朽木元綱は歴史を動かした立役者?金ヶ崎の戦い・関ヶ原の戦いで演じた役割とは

朽木元綱は鎌倉時代から続く名門朽木家に生まれた武将で、織田信長を金ヶ崎の戦いにおける「朽木越え」で助けた恩人であり、また関ヶ原の戦いで豊臣家を裏切った「西軍裏切り四将」の一人としてその名前が残っています。

この記事では朽木元綱の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。朽木元綱がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマにおける朽木元綱など、様々な視点から解説していきます。

朽木元綱の基本情報

朽木元綱(くちきもとつな)は近江国出身で、戦国時代から江戸時代前期までを生きた武将です。

室町幕府将軍の奉公衆として足利義輝、足利義昭に仕えた後は、織田信長、豊臣秀吉に仕えます。関ヶ原の戦いでは当初豊臣方に付きますが寝返り、以降は徳川家康に仕えました。

朽木元綱の人生(年表付き)

できごと

室町幕府の奉公衆として

1549年に誕生した朽木元綱ですが、すぐに父が戦死したため、わずか2歳で家督を継ぎます。

朽木氏は、鎌倉時代から続く近江源氏をルーツとする名門であり、足利尊氏の室町幕府創設にも貢献した一族であったため、代々「奉公衆(将軍直轄の御家人衆)」として将軍に仕えてきました。足利将軍家は、祖父の時代には既に勢力を無くしており、12代将軍・足利義晴とその息子で13代将軍・足利義輝は家臣の三好氏によって京都を追われていました。父は本拠地の朽木谷にて彼らを匿っていましたが、1553年より、朽木元綱も父に引き続き足利義輝を保護します。(足利義晴は1550年に死去)

 

織田信長を助けた”朽木越え”

1566年、北近江を支配し勢力を伸ばしていた浅井長政による高島郡侵攻が開始します。この頃浅井長政は織田信長の妹・お市の方と結婚し同盟を結んでおり、戦っても勝ち目がないと考えた朽木元綱はすぐさま人質を差し出し起請文をかわして浅井氏に従属します。

しかし、その直後将軍足利義昭により所領を安堵されたこともあって、この起請文はすぐに破棄しています。

1570年、越前の朝倉氏との戦の最中であった織田信長に対し、突如同盟を破棄し朝倉方へと裏切った浅井氏が追撃してきます。(金ヶ崎の戦い)大混乱に陥った織田軍は、京都への退却を余儀なくされます。しかし、京都に戻るまでには、どうしても浅井氏支配下の領地を通らねばなりませんでした。

朽木街道に織田信長が入ったと知らせを受けた朽木元綱は、ここで織田信長を討取ることも多いに可能でしたが、攻撃するどころか朽木城に宿泊させてもてなし、加えて京都までの警護役まで引き受けます。こうして命からがら、織田信長は京都まで帰ることが出来たのです。

こうして翌年の1571年より、朽木元綱は織田信長に臣従し、高島郡の代官に任命されました。1582年の本能寺の変により織田信長が死去した後は豊臣秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦い、1584年の小牧・長久手の戦いなどに従軍し武功をたてていきます。

1590年からの対北条氏小田原征伐にも参加し、功労として伊勢安濃郡2,000石、近江高島郡9,200石程の領土を安堵され、さらに高島郡にあった豊臣家直轄地(蔵入地)の代官にも任命されます。

関ヶ原の戦い

1600年に関ヶ原の戦いが始まると、西軍として参陣し大谷吉継の指揮下に入りますが、小早川秀秋に呼応して脇坂安治、小川祐忠、赤座直保と共に東軍に寝返ります。通説では、東軍の藤堂高虎の事前調略によってはじめから寝返りを約束していたと言われています。この四将の裏切りが西軍を混乱させ、結果として東軍の勝利に終わりました。

その寝返りによって勝利を導いた影の立役者とも言える朽木元綱でしたが、「東軍に対して事前に寝返りを通告しなかったため」という理由で、近江2万石から9,500石へと領地を半減されてしまいます。しかし、再度豊臣方に戻ることはせず、その後の大阪冬の陣・夏の陣にも徳川方として参戦しています。

1616年に出家して信仰の道に生き、1632年、84歳で亡くなりました。

朽木元綱の人柄・人物像

朽木元綱の人柄や人物像について説明します。

織田信長からの評価

1571年より織田信長の家臣となり、高島郡の代官に任命された朽木元綱ですが、1579年には「非分を行った」として罷免されてしまいます。”非分”の具体的内容はわかっていません。このように、織田信長にとって朽木元綱は命を救った大恩人であるにも関わらず、厚遇を受けることがありませんでした。

このことから、織田信長からは、朽木元綱には名家出身の驕り高ぶりがあり、主君を裏切る忠義心の薄い者と見られていた可能性が高いことが伺えます。

足利将軍家への忠義心

織田信長からは忠義心の薄い者と見られていた朽木元綱ですが、父に引き続き足利義輝を保護するなど、足利将軍家に対しては強い忠義心を持っていたことが分かります。

13代将軍足利義輝は、朽木谷で朽木元綱とともにおよそ5年間程過ごし、元服もここで済ませています。朽木元綱の祖父は逃げ込んできた将軍の心を癒すために、庭園を有する岩神館という館を構えたほどの忠義者であり、朽木元綱もそのDNAを受け継ぎ、既に衰退の一途を辿っていたとしても、最後まで足利将軍家を守るという強い使命感を持っていたのでしょう。

金ヶ崎の戦いにおける朽木越えで織田信長を助けたのも、一説では当時織田信長が15代将軍・足利義昭の庇護者であったからだったとも言われています。その後、織田信長は足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させているので、朽木元綱が織田信長に対して厚い忠義心を持てなかったのも、当然のことと言えるかもしれません。

朽木元綱の名言・エピソード

朽木元綱の名言やエピソードについて解説します。

関ヶ原の裏切りは本当にあったのか?

朽木元綱や小早川秀秋らの四将が裏切ったことで、関ヶ原の戦いは東軍が勝利したと語られることが多いですが、これは史実ではないと考える説もあります。

事前に調略を行ったとされる藤堂高虎の実績を記した『藤堂家覚書』では、事前に調略を行った人物として脇坂安治と小川祐忠の名前が書かれていますが、朽木元綱の名前は出てきていません。さらに、藤堂景虎が攻撃する方面に居たのは脇坂安治、小川祐忠に加えて大谷吉継と平塚為広であったと書かれており、ここにも朽木元綱の名前がありません。

このことから、朽木元綱は関ヶ原の戦いには不参加であった可能性も指摘されています。

晩年と息子たち

関ヶ原の戦いの後の朽木元綱は、減封により総石高9,550石となり大名の家格ではなくなりますが、交代寄合(旗本の家格)として遇され、独自の陣屋を持つことを認められて大名に準じた扱いを受けながら過ごしています。1616年に出家した際には、自らを牧斎と名乗り穏やかな老後生活を送ります。

その後、次男・朽木友綱は徳川秀忠の御書院番となり、特に三男・朽木稙綱は徳川家光に信頼されて若年寄となり、常陸国土浦藩3万石の大名へと出世しています。この三男の長男・朽木稙綱は丹波国福知山城へと転封となり、明治維新まで朽木氏の繁栄が続きました。

フィクションにおける朽木元綱

フィクションにおける朽木元綱を解説します。

信長の野望における朽木元綱

シリーズによっても異なりますが、朽木元綱のステータスは統率42、武勇53、知略66、政治66となっています。朽木越えにおいて織田信長を助けた判断力を評価されて、知略や政治の数値が他のステータスよりも高くなっています。

ドラマにおける朽木元綱

これまで朽木元綱が目立って登場するドラマはありませんが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』第11話では、足利義輝の避難先として「朽木」の名前が登場し、領内の聖興寺において主人公明智光秀(演:長谷川博己)の言葉に将軍足利義輝(演:向井理)が心打たれるという重要なシーンがありました。

朽木元綱は名門の誇りを持ちながら激動の時代を巧みに生き抜いた武将だった

代々室町幕府将軍直轄の御家人として存続してきた名門朽木氏に生まれながら、朽木元綱はその滅亡を見届けることになってしまいました。その後は織田信長の大恩人となって命を助け、関ヶ原の戦いでは徳川家康に寝返って勝利を導くなど、歴史の転換点において大きな役割を果たしています。

浅井氏を裏切って織田信長を助けたこと、関ヶ原の戦いでの寝返りから、忠義心に欠ける人物であるようにも見えますが、都に近く群雄割拠の近江の領土と、鎌倉時代から続く名家の名前を守るためには、当主として当然の行動であったのかもしれません。そしてこれらの朽木元綱の努力の結果、子孫が明治維新まで続いたと言え、それは大いに賞賛できる所です。