小松姫はお米の銘柄にもなった?逸話や墓の場所なども紹介!

小松姫は、真田信之の妻として夫と家を支えた女性でした。関ヶ原の戦いや大坂の陣などの天下を分ける戦が起こるなかで真田家は、徳川方に真田信之、石田・豊臣方に父・昌幸、弟・信繁(幸村)と、一族が分裂をします。時代の流れを見極めるのが難しい局面で、小松姫は真田家の存続に奔走しました。

この記事では小松姫の生涯を年表付きで分りやすく解説します。小松姫がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける小松姫など、様々な視点から解説していきます。

小松姫の基本情報

小松姫(こまつひめ)は三河国出身の安土桃山時代から江戸時代初期に生きた女性です。

上田藩および松代藩主の真田信之に嫁ぎ、真田家を支えました。

小松姫の人生(年表付き)

できごと

真田家との婚姻

小松姫は天正元年(1573)年に本多忠勝の長女として生まれました。本多忠勝は松平氏、徳川氏の家臣として永禄3年(1560)の大高城の戦いにおける初陣以来、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでも武功をあげ、徳川四天王と称された人物でした。また、親類のうち何人もが合戦中に討死するなど、武門の家系でした。

天正15年(1587)に小松姫は真田信之と婚姻関係になります。この背景には、徳川氏と真田氏が抗争を続けていたことがあります。豊臣秀吉は両氏の対立を抑えて、関係を緊密にするために婚姻を成立させたといわてれいます。いわば政略結婚でした。

大名の妻としての役割を果たす

天正17年(1589)、豊臣秀吉は諸大名の妻子を聚楽第、伏見城、大坂城の城下に建設された武家屋敷に居住させます。小松姫もこれに従い、豊臣政権下の真田信之屋敷に居住したと考えられています。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで、夫・真田信之は徳川家康率いる東軍に属し、さらに戦功をあげたことから、上野国沼田領を安堵されます。一方、信之の父・昌幸と信繁は西軍に属していましたが、信之と小松姫の父・本多忠勝らの嘆願により命は助けられ、紀伊国高野山へ流罪となります。その後も信之は昌幸・信繁を援助を行いますが、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で小松姫からの音信に礼を述べる記述があり、小松姫もまた、流罪になった義父弟を気遣っていた様子がみられます。

慶長8年(1603)に江戸幕府が開かれると、諸大名の妻子は江戸に集住することとなります。これにより小松姫も江戸の大名屋敷に住んだものと考えられています。

徳川の勢力下での真田家を支える

慶長19年(1614)から慶長20年(1615)の大坂の陣では、病気療養中であった夫・真田信之にかわり長男・信吉と次男・信政が、小松姫の兄弟・本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣します。小松姫は合戦経験が不足している息子たちを気遣い、真田信之の家臣に宛てて補佐を依頼する書状を作成しています。

元和6年(1620)、病気を患った小松姫は湯治のために草津温泉に向かいますが、その途中、武蔵国鴻巣で死去します。

小松姫の遺骨は3か所に分骨されます。一つ目は死去の地であった武蔵国鴻巣の勝願寺、二つ目が上野国沼田の正覚寺、三つ目が真田家ゆかりの信濃国上田にある芳泉寺です。

小松姫の人柄・人物像

小松姫の人柄や人物像についてまとめます。

不在の夫に代わり城を守る

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、夫の真田信之は徳川家康率いる東軍につき、父・真田昌幸と弟・真田信繁(幸村)は石田三成率いる西軍につきます。下野国(栃木県)佐野の犬伏という地で袂を分かった真田昌幸は、信繁とともに上田城に戻る途中、孫の顔を一目見たいと考え沼田城に立ち寄ろうとします。その時不在の夫に代わって、小松姫が城の番をしていました。小松姫は甲冑を着け城門の前に立ち、「父子の関係と言えど、敵となったからには城に入れることはできません」といって断わります。この姿を見た真田昌幸は「さすがは本多忠勝の娘だ。武家の妻はこうあるべきだ」と感心したそうです。

沼田城での孫との対面はかなわなかった真田昌幸は、近くの正覚寺という寺に宿泊します。すると小松姫はその寺へ、子どもを連れてあらわれ、祖父と孫は最後の体面を果たしたといいます。

このエピソードについては創作であったという説もあります。この当時、豊臣政権の方針で諸大名の妻子は伏見や大坂屋敷に住んでいるのが一般的で、小松姫もまた沼田城にいなかったのではないかといわれているからです。しかしその真偽はともかく、そのようなエピソードが残ること自体、小松姫が武将の妻としての強い自覚をもって生きていたを物語っているといえるでしょう。

真田家を支える活動

関ヶ原の戦いで西軍について紀伊国の高野山に流された義父・昌幸、義弟・信繁に対して、小松姫は生活費や食糧、手紙などを送り、生活を助けたといいます。大坂の陣の際には、出陣する息子たちの補佐をお願いする書状を記しています。そして、小松姫の弟・本多忠勝は、大多喜藩(上総国)の藩主を務めていたとき、真田信之の家臣に対して小松姫を気遣う書状を送っており、小松姫を介して本多家と真田家の交流が行われています。小松姫は、外交面でも内部の家臣や親類に対しても、様々な働きかけをしたことが真田家を支える一因となったと思われます。

小松姫の名言・エピソード

小松姫の名言・エピソードについて解説します。

夫・真田信之との関係

はじめは政略結婚によって結ばれた夫婦でしたが、夫婦仲はかなり良好だったようで、小松姫に先立たれたときに夫・昌幸は「我が家から光が消えた」と落胆したといわれています。明確に記録に残っている事柄は少ないですが、夫や、真田家を影ながら支える存在であったことが窺われます。

米の銘柄となった小松姫!

沼田という地は台地上の標高が高い地に農地があり、水不足に悩まされていました。水不足に悩む領民を救うために、小松姫の発案により整備されたのが「真田用水」でした。この用水路によって、山間部から綺麗な雪解け水がもたらされることとなり、領内の石高も2倍以上になったといわれます。真田用水は、開削されて400年たった現在も沼田の地を潤しており、地元では「小松姫」という銘柄の米も製造されています。

フィクションにおける小松姫

フィクションにおける小松姫を解説します。

信長の野望における小松姫

シリーズによっても異なりますが、統率66、武勇79、知略64、政治49と、武勇が比較的高い数値となっています。

ドラマにおける小松姫

真田氏をとりあげたドラマにはしばしば登場します。最近では2016年の大河ドラマ「真田丸」に登場し、吉田羊さんが演じました。芯が強く、夫と真田の家を支える強い女性として描かれました。

まとめ

小松姫は、ときに影から、ときには自らが先頭に立って行動をすることで夫や真田家を支えました。豊臣方についた義父・真田昌幸や、実家の本多氏などが書状に小松姫を気遣う様子を記していることから、小松姫が様々な人と交流をしていたことが窺えます。また、不在の夫に代わり女性である小松姫自らが先頭に立って城を守る様子から、積極的に家を支える活動に携わっていたように思えます。

現在も、お米の銘柄や、用水路の発案者として、名前が地元・沼田の人々に認識されていることは、小松姫が長く愛されている証拠といえるでしょう。