小早川秀秋は関ヶ原の戦いの裏切り者!石田三成とは密約も結んでいた?

小早川秀秋は豊臣秀吉を養父とした武将であり、関ヶ原の戦いにおいて東軍へと寝返り、西軍の敗北を導いた人物としてもその名を知られています。

この記事では小早川秀秋の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。小早川秀秋がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおけるK小早川秀秋など、様々な視点から解説していきます。

小早川秀秋の基本情報

小早川秀秋(こばやかわひであき)は近江国出身で、安土桃山時代を生きた武将です。

豊臣秀吉正室・北政所の甥として、豊臣家の重臣として仕えますが、関ヶ原の戦いを契機に徳川家康へと鞍替えしました。

小早川秀秋の人生

できごと

豊臣秀吉の養子となる

小早川秀秋は、1582年、木下家定の五男として誕生します。父・木下家定は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の実兄で、豊臣秀吉の立身に従ってその家人となっていた人物です。

1585年、3歳の小早川秀秋は子供のいなかった豊臣秀吉の養子となり、高台院の養育を受けることとなります。

1589年、小早川秀秋はわずか7歳で元服して丹波国亀山城を与えられますが、同年に豊臣秀吉は側室・淀殿との間に嫡男鶴丸をもうけており、生後4ヶ月の時には既に彼を後継者にしようと行動し始めていました。

ところが、1591年に豊臣鶴松は夭折してしまい、豊臣秀吉の後継者がまたもや不明瞭になると、同年に小早川秀秋は豊臣姓を与えられ、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(豊臣秀吉の姉の子)に次ぐ継承権者として目されるようになりました。

豊臣秀頼の誕生

しかし、1593年に豊臣秀頼が誕生すると、小早川秀秋が豊臣家の家督を継承する可能性は再び無に帰します。

実子を得た豊臣秀吉は、ある意味豊臣秀頼にとって邪魔者となった小早川秀秋を毛利輝元の元に養子に出そうと画策します。その実現のために動いたのは黒田孝高であり、毛利輝元の叔父・小早川隆景に小早川秀秋と毛利輝元の養子縁組を提案しました。

これを受けた小早川隆景は、豊臣家に毛利家を乗っ取られることを恐れます。

そこで、毛利輝元の後継者を毛利秀元に定めた上で、小早川秀秋を毛利輝元ではなく自身の養子として貰い受けたいと申し出ます。1594年、この申し出が認められて小早川家秀秋は小早川家に入ることとなりました。

一方、同じく豊臣秀吉の後継者に目されていた豊臣秀次は、豊臣鶴丸が死去した1591年、関白に就任し聚楽第にて政務を執行するようになっていました。しかし、豊臣秀次の運命も、豊臣秀頼誕生によって急変を迎えることとなります。

1595年、豊臣秀次に謀反の疑いがかけられ、豊臣秀吉の命で切腹させられることとなりました。

その処罰は苛烈を極め、豊臣秀次の妻子達まで皆殺しにされ、多くの連座者をだしましたが、小早川秀秋も謀反計画に加担したと濡れ衣を着せられ、亀山城を没収されることとなりました。

同年、養父小早川隆景は隠居したため、小早川秀秋は家督を相続することとなり、筑前国名島城へと移りました。

朝鮮出兵

1597年、小早川秀秋は朝鮮への渡航を命じられ(慶長の役)、釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任務を与えられます。

『朝鮮物語』によれば、小早川秀秋は蔚山城の戦いに参陣し、数多くの戦功を挙げ、加藤清正部隊の窮地を救う活躍を演じたとも言われます。(しかし、小早川秀秋の参戦を裏付ける一次的史料は存在せず、後世の創作である可能性も高い)

豊臣秀吉から再三に渡り帰国を命じられた小早川秀秋は、1598年に帰国しますが、突如越前北ノ庄への減封命令を下されます。

その理由としては、小早川秀秋が蔚山城の戦いにおいて軽率な行動をとったため、というのが通説となっていますが、はっきりとしたことは分かっておらず、一説では彼を嫌っていた石田三成の進言があったとも考えられています。

この大幅な減封により、小早川秀秋は多くの家臣を解雇せざるを得なくなり、長く付家老として仕えてきた山口宗永も、この時に小早川秀秋の元を離れることとなりました。小早川家を離れた家臣団の多くは、石田三成の家臣団へと吸収されることとなり、両者の関係は益々因縁深いものとなりました。

1598年、豊臣秀吉が死去すると、この処分は理不尽であると判断した五大老の1人・徳川家康の計らいにより、知行宛行状が発行され、旧領の筑前・筑後へと復帰し、59万石と大幅に加増しました。

関ヶ原の戦い

1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、豊臣家の血縁者である小早川秀秋は、西軍として参陣し、その前哨戦である伏見城の戦いで奮闘、西軍を勝利へと導きました。

伏見城の戦いの直前、小早川秀秋は東軍に味方するつもりであり、城側に入城の意思を示すもののこれを拒否されてしまい、やむなく西軍として城攻めに加わったとも言われています 。(『島津家譜』、『寛政重修諸家譜』)

その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをして戦線を離脱していましたが、関ヶ原の戦い本戦の前日である9月14日、突如1万5千の軍勢を率いて、関ヶ原近くの松尾山城へと入城しました。

しかし、本戦が始まっても小早川秀秋は松尾山城にて傍観を決めこみ、徳川家康が東軍への参加を呼びかける使者を送っても、これに反応することはありませんでした。この態度に徳川家康も苛立ち、小早川秀秋の陣に砲弾を浴びせたとも言われます。

戦いは西軍有利に進んでいましたが、戦いの半ば、小早川秀秋は西軍の大谷吉継の陣へと攻めかかります。大谷吉継軍は奮闘して小早川軍を食い止めますが、小早川秀秋に端を開き、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らが相次いで離反し、西軍は混乱へと陥ります。

これにより形勢は逆転し、夕刻までに西軍が壊滅し東軍の勝利が決定しました。その後、石田三成の居城・佐和山城攻めにも徳川軍として出陣しています。

戦後、小早川秀秋は功労賞として旧宇喜多家領の岡山55万石に加増・転封を受けます。

岡山城に入城した小早川秀秋は、その大幅な近代化改装に取り組んでいます。従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築かせ、これによって城域そのものを約2倍の大きさに拡張しました。

この新しい外堀はわずか20日間で完成したと伝えられ、「二十日堀」と呼ばれています。他にも、総検地の実施や、寺社領の再整備と古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の治績を施しました。

しかし、関ヶ原の戦いから2年後の1602年、小早川秀秋はわずか21歳の若さで急死してしまうのでした。

小早川秀秋の人柄・人物像

小早川秀秋の人柄や人物像について説明します。

近衛信尹の追悼文

近衛信尹は、その父・近衛前久同様、武士に憧れを抱いていた活発な公卿でありました。彼は小早川秀秋と親交深く、小早川秀秋の死後に追悼文を記しています。

その追悼文によると、小早川秀秋は少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、高台院を悩ませるようになったと言います。

徳川家康との接見

関ヶ原の戦いの後、徳川家康に接見した小早川秀秋は、芝に跪いて頭を下げたと言われます。

当時小早川秀秋は中納言の身分で、この行為はその高地位に相応しからぬ行為であり、同じく豊臣家の旧臣であった黒田長政や福島正則はこれを不快に思いました。

戦いに勝利したとは言っても、豊臣秀頼は未だ存命中で大阪城におり、徳川家康も征夷大将軍になったわけでもないのに、豊臣家を完全に見捨てて徳川家康に媚びへつらう様子に、黒田長政らは違和感を覚えたのでした。

黒田政長は「鷹と雉の出会いだと思えば済むことだ」と嘲笑すると、福島正則は「それは贔屓目の比喩だ。鷹と雉どころではなく、鷲と雉ほども違う。鷲の方が格上だ」と笑ったと言います。

愛刀「波游兼光」

その経歴をみても武将らしい活躍もなく、関ヶ原の戦いでは徳川家康の威嚇砲撃に恐れをなして東軍へと寝返ったとも真ことしやかに囁かれるほどの、弱腰な人物としてのイメージがありますが、その愛刀「波游兼光」には、小早川秀秋の勇猛さを表すエピソードが残されています。

小早川秀秋がある日、高野川の岸で従者と共に歩いていると、草むらから現れた曲者に斬りかかられます。

小早川秀秋はその斬撃をかわし、持っていた日本刀でこの曲者を斬り付けました。 斬り付けられた曲者は川に飛び込み、泳いで逃げていったものの、対岸に到着すると倒れてしまったのです。従者が曲者を確かめに対岸に渡ってみると、右肩から袈裟がけに一刀両断されていたとのことでした。

このエピソードにより、この時使用していた日本刀に「波游兼光」という名称が付けられたと言われています。

小早川秀秋の名言・エピソード

小早川秀秋の名言やエピソードについて解説します。

関ヶ原の戦いでの寝返り

関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の寝返りの理由としては、事前の調略により最初から決まっていたという説、突発的なものであった説など諸説存在し、その明確な理由は定まっていません。

西軍の石田三成や大谷吉継などは小早川秀秋の去就に対して以前から不信感を抱いていたようで、石田三成との間には「豊臣秀頼が成人するまで、小早川秀秋を関白として、戦後は上方2か国を加増する」と密約を交わした上、小早川秀秋の家老にも10万石の領地と黄金を与えるという条件を出していたと言われます。

小早川秀秋の家老・稲葉正成と平岡頼勝と、東軍の黒田長政との間では調略が行われており、黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所様(高台院)の為に動いている」と記された書状が現存しています。

豊臣秀吉に対しては、親族であるにも関わらず豊臣秀頼誕生後の散々な処置により、恨みこそすれ、そこまでの恩顧は感じていなかったのではないかとも考えられますが、叔母であり育ての母である高台院に対しては、深い敬愛の念を持ち続けていたのかもしれません。

いずれにせよ、関ヶ原の戦いで裏切りを行なった小早川秀秋に対する当時の人々の評判は非常に悪く、豊臣家の養子として出世したにも関わらず恩を仇で返した卑劣者であると嘲笑を受けました。

死因とその後

小早川秀秋は、21歳の若さで死去しますが、その死因はアルコール依存症による内臓疾患であると言われています。

豊臣秀吉の後継に目されていた小早川秀秋は、元服した7歳の頃から全国の大名達による連日の接待を受け、大量の酒を飲み続けることとなりました。豊臣秀頼の誕生により酒宴の席は減少しますが、この頃にはすでにアルコール依存症になっており、毎晩の飲酒をやめることは出来ませんでした。

常楽会(釈迦の入滅日に行われる法要)でも乱暴を企て、晩年の岡山時代にも酒に溺れ、ちょっとしたことで家臣を手打ちにするなどの乱行に及んだと言われます。

また、小早川秀秋が死去した当時、市中では彼が大谷吉継の亡霊によって呪い殺されたと真しやかに噂されました。

小早川秀秋には子供がおらず、その死後無嗣断絶となった小早川家は改易となりました。これは徳川政権初の無嗣改易でありました。

小早川秀秋の家臣達は関ヶ原の戦いでの裏切り行為を嫌われ仕官先がなかったと言われることもありますが、実際には幕府に召し出されたり、前田家や紀伊徳川家の家臣となったと言われます。

フィクションにおける小早川秀秋

フィクションにおける小早川秀秋を解説します。

ドラマにおける小早川秀秋

天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍の勝利を決定させるキーマンとなった人物として、小早川秀秋は多くの大河ドラマに登場しています。

2009年『天地人』では俳優・歌手の上地雄輔さんが、2014年『軍師官兵衛』、2016年『真田丸』では共に俳優の浅利陽介さんが演じています。

『真田丸』では、関ヶ原の戦いで西軍に属すものの、割り振られた役割に不満や自信の無さを抱えており、関ヶ原本戦では徳川家康と内通し寝返ったことが片桐且元によって語られました。

このドラマ中では、小早川秀秋の死因として、関ヶ原の戦いでの裏切りを責める宇喜多秀家らの幻影に苛まれ、謎の死を遂げたと描かれました。

弱腰で恩知らずと酷評される小早川秀秋だがその生涯は苦悩に満ちたものだった

小早川秀秋の生まれた木下家は、高台院の実家であるものの、当初その地位は決して高いものではありませんでした。

それが、豊臣秀吉の養子となって彼が天下人になるにつれて、本来身分の低いはずだった小早川秀秋の地位もみるみる上昇し、若年の頃は非常に華々しい生活を送りました。

しかしそれもつかの間のことであり、豊臣秀吉に実子の豊臣鶴松や豊臣秀頼が誕生すると、彼の運命も一変することとなります。

年若い小早川秀秋は、2人目の養父・小早川隆景の尽力もあり、豊臣秀次のように命を奪われなかったにしろ、理不尽な減封などの厳しい処置を下され、もはや豊臣秀吉の血縁者としての旨みは存在しないようになっていました。

このような状況下、筑前への復帰を取り計らってくれた徳川家康に恩を感じるようになったのは当然のこととも言えます。

小早川秀秋が実際は少年の頃から苦汁を舐めてきたことを知らず、「豊臣秀吉の養子であり豊臣恩顧の人物の代表格のような存在であったのに、関ヶ原の戦いでこれを裏切った」というその一点が先行して、「暗愚で弱腰な卑怯者」という悪評が現在でもはびこっています。

確かに小早川秀秋は、中納言や豊臣家の代表者という高位には見合わない人物であったと言えるでしょう。しかし、前述した通り、彼は元々低い身分の生まれであり、通常であればそこまでの重い責任を負わずにすむ人生を送るはずの人物でありました。

関ヶ原の戦いの時、彼はまだ18歳であり、このような若者が人生を左右する決断を下さなければならなかったことを考えると、非常に酷なことであったと思えてきます。