九鬼喜隆は後世「海賊大名」と渾名された武将で、生涯、織田信長や豊臣秀吉から水軍の大将として重用されました。特に第二次木津川口の戦いや朝鮮水軍との戦いでの活躍が知られています。
この記事では九鬼喜隆の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。九鬼喜隆がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける九鬼喜隆など、様々な視点から解説していきます。
九鬼喜隆の基本情報
本名 | 九鬼嘉隆(くきよしたか) |
生涯 | 天文11年(1542)〜慶長5年10月12日(1600年11月17日) |
時代 | 戦国時代〜安土桃山時代 |
出身国 | 志摩国 |
居城 | 波切城、鳥羽城 |
主君 | 織田信長→織田信雄→豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
官位 | 従五位下、右馬允、大隅守、宮内少輔 |
妻(正室) | 妙天院 |
子 | 九鬼成隆、九鬼守隆、九鬼主殿助ほか |
九鬼嘉隆(くきよしたか)は志摩国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。
織田信長・織田信雄父子に仕えた後、死去するまで豊臣秀吉・豊臣秀頼父子に仕えました。
九鬼喜隆の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1542年 | 誕生 |
1560年 | 北畠具教らによって田城城を攻められる |
1569年 | 織田信長の家臣となる |
1583年 | 九鬼家の家督を継ぐ |
1574年 | 伊勢長島の一向一揆衆鎮圧に参加する |
1576年 | 第一次木津川口の戦いに参加する |
1578年 | 第二次木津川口の戦いに参加する |
1582年 | 本能寺の変が勃発 |
1584年 | 小牧・長久手の戦いに羽柴軍として参加 |
1587年〜1590年 | 九州平定・小田原征伐に参加 |
1592年 | 朝鮮出兵に参加 李舜臣の挑戦水軍と戦う |
1597年 | 家督を譲って隠居する |
1600年 | 関ヶ原の戦いが勃発する
家臣の勧めによって自害する |
織田信長の家臣となる
九鬼嘉隆は、1542年、伊勢国司・北畠氏に属していた九鬼氏の次男として誕生しました。この頃、志摩国には海賊と呼ばれる国衆が多数おり、九鬼氏を含め「志摩地頭13人衆」と呼ばれていました。九鬼氏はその中でも勢力が強く、「志摩海賊七人衆」にも数えられていました。
九鬼家の家督は兄の九鬼浄隆が継いでいましたが、1560年、九鬼氏を除く12氏族の地頭達が、九鬼氏の勢力拡大を危険視した北畠具教の支援を受け、本拠地田城城を攻めてきます。この戦いで九鬼浄隆は戦死(病死とも)し、九鬼一族は敗走し鳥羽・朝熊山に逃亡しました。
その逃亡生活の最中、九鬼嘉隆は織田信長家臣の滝川一益と親交を持ち、その仲介で織田信長に謁見しました。1569年、織田信長は九鬼氏の恨みの的である北畠具教を侵攻します。ここで九鬼嘉隆は水軍を率いて北畠氏の支城・大淀城を陥落させるという武功を立て、正式に織田信長の家臣として迎えられました。
その後、一族を敗走に追い込んだ志摩の地頭達を次々と攻め破り、織田信長から志摩国一帯の領有を認められ、以降九鬼嘉隆は織田家の水軍創設に尽力するようになります。1583年には織田信長の取り計らいにより、九鬼家の家督を相続しました。
第二次木津川口の戦い
天正年間に入ると、織田信長は一向一揆衆との戦いを激化させます。
1534年、伊勢長島で一向一揆衆が反乱を起こすと、九鬼嘉隆はその殲滅戦に参加し、水軍を率いてこれを鎮圧させます。
続く1576年には、石山本願寺勢が毛利氏の援助を受け、第一次木津川口の戦いが発生します。九鬼嘉隆はここでも水軍を率いて毛利水軍・村上水軍と戦いますが、焙烙玉や火矢等の猛攻を受けて多くの船が炎上し、大敗してしまいます。
織田信長はこれに激怒し、九鬼嘉隆に「燃えない船を造れ」と命じます。これを受けて九鬼嘉隆が作り出したのが、6隻の鉄甲船でした。1578年の第二次木津川口の戦いではこの鉄甲船を出陣させ、毛利水軍・村上水軍を見事討ち破り大勝します。
この武功により領土を加増され、九鬼嘉隆は3万5千石を有する大名へと出世を果たしました。
豊臣秀吉への臣従と朝鮮出兵
1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の間に小牧・長久手の戦いが勃発すると、当初、九鬼嘉隆は織田信雄に従って参戦しますが、旧友であり豊臣氏の配下に入っていた滝川一益からの調略を受け、豊臣方に寝返ります。
その後、滝川一益と共に蟹江合戦の主導者として参戦し、水軍を率いて奮闘しますが、敗戦を喫し、徳川・織田軍の勝利に終わりました。しかし、この一連の働きにより豊臣秀吉から認められてその家臣となり、1587年には九州征伐に、1590年には小田原征伐に参加します。
そして、1592年には豊臣秀吉の命を受けて朝鮮に出兵します。(文禄の役)
九鬼嘉隆は水軍大将に任じられ、日本丸と呼ばれる艦隊に乗船し、藤堂高虎や加藤嘉明・脇坂安治らと共に出陣しました。
朝鮮に到着した九鬼嘉隆率いる日本勢の水軍は、沖島の戦い・熊川の戦いと連戦して大勝を飾り、釜山周辺を鎮圧、朝鮮の東莱城も陥落させます。陸軍も首都の漢城を制圧し、戦いは日本軍の圧倒的有利に進んでいました。
しかし、朝鮮水軍の李舜臣が巨済島の玉浦で藤堂高虎の水軍を撃破したことで、戦況は一変、各所で日本軍が連敗するようになります。そんな状況下にあった6月、脇坂安治が朝鮮軍の撃退に成功し、豊臣秀吉から朝鮮水軍殲滅の命令が下されます。
これを受けて、九鬼嘉隆や加藤嘉明が水軍を再編成して連合軍として出撃しようと準備しますが、さらなる武功を求めた脇坂安治が、手勢の軍勢だけで先に突撃してしまい、閑山島の戦いが起こります。この戦いで脇坂安治は大敗し、援軍に駆けつけた九鬼嘉隆の水軍も破れました。
その後の釜山浦海戦などで日本軍は再び朝鮮水軍に勝利するようになりましたが、明軍の参戦や民間蜂起なども発生して一時停戦となり、九鬼嘉隆も帰国しました。続く慶長の役では、文禄の役での失敗もあったことから日本に止まって参戦せず、1597年には次男の九鬼守隆に家督を譲り隠居しました。
関ヶ原の戦い
1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると、九鬼嘉隆は西軍に加わります。当時、伊勢国・岩手城主の稲葉道通と対立しており、彼が東軍参戦を表明したことを受けて、西軍として参戦したと言われています。
しかし、家督を継いだ九鬼守隆は東軍に加わりました。これは、どちらが破れても家名を存続させるための九鬼嘉隆の戦略でした。関ヶ原の戦いにおいて、九鬼守隆は西軍の桑名城主・氏家氏を破るなど活躍します。一方の九鬼嘉隆も、留守になっていた鳥羽城を奪い、伊勢湾を閉鎖して安濃津城を孤立させるなど奮闘しました。
戦いが東軍の勝利に終わると、九鬼嘉隆は答志島へ逃走し、家臣の豊田五郎右衛門に説得され、そこで自害しました。59歳でした。
その時、九鬼守隆は徳川家康に父の助命嘆願を行い、池田輝政らの支援も受けてこれをなんとか認めてもらっていました。しかし、その知らせは間に合わず、既に父・九鬼嘉隆は絶命していたのでした。
九鬼喜隆の人柄・人物像
九鬼喜隆の人柄や人物像について説明します。
アイディアマン
九鬼嘉隆は、第一次木津川口の戦い後に6隻の鉄甲船を造船するなど(後述)、様々なアイディアを発案・実行して主君に貢献しています。造船においては、こと細かく記された指示書が現在も残っています。
造船以外でもその発想力が活かされており、1594年に鳥羽城を築城しています。この鳥羽城は別名「鳥羽の浮城」と呼ばれており、水軍の城として様々な工夫がなされています。大手門が海側に突出して作られており、この大手波戸水門を城の出入口としていたことなどが、その一例として挙げられます。
このような九鬼嘉隆の才能は、主君から大いに評価されており、鉄甲船造船においては、織田信長は多額の資金援助をしています。
豊臣秀吉も、1588年に海賊禁止令を発布した後も、九鬼氏にだけは鳥羽湾の通行支配権を許したり、朝鮮出兵の際に九鬼嘉隆に金団扇の馬印や茜色の吹貫を与えられたと言われています。
文化人としての一面
茶道に造詣が深く、津田宗及の茶会に頻繁に参加したり、また自身でも何度も茶会を催しており、数奇者としての一面も持った武将であったようです。
九鬼喜隆の名言・エピソード
九鬼喜隆の名言やエピソードについて解説します。
燃えない船の造船
第一次木津川口の戦いで大敗した九鬼嘉隆は、織田信長の怒りを買いますが、「燃えない船を造れ」という名誉挽回の機会を与えられます。九鬼嘉隆はこれを受けて必死の覚悟で造船に取り掛かりました。
当時、木造船が一般的だったので、火矢で襲撃されると燃えてしまい、一溜まりもありませんでした。そこで考えついたのが、船首から船尾まで鉄を貼ることで対火性を備えさせた鉄甲船です。
鉄で隅々まで武装した上に、大筒と大砲を3つ装備させ、更に弓や鉄砲を発射するための狭間も設けて、前後左右死角のない大船を造り上げました。船は縦12m、横22m、収容人数5,000人という大変大きな船で、「伊勢浦の大船」と呼ばれました。
戦勝後、九鬼嘉隆がこの船に乗り堺の港に入った際、織田信長は近衛氏・細川氏・一色氏や一般民衆らも集めて「大船御覧」と言う披露式を行いこの大船を大いに自慢しています。
当時来日していたイエズス会士オルガンチノは、その報告書において「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」と書き残しています。
日本丸を造船したのは誰か
文禄の役で九鬼嘉隆が乗船した「日本丸」は、全長32mにも及ぶ日本屈指の大船でしたが、誰が造船したかについて諸説あり、毛利水軍が造船したとも言われていますが、通説となっているのが九鬼嘉隆造船説です。
この説においては、1593年に豊臣秀吉の命によって九鬼嘉隆が造船し、当初「鬼宿丸」と命名されたものの、豊臣秀吉の指示で日本で最も優れた船、という意味で「日本丸」に改名されたと言われます。
『九鬼御伝記』においては、日本丸が艦隊の楯として突出し、長時間に及ぶ朝鮮水軍による集中攻撃で矢倉は撃ち落とされて端々しか残らず、帆柱も射切られる大損害を受けながらも、沈むことはなく健在であった、と記されています。
最期の言葉
家臣の豊田五郎右衛門から、「守隆様は東軍で活躍したけれども、喜隆様が西軍に加わった上に逃走して身を隠したことを、徳川家康はよく思っていない。九鬼家の存亡は、あなたにかかっている。」と切腹を勧められた九鬼嘉隆は、
「この命を惜しいとは思わないが、この何日間か恥を忍んで生き長らえたのは、ひとえに子供達の行く末が気になったからだ。守隆の忠義が私の罪のために消えてしまうのは本意ではない。子供のためだったら、この命が露と消えても構わない。
白髪頭のこの首を、徳川家康へ差し出して、守隆への災いを避けてやってくれ。」
と言う、武将としての誇りと、子を思いやる父としての気持ちが伝わる言葉を残して自害したと言われています。
フィクションにおける九鬼喜隆
フィクションにおける九鬼喜隆を解説します。
信長の野望における九鬼嘉隆
シリーズによっても異なりますが、九鬼嘉隆のステータスは、統率76、武勇70、知略59、政治48となっています。織田家や豊臣家の家臣として水軍を率いた史実から、統率や武勇において高数値となっています。
小説における九鬼嘉隆
これまで、九鬼嘉隆が目立って登場するドラマはありませんが、九鬼嘉隆を主役とする小説がいくつか存在します。
第5回柴田錬三郎賞を受賞した白石一郎著『戦鬼たちの海』では、志摩の土豪から身を起こした九鬼嘉隆が、やがて織田信長の知遇を受け、文禄の役で総大将として海戦に明け暮れた数奇な人生の様子が描かれています。
九鬼嘉隆は水軍大将として生涯を海戦に捧げた不撓不屈の武将だった
九鬼嘉隆は、「志摩海賊七人衆」と呼ばれた有力な一族に生まれながら周囲に裏切られて苦境の時代を過ごし、そこから織田信長・豊臣秀吉という天下人のもと日本内外問わずに水軍を率いて奮闘して家を復興させ、その名を轟かせました。
第一次木津川口の戦いでの敗戦した後も、自らの類まれな発想力を活かして鉄甲船を造船して勝利に導き、文禄の役でも苦戦しながらも李舜臣を苦しめており、「海賊大名」の渾名に恥じぬ勇猛さと、不撓不屈の強い精神力を持ち合わせた武将であったと言えます。
最期は息子・九鬼守隆の願い届かず自害してしまいますが、助命の知らせが間に合って九鬼嘉隆が命を長らえさせていれば、九鬼家の歴史もまた変わっていたかもしれません。