九戸政実は奥州の陸奥国一帯を抑めた南部氏を祖先とする一族として生まれた武将です。戦国末期に起きた南部家の後継者争いでは南部信直と対立し、豊臣秀吉の国内最後の討伐相手となる形で戦いに敗れて非業の最期を遂げた人物です。
この記事では九戸政実の生涯を年表付きで分かりやすく解説して生きます。九戸政実がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマなどフィクションにおける九戸政実など、様々な視点から解説していきます。
九戸政実の基本情報
本名 | 九戸政実(くのへ まさざね) |
生涯 | 天文5年(1536年)〜天正19年(1591年) |
時代 | 戦国時代〜安土桃山時代 |
出身国 | 陸奥国 |
居城 | 九戸城 |
主君 | 南部晴政→晴継 |
官位 | なし |
妻(正室) | 四戸政恒の娘 |
子 | 市左衛門、弾正他 |
九戸政実(くのへまさざね)は陸奥国出身の戦国時代を生きた武将です。
戦国末期に起きた南部氏の跡目争いで挙兵した人物ですが、最期は天下人である豊臣秀吉の大軍を相手に太刀打ちまわり、兵6万対5千という圧倒的劣勢の中で非業の死を遂げた人物です。
九戸政実の人生
年 | できごと |
---|---|
1536年 | 九戸村の大名館で誕生 |
1565年 | 南部晴政が養子として南部信直を迎える |
1570年 | 南部晴政に実子である南部晴継が誕生 |
1576年 | 南部信直の正室(南部晴政の娘)が死去し、兼ねてからあった晴政と信直の確執が深まる |
1582年 | 南部晴政が病死し、家督を南部晴継が継ぐ |
1582年 | 南部晴継と南部信直の間で家督争いが勃発 |
1582年 | 南部晴継が暗殺され、信直が後継者となる |
1586年 | 後継者決めに不満を持った九戸政実は自らが南部家当主であることを主張 |
1590年 | 豊臣秀吉による奥羽仕置が行われる |
1591年1月 | 九戸政実は5,000の兵を率いて南部信直に挙兵 |
1591年9月 | 南部信直が援軍要請を行い、豊臣軍6万の兵により九戸城を包囲され、斬首される |
生誕〜南北家の勢力争い
九戸政実は天正5年(1536年)に九戸村の大名館で生まれます。九戸氏は南部氏の始祖である南部光行の六男である行連を祖先とした一族で、九戸村を領地として盛えていました。
元々国人衆が各々に独立して領土を治めていた奥州では、中央集権化が進んでおらず、特に南部領内は広大たったことから南部宗家(三戸南部氏)は各地の統制に奮闘していました。
南部宗家の第24代当主南部晴政は家督を継いだのち、反抗勢力を討伐し南部氏を統一しますが、男子の世継ぎがいなかったため、1565年に娘婿として叔父である石川隆信の子である南部信直を迎え入れます。
その後も南部晴政は領内統一を目指し戦いを行っていき、また氏族内の関係強化を図るために九戸政実を始めとして自らの「政」という字を与えたとされています。
当時の南部領内がいかに広いかを表した歌があり「三日月の丸くなるまで南部領(三日月の頃に南部領に入って、連日歩いても領内を抜けれるのは満月の頃までかかってしまう)と詠われています。
分裂化していく南部家
南部信直を養子に迎え後継に据える形で進んでいた南部家ですが、1570年に南部晴政の実子となる南部晴継が誕生することで状況が変わり、晴政と信直の間に確執が広がっていきました。
1571年には南部氏族である津軽為信が同族支配を目論んで次々と南部氏族を攻め立てていきます。この騒乱で南部信直の実父である石川高信も殺されてしまいますが、南部晴政は信直との確執があった為、自らこの戦いには身を投じず関係はさらに悪化の一途を辿っていきました。
1572年には南部信直が晴政を鉄砲で狙撃し落馬させ、また九戸政実の弟である九戸実親にも発砲する事件が発生します。1576年には信直の正室(晴政の娘)が亡くなる事でいよいよ対立は激化し、南部晴政・九戸氏を始めとする勢力と南部信直を支持する北信愛らの勢力の二大勢力へと分裂していきます。
南部晴政の死と後継者争い
家中分裂のピンチであった南部家は1582年に南部晴政が病没する事で後継者争いへと発展していきました。
晴政が病死すると次期家督相続者として実子である南部晴継が後を継ぎますが、父晴政の葬儀の後に三戸城へ帰還する途中を狙われ暗殺されてしまいます。それを受けた南部家では急遽次期後継を決める評定が行われ、従来世子とされていた信直と南部晴政の二女の婿である九戸実親(九戸政実の弟)を推す二派閥に別れますが、結果として北信愛ら重臣が推す南部信直が次期後継者として決定しました。
その決定に不服として九戸政実は自領内に戻り、1586年には自身が南部家の当主である旨を主張し始めます。そして1591年の1月、南部家の正月参賀への参加を拒否する形で5,000の兵を率いて挙兵しました。
九戸政実は武力にも秀でており、豪勢を誇る九戸勢を相手に苦戦を強いられた南部信直はついに世の天下人であった豊臣秀吉に対して援軍要請を送ることにしました。
1591年9月、それに応じた豊臣秀吉は6万もの大軍を率いて九戸政実が居城とする九戸城を包囲します。圧倒的な勢力差に勝利の兆しがないことを確信した九戸政実は、出家した姿で豊臣方に降伏を行いますが、一族郎党皆殺しにされ、自身も斬首される形で無念の生涯を閉じました。
九戸政実の人柄・人物像
南部氏切っての強者
南部一族の中でも特に強かった九戸勢は一族内でも一目を置かれる存在であったことが確かで、南部宗家とも対等な立場でお互いの領土を治めるという関係性を築いていました。
また九戸政実は北奥随一の武者とも言われ、武勇にも優れた武将であったとされています。南部家の主な戦いでも活躍し、また1569年には当時秋田一帯を領土としていた安東氏との戦いで鹿角群を奪い返し、自らの勢力拡大にも成功しています。
家督相続争い時も南部信直が天下の豊臣秀吉に頼らざる負えなかったことから、九戸政実がいかに武勇に優れていたかが垣間見えます。
天下に喧嘩を売った最後の男
1591年の家督争いに乗じて起きた戦いは「九戸政実の乱」と呼ばれ、豊臣秀吉の天下統一においての最後の相手となりました。
これは九戸政実の挙兵が奥州各地に憤りを持っていた反豊臣政権の決起にも繋がっており、九戸政実の戦上手に敵わないとした南部信直の援軍要請との思惑が合致したことによります。
既に全国は豊臣政権下で固まっていた圧倒的不利な状況下で、周囲の不満を一挙に背負い挙兵した九戸政実の姿は、戦国時代という一つの時代の終わりを象徴する戦いでした。
この戦いで豊臣方から参戦した総大将は豊臣秀次、徳川家康、伊達政宗、石田三成、蒲生氏郷、上杉景勝、浅野長政、井伊直政、大谷吉継など、錚々たるメンツを相手に戦っています。このことから九戸政実は「天下に喧嘩を売った」戦国最後の勇将として地元でも英雄と評されています。
九戸政実の名言・エピソード
九戸政実の名言やエピソードについて解説していきます。
悲劇を生んだ偽りの和睦
1591年の九戸政実の乱にはとても悲しいエピソードが残っています。
戦の最中、豊臣の圧倒的兵力の差で追い込まれた九戸政実の元に豊臣方からある一通の書状が届きます。
そこには豊臣の大軍を前にして勇猛果敢に戦う九戸政実の武勇を評価した上で、天下を敵に回して立ち回ることへの無益さが書かれていました。またこれ以上の抗戦は城内にいる家臣や家族たちの命を奪うことになるため、ここで降伏すれば一族郎党の命と安寧を保証する旨が書かれていました。これを受け取った九戸政実は家中の身を案じ、ついに降伏することを決意して弟の実親に城の開城を任せて自らは豊臣陣中へ投降します。
しかし、この和睦状は豊臣方の罠であって、九戸城が開城した途端に豊臣の大軍が城内へ流れ込み、一斉に火をつけ、さらには家中の兵や女子供までの全員が殺されてしまいました。
九戸城が燃え尽きる姿に唖然とする九戸政実は、悲しみに暮れながら豊臣陣中に引き出され、辞世の句も残さぬまま無念の死を遂げました。
地元の英雄となった九戸政実
史実のみで語る九戸政実は一見すると天下の逆賊と捉えかねませんが、豊臣天下に最後まで争った人物として地元(現在の二戸市)では英雄伝説として今も語り継がれています。
そのうちの一つに「九戸政実武将隊」という二戸市を中心として甲冑を身につけ、当時の演舞や殺人を演じるPR活動なども行われています。
また九戸政実の居城であった九戸城跡は戦国終焉の地として国指定の史跡となり、著名な観光地として今も人々に愛されています。
フィクションにおける九戸政実
フィクションにおける九戸政実を解説していきます。
信長の野望における九戸政実
九戸政実の信長の野望における能力値は、各シリーズで若干異なりますが、高数値がついているシリーズでは統率72、武勇78、知略42、政治36と軍事能力に特化しており、勇猛果敢な武将としての九戸政実が再現されています。
小説における九戸政実
九戸政実を主人公とした小説に著者高橋克彦さんによる「「天を衝く」~秀吉に喧嘩を売った男、九戸政実」があります。こちらの小説では、権力に対抗する戦国最後の勇将としてその生き様が描かれています。
九戸政実は天下の豊臣を相手に最後まで戦った勇猛武将
九戸政実は戦の天才としてその名を轟かし、また戦国終焉の中で最後まで権力と戦った武将でした。
その最期は豊臣秀吉の悲痛なまでの策略により終わりを迎えてしまいますが、九戸政実が残した信念は今も英雄伝説として残り続けています。