

織田信長からは、岐阜城で謁見した際に名刀「圧切長谷部」が与えられ、北条氏政からは小田原城開城の説得の際に、名刀「日光一文字」、歴史書「吾妻鏡」、法螺貝「北条白貝」といった北条家の数々の宝を贈られています。

倹約家

つづらや着物は破れても繕って使い続けるほどの倹約家であり、家中においても野菜の皮も捨てずに漬物にさせたり、魚の骨から吸い物を作らせるなど、倹約を徹底していました。

しかし、関ヶ原の戦いの際は、これまで蓄財してきた金をおしみなく浪人や百姓に与えて、9千人にも及ぶ即席軍を創設し戦いに臨んでいます。

虎視眈々と天下を狙う野心家

九州平定後の黒田孝高に対する功労は、12万石と、他の大名と比べると非常に少なくなっています。これは、豊臣秀吉が黒田孝高がこれ以上力をつけたら危険だと考えたからだと言われています。黒田孝高はこの豊臣秀吉からの警戒を察知し、家督を譲り隠居に入りました。

晩年の豊臣秀吉が、側近達に次に誰が天下を治めると思うか、と投げかけると、側近達は五大老の名前を挙げました。豊臣秀吉はこれを否定し、「次に天下を取るのは黒田孝高だ」と答え、「常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども徳川は温和なる人なり、黒田の疱天窓(=黒田孝高)は何とも心を許し難き者なり」と評しています。

このように、晩年の豊臣秀吉も、黒田孝高の才能を認めると同時に、彼が天下を狙っていて、しかもそれだけの器があると恐れていたことがわかります。

1600年10月に吉川広家に宛てた手紙には、「関ヶ原の戦いがあと1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりだったが、徳川家康の勝利が早々と確定したために何も出来なかった」と記しています。

また、創作性が強いものの、大正時代に著された『黒田如水伝』においては、嫡男・黒田長政との以下のようなやりとりあったとされ、黒田孝高が虎視眈々と天下を狙っていたことが伺えます。

黒田長政「徳川家康殿が、関ヶ原の勝利は私のおかげだと手を握ってくださいました。大変嬉しく思います。」

黒田孝高「何を言うか。その時、お前のもう片方の手で家康を誅殺していれば、今頃は黒田の天下となっていたものを。」

黒田孝高の名言・エピソード

黒田孝高の名言やエピソードについて解説します。

有岡城での幽閉生活と家紋

黒田孝高が荒木村重に幽閉された場所は、有岡城の西北の隅にあり、上下左右を溜池と竹藪に囲まれた、太陽の差し込まない陰鬱で窮屈な場所でした。

10ヶ月にも渡る過酷な牢獄生活の中で、日光不足や栄養失調から皮膚病にかかり、膝はすっかり曲がってしまいました。そして、解放されてもなおそれらが治ることはありませんでした。

身動きの取れない牢獄の中で黒田孝高の心を癒したものは、隙間から見える藤の花だけでした。この時の思い出から、後に黒田家の家紋を「藤巴」に定めています。

黒田家の家紋は、もう一つ「石餅」があります。

有岡城に説得に向かった黒田孝高が中々帰ってこなかったので、荒木村重と内応したと考えた織田信長が、当時人質に出されていた嫡男の黒田長政を殺すよう命じます。

そこで、豊臣秀吉のもう一人の軍師であった竹中半兵衛が、黒田孝高が裏切るはずがないと考えて機転を利かせ、偽の首を差し出すことで黒田長政の命を救ってくれました。

竹中半兵衛は、黒田孝高が解放された時すでに他界してしまっていたのですが、息子の命を救ってくれた恩に深く感謝し、竹中半兵衛が使用していた石餅の家紋を使用するようになったのです。

鶴姫の悲劇

九州平定で大きな功績を挙げた黒田孝高は、豊前国12万石を与えられ統治を開始しますが、これに反発した大友氏の旧臣・宇都宮鎮房が反乱を起こします。宇都宮鎮房は土地の利とその優れた武勇をもって黒田孝高を苦戦させました。

その末、両者の間で講和が結ばれて宇都宮鎮房は降伏し、その娘・鶴姫も人質として黒田長政の側室となることになり、黒田家に入りました。

しかし、ある日黒田孝高と黒田長政は宇都宮鎮房を祝宴を催したいとして呼び寄せ、その場でだまし討ちして誅殺してしまいます。鶴姫もまた、磔の上殺害されてしまいました。(自害したとも)

鶴姫は、「私を磔にする杭を打ち込む音を聞いて、一族が滅びるのを待つ」という意味の辞世の句を残しています。後に黒田孝高は騙し討ちで武勇に名を馳せた宇都宮鎮房と罪のない鶴姫を殺害したことを深く悔やみ、中津城内に慰霊の神社を創建しています。

フィクションにおける黒田孝高

フィクションにおける黒田孝高を解説します。

信長の野望における黒田孝高

シリーズによっても異なりますが、黒田孝高のステータスは、統率91、武勇60、智略99、政治91となっています。豊臣秀吉の下で様々な妙案を計画実行した史実通り、智略において99という非常に高い数値を誇っています。

ドラマにおける黒田孝高

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では、主人公として歌手で俳優の岡田准一さんが演じました。

剣や勉学に興味を持たない落ちこぼれの少年から、やがて兵法書を読破する知恵者となり、有岡城幽閉後は、巧妙かつ狡猾とも言える采配を振るい豊臣秀吉を支えた様子が描かれました。

ドラマの中では、晩年は自ら天下を掴もうとしますが、関ヶ原の戦いでその野望が潰え、二度と戦のない世の中を作ると語る徳川家康に全てを託したとされました。

黒田孝高は類まれな知略と優れた先見性で豊臣秀吉の天下統一をもたらした智将

黒田孝高は、播磨国の一部の領土を治める大名の一家臣に過ぎなかった所から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人にその類まれな頭脳を評価され、50万石を越す大大名へと、黒田家の名を押し上げました。

特に豊臣秀吉の下では大いなる活躍をみせ、黒田孝高の智略と本能寺の変後に中国大返しを提案したような先見性がなければ、豊臣秀吉の天下統一という覇業は達成できなかったかもしれません。

鳥取城での兵糧攻めや備中高松城での水攻めと言った作戦から、「戦わずして勝つ知将」のイメージが強いですが、初陣以降様々な戦いで武功を挙げており、武勇の面でも非常に優れた武将であったと評価することが出来るでしょう。