高台院、秀吉を励まし天下人にした豊臣家のお母さん!逸話や人物像を紹介

高台院(こうだいいん)とは豊臣秀吉の正室で寧々(ねね)や於ね(おね)と呼ばれていました。秀吉が大阪城に入城して関白になってからは、北政所(きたのまんどころ)と呼ばれ、豊臣秀頼と千姫(家康の孫)が婚儀を結んだ後出家し高台院と呼ばれるようになりました。秀吉との間に子どもはできませんでしたが、いつも秀吉を励まし、家臣たちの面倒見の良い高台院は誰からも信頼され好かれる人物であったと伝えられています。

高台院の基本情報

織田信長の家臣であった後の豊臣秀吉と結婚した高台院(寧々)は夫、秀吉を励まし出世させていく。秀吉は天下を取ると、大阪城に移る。秀吉の死後、天下は徳川家康の手に移り、大阪城を後にした寧々は出家し高台院と名乗る。

高台院の人生

高台院の年表

できごと

年表による高台院の人生

高台院の人生を三つに分けると次のようになるでしょう。

・豊臣秀吉に嫁ぎ、夫、秀吉を励まし秀吉が織田家の重臣になっていった時代。

・織田信長の死去後、夫、秀吉が天下を取り亡くなるまでの時代。

・出家して高台院になってから亡くなるまでの時代。

豊臣秀吉に嫁ぎ、夫、秀吉を励まし秀吉が織田家の重臣になっていった時代

後に出家して高台院と呼ばれるようになった寧々は、1547年織田家の家臣の家に生まれました。幼い時に叔母の嫁ぎ先である浅野家の養女として育ちました。主君の織田信長のお供として木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)(後の豊臣秀吉)が浅野家の屋敷に立ち寄ったときに藤吉郎が一目ぼれした相手が寧々でした。

藤吉郎は寧々を気に入り是非一緒になりたいと寧々に求婚しました。しかし、寧々の生みの親、育ての親たちなど周りの人々は身分の点などで結婚には猛反対でした。しかし、寧々と藤吉郎は結婚に踏み切ったのです。当時の寧々は14歳だったと伝えられています。藤吉郎も織田家の屋敷内の仕事をしていたころで、まだ織田家の重要な武将になっていないころのことでした。

しかし、身分や地位を気にせず、能力があるものを評価するのが織田信長流。当時、信長は美濃攻めに着手していましたが、織田家の重臣たちも重要拠点、墨俣(すのまた)の地を攻めあぐねていました。そこで手を挙げたのが藤吉郎でした。藤吉郎は砦の骨組みを夜のうちに川を利用して墨俣へ運ぶと、一夜で骨組みを組み立てて砦を完成させました。翌日、見て驚いたのは美濃勢でした。そして織田軍は見事に美濃軍を撃破したのです。これを機に織田軍は美濃を完全に倒し、信長は美濃の岐阜城に入り、寧々や藤吉郎も美濃に移り住むことになります。

信長に認められた藤吉郎は織田軍の主力として手柄を立て出世していきます。織田信長でさえピンチに陥ることがあります。それを救ったのが木下藤吉郎でした。1570年、織田信長は朝倉氏を倒すために越前に向かいました。その時、信長や秀吉と一緒に参戦したのは、明智光秀、池田勝正、松永久秀、日野輝資、同盟軍として徳川家康も出陣し、信長は最強メンバーで朝倉臨んだのです。信長の朝倉攻めも順調にすすんでいきました。しかし、信長の味方のはずであった浅井長政軍が裏切り近江から出陣したのです。朝倉軍と浅井軍にはさまれては最強軍団の信長でも勝ち目はありません。信長はすぐに撤退を決心します。そこで殿(しんがり)を任せられたのが木下藤吉郎でした。殿(しんがり)とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目です。敵側から本隊を守るため攻撃を受けるわけですからもっとも危ない役目です。そんな役目を授かるほど、藤吉郎は信長に認められる存在になっていたのです。見事に主君信長も徳川家康も危機から脱することができ秀吉自身も無事に帰還します。この信長の撤退は、「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」と呼ばれ後世でも見事な撤退のひとつだと語り継がれています。

織田信長の死去後、夫、秀吉が天下を取り亡くなるまでの時代

「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」の後、浅井軍を破ると、1573年、藤吉郎は、信長から近江(滋賀県)の長浜城主に任じられます。一介の武士が城持ち大名になることは異例なことでした。12万国の領主となった藤吉郎は、翌年、1574年、岐阜の地に住んでいた妻の寧々と母のなかを長浜城に呼び寄せます。城主になったころに藤吉郎は名前も変え羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗るようになっていました。

長浜城主となった羽柴秀吉は新たに中国征伐を主君、信長から命ぜられます。秀吉は三木城を陥落させ、鳥取城を攻め落としました。そして備中高松城を攻めていた時に事件は起こります。戦いのために秀吉が長浜城を留守にしていた時に秀吉の代理として場内のこと、城下のこと、対外的な役目に従事していたのが妻の寧々でした。

秀吉が備中高松城を包囲していた1582年、信長の重臣のひとりである明智光秀(あけちみつひで)が、京の本能寺に滞在中の織田信長に対して謀反を起こし、主君信長は自害に追いやられたのです。明智軍の阿閉(あつじ)氏が長浜城を攻めてきたとき、寧々は家族親族をまとめ大吉寺に逃げました。その後、備中高松城から戻った秀吉は明智光秀を討ち織田家筆頭の地位に登りつめます。主君織田家筋と徳川家康が連合した小牧長久手の戦い以降は、徳川家康も秀吉の家臣となり、秀吉は天下取りを達成したのでした。その頃には秀吉も寧々も大阪城を居城にしていました。

戦国の世ですから各大名たちは自分の地の安定や平安を求め、また様々な利害関係から政略結婚や人質を出す。人質を取るなどの手段をとっていました。秀吉が人質としてとった大名の子息の世話をするのも寧々の仕事のひとでした。子息たちに優しく思いやりの態度で接してきた寧々は信頼を集めていきました。

秀吉が関白に任じられた時、寧々も従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)の称号が与えられました。朝廷とのつきあいや交渉事も北政所になった寧々が窓口になって行われていたとも言われています。

出家して高台院になってから亡くなるまでの時代

秀吉と北政所の間に子供はなく、秀吉は、生前から側室、淀殿(よどどの)との間にできた豊臣秀頼(とよとみひでより)に跡を継がせることを決めていました。幼い秀頼のことを盛り上げてほしいと譜代の家臣や徳川家康にも頼んで1598年秀吉は亡くなります。そして秀頼は6歳にして豊臣家の当主になったのです。

秀吉が亡くなると徳川家康が多くの点において発言権を持つようになりました。生前、秀吉の近くにいた豊臣家の石田三成などの武将は家康に謀反のたくらみがあることに気付いていました。家康を倒さなければ豊臣家が滅びると考えた石田三成たちは家康を倒すべく準備を進めました。秀吉に良くしてもらった大名や秀吉や北政所に可愛がってもらった大名なども家康に味方すべきか石田三成に味方するべきか迷います。加藤清正、福島正則、小早川秀秋なども迷い北政所に相談に来たと言われています。徳川家康でさえ、北政所に対しては一目置いていました。そして1600年、石田三成を中心とする西軍と徳川家康の東軍は関ケ原の戦いでぶつかります。1日で勝負は決し徳川家康の東軍が勝利しました。

豊臣家の安泰と豊臣秀頼のためにと挙兵した西軍でしたが、関ケ原の戦いに敗れた結果、豊臣家の所領は200万石から65万石に減らされます。しかし、家康はその時は豊臣秀頼を排除するようなことはしませんでした。東軍として家康についた大名の多くがもともとは秀吉の重臣であり、石田三成に恨みはあっても秀頼を憎んでいたわけではなかったのです。北政所の存在も秀頼を守るのに大きな役割を果たしたのだと考えられます。

家康は秀吉との生前の約束を守り、1603年、家康の孫(長男秀忠の娘)である千姫を秀頼に嫁がせます。この婚姻を見届けた上で、北政所は大阪城を去り、出家して京都新城へ移り住みました。出家した北政所(寧々)は、1603年、朝廷から院号を与えられ、その後は高台院(こうだいいん)と名乗るようになりました。1605年には徳川家康の支援のもと、京都の東山に高台寺を建立し秀吉の供養をする生活に入りました。寧々が大阪を去った後、勢力をゆるぎないものにしていったのが徳川家康でした。1603年には征夷大将軍に就任し江戸に幕府を設立しました。1600年の関ケ原戦い以降、豊臣方は力を失い家康にも難題をつきつけられながらも秀頼を支えようとしていました。しかし、家康は手をゆるめることはなく、1614年と1615年、大阪城を舞台に豊臣秀頼と徳川家康は直接対決にいたります。1615年の大坂夏の陣では秀頼と実母淀殿は自害に追い込まれ、秀吉と寧々が作った大阪城も焼失しました。その際、高台院は護衛であり監視役に外出を止められ館から出ることはできませんでした。高台院は、その後約10年近く生きて天寿を全うしますが、その後も豊臣ゆかりの人々や徳川家ともきちんとした付き合いをつづけたと伝えられています。

高台院の人柄

ときに無茶をする秀吉を励まして支え続け、秀吉が天下取りを達成できたのは高台院がいたからこそだと言われています。
当時としては珍しく秀吉と高台院(寧々)は恋愛結婚でした。まわりの反対を押し切ってまで結婚にいたったのには秀吉の見る目が優れていたのか、寧々の方に見る目があったのか、あるいは寧々の持ち上げ方がよかったのかはわかりませんが、高台院に対してはあまり否定的な意見はありません。
もともと、サッパリした性格であったようで、人にも好かれ信頼される人柄であったようです。秀吉との間に子どもはできませんでしたが、秀吉の親族や家来に対しても面倒見がよく秀吉に相談しにくいことがらでも高台院に打ち明けた人も多かったのではないでしょうか?時は戦国時代。秀吉が大名になった後も政略的に豊臣家で預かった人質も少なくありませんでした。そんな人質たちを温かい目で世話をしたのが高台院でした。

当時、信長に優遇されていた宣教師にルイス・フロイスがいました。フロイスは信長以外の人をあまり誉めないのが特徴で、実際に秀吉に対しての評価も非常に厳しい記録が残っています。しかし、高台院に対しては高評価で、高台院にお願いすれば必ず解決すると言っています。高台院は人格者として、また相手の気持ちを理解できるとして敵、味方双方からも信頼を寄せられていました。

高台院のエピソード

高台院には次のようなエピソードが語られています。

信長からも一目置かれていた高台院(寧々)

夫である秀吉の主君、織田信長にも寧々は、きちんとしていて、しっかりとした美しい女性として認められていました。一方、夫、秀吉は遊び好きで女好きなのは織田家家中でも秀吉の家来の間でも有名でした。そんな秀吉のことを寧々は親方様である信長に愚痴ったことがありました。その後、信長から直々に寧々宛てに手紙が届き、丁寧な献上品の礼と以前にも増して寧々が美しくなったことを褒めた上で、秀吉には不釣り合いな美しい女性なのだから、細かいことに捕らわれず、どっしりと構えて秀吉をささえるようにアドバイスまで書かれていました。現在でも残っているこの手紙は筆跡から信長自身が書いたものではなく家臣に書かせたものであることがわかっていますが、きちんと信長の意向を組んだ手紙であり、信長が発行したものである「天下布武」の押印がされていました。主君が気にかけるほど、寧々は魅力あふれる人物だったのでしょう。

徳川秀忠の世話をしていた高台院(寧々)

後に徳川家康から家督を譲り受け、のちに徳川幕府第二代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)は12歳のときに家康から秀吉に人質として出されており、徳川秀忠を温かく見守り世話をしたのが高台院(寧々)だったと伝えられています。後に秀忠は開放されて徳川家に戻りますが、秀忠が上洛する際には必ず、高台院(寧々)を訪れたと伝えられています。秀忠の父親の徳川家康も秀忠が高台院(寧々)に世話になったことはよく処置していました。

フィクションの中で語られる高台院(寧々)と淀殿(よどどの)の関係

二人の仲は悪かった説

高台院(寧々)と秀吉の間には子どもがなく、大阪城に入ったのち、秀吉は淀殿を側室として迎え秀吉との間に男子が誕生しました。その子が後の豊臣秀頼です。淀殿の母親は織田信長の妹、お市の方(おいちのかた)であり、高台院にとっては昔の親方様、信長の妹の娘であるわけで、高台院(寧々)は信長はもちろんのこと、淀殿の母親、お市の方のこともよく知っていたはずです。

多くのドラマの中で、淀殿はわがままで、年の差のある夫、秀吉には甘やかされ、秀頼の誕生後に淀殿は自分自身が豊臣家世継ぎの母として威張り散らすシーンもよく描かれています。もちろん、大大名である徳川家康は豊臣家の敵であるという意識が満々に描かれています。

一方の高台院(寧々)は、豊臣家を作り上げたのは秀吉と自分自身であり秀吉の後の世の中は実力十分な徳川家が治めるべきであると考えていたとも言われています。
小さなころから世話になった加藤清正や福島正紀が家康につくべきか否かを尋ねてきたとき家康につくように言ったのも高台院(寧々)だったとも言われています。高台院(寧々)にどれほどの政治力があったのかは、はっきりしませんが、徳川家康も高台院(寧々)のことを気遣っていたのは間違いのないことであり、大阪城が焼損した後も経済的に高台院(寧々)の世話をしたのは家康でした。

二人の仲は良かった説

高台院(寧々)と淀殿(よどどの)の関係は非常に良好だったという説もあります。もともと高台院(寧々)はさっぱりした悪気のない人で、敵を作るような人ではなかったと言われています。自分に子どもができなかったことに、どこかでコンプレックスは感じていたのかもしれませんが、淀殿を大阪城に迎えることになったときも気さくに優しく迎えたでしょうし、秀頼が誕生したときも自分のことのように喜んだという説もあります。

高台院(寧々)や秀吉の弟、豊臣秀長は豊臣家を支える柱であり、武家の家で育った淀殿(よどどの)が高台院(寧々)に対抗するようなことはしなかったでしょうし、高台院(寧々)が秀頼以上に徳川家康を応援していたということは考えにくいという説です。1600年の関ケ原の戦いでは、小さい時から高台院が世話をしてきた加藤清正や福島正紀が東軍の家康側につき、寧々の兄の子どもであり、秀吉と寧々の養子となった小早川秀秋が西軍を裏切ったことで東軍の家康が勝利したことは事実です。しかし、寧々や秀吉に世話になった親戚や縁者は西軍の石田三成側についているのです。ですから、高台院の本心はやはり豊臣家にあって淀殿や秀頼を守りたかったのではないかと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

正室の役割を見事に成し遂げた高台院

秀吉と結婚して以降、いつも夫を励まし、家族や秀吉の家来などの面倒を見て、出家してからも深い愛情で豊臣家を見守ったのが高台院の人生でした。それぞれの立場や生き方を尊重し、そのブレのない人への愛情は敵味方を超えて多くの人から愛されました。高台院あっての豊臣家であったことを否定する人はいないでしょう。