北畠具教は塚原卜伝を継承する剣豪!家臣により葬られた首塚の場所とは?

北畠具教は名門であり代々伊勢国司を務めた北畠家の8代目当主として、領土を拡大させその全盛期を築き上げた武将です。人生の後半は伊勢に侵攻してきた織田信長と戦い、大いに苦戦させています。

この記事では北畠具教の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。北畠具教がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける北畠具教など、様々な視点から解説していきます。

北畠具教の基本情報

北畠具教(きたばたけとものり)は伊勢国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

伊勢国司として領土を拡大させて北畠家の全盛期をもたらし、人生の後半は織田信長と戦いました。

北畠具教の人生(年表付き)

できごと

順風満帆な青年期

北畠具教は、1528年、代々伊勢国司を務める北畠家の7代目・北畠晴具を父として誕生しました。北畠晴具は朝廷や室町幕府から信頼された文武両道の武将であり、12代将軍・足利義晴から「晴」の一時を与えられています。

北畠具教も、1537年に従五位下侍従に叙任、1552年に従四位下参議に叙任されて公卿に列し、1554年には従三位権中納言に叙任と、順調な出世を果たしました。

1553年に北畠晴具が隠居したため、26歳の北畠具教が家督を継ぎます。父の代には、志摩国のほぼ全域と大和国吉野郡・宇智郡などの近隣を制圧して勢力を拡大させており、残す課題は伊勢国安濃郡を支配する長野氏との争いでした。

領土の拡大

1555年、長野氏15代当主・長野藤定との戦いが勃発します。北畠軍1,000人余に対して長野軍は500程であり、戦力の差でも圧倒的に有利でした。1558年には長野藤定が降伏して和議が結ばれます。北畠具教は次男の北畠具藤を長野藤定の養子とさせた上で家督を譲らせて、長野氏の支配権を完全に奪取しました。

続いて北伊勢を支配していた関氏とも戦い、1560年には志摩国で強大な勢力を有していた九鬼氏の田城城を攻めて一族を敗走に追い込みました。また1558年頃には大和国宇陀郡の秋山藤次郎らと戦って大和神楽城を攻め、和睦しています。

このように北畠具教も父に引き続いて近隣諸将との戦いを繰り広げて勢力を拡大し、ここに北畠家の全盛期がもたらされました。1563年には家督を嫡男・北畠具房に譲って隠居しますが、実権は変わらず北畠具教が持ち続けました。

織田信長との戦い

1567年頃から、織田信長が伊勢国方面への侵攻を開始します。

1568年に神戸氏を降伏させ、長野氏を継いでいた次男の長野具藤も攻撃を受け降伏します。さらに北畠具教の弟であり木造城主であった木造具政も織田家家臣の滝川一益の調略を受け、織田家へと寝返りました。

1569年より、ついに織田信長が北畠具教の本拠地・南伊勢への侵攻を開始します。北畠氏の支城・阿坂城の戦いでは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が先陣を務めており、ここで彼に一生残ったと言われる左股の傷を負わせています。

織田軍は7万を越す大軍であり、支城を次々に陥落させられた北畠軍は大河内城へと籠城します。北畠軍は兵力の上で圧倒的不利であったにも関わらず、約2ヶ月間もの間奮闘し、大河内城は中々陥落しませんでした。織田信長も武力での制圧を諦め、北畠具教に和睦を申し入れます。

その条件は、織田信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子とすることに加え、大河内城を織田信雄に明け渡し、北畠父子は他の城へと退去することでした。北畠具教はこの条件を受け入れ、1570年に出家して三瀬館へと移りました。

三瀬の変

1575年に織田信長からの圧力もあり織田信雄が正式に北畠家の家督を継ぐことになりますが、それまでは以前として北畠具教が実権を掌握しており、北畠家内には不穏な空気が流れ続けていました。

1572年には、北畠具教が西上作戦の途中であった武田信玄のもとに鳥屋尾満栄を派遣して、武田信玄が上洛する際には船を出して協力するという密約を結んでいます。

1575年には紀伊新宮城主の堀内氏虎が熊野勢を率いて織田信雄に対して突然蜂起して戦が起こっていますが、これも北畠具教の差し金であったと言われています。このように、北畠具教は織田信長・織田信雄への反撃を虎視眈々と狙っていました。

武田信玄との密約は後に露見してしまい織田信長との関係は益々悪化し、この頃北畠具教は隠居城として丸山城の造築に着手していましたがそれを中止し、再び三瀬館に移っています。

そんな状況下にあった1576年、織田信長と織田信雄の命を受けた北畠家旧臣の長野左京亮らが三瀬館を取り囲みます。こうして子の徳松丸・亀松丸、家臣14名共々殺害されました。49歳でした。

同時に次男・長野具藤など北畠一門の者達が田丸城において殺害され、この事件により北畠家は完全に織田家に乗っっとられた形となりました。

北畠具教の人柄・人物像

北畠具教の人柄や人物像について説明します。

優れた剣豪

北畠具教は、青年期より剣聖と呼ばれる稀代の名人・塚原卜伝に剣術を学びました。

やがて秘伝である「一の太刀」を受けるまでに上達し、剣豪としての名を轟かせました。塚原卜伝はその死に際し、嫡男・塚原彦四郎に「北畠卿より伝授を受けよ」と遺言しており、北畠具教の剣の才能を高く評価していたことが分かります。

塚原卜伝と並び剣聖と称される上泉信綱が多気城を訪れて北畠具教と手合わせをした際も勝敗がつかず、上泉信綱の紹介で柳生宗厳と試合をし、ここで北畠具教が勝利しました。上泉信綱はその剣豪ぶりを讃え、北畠具教に対し新陰流の極意を伝授しています。

北畠具教は塚原卜伝から教えを受けた新当流と、上泉信綱の新陰流を併合して、「伊勢新刀流」を創設しています。

文化人としての一面

父・北畠晴具は文武両道の武将であり、弓馬の達人であったとともに和歌・書道にも優れていました。北畠具教もその才能を受け継いでおり、父と共に和歌を好んだ文化人でもありました。一族の北畠国永とも和歌を送りあっており、以下の歌が残っています。

「花におく霜も涙や染めぬらん むかしの春を忍ぶ思ひに」

「昔かたり今一たひと思う身の あすをもしらぬ世をいかにせん」

1575年頃、織田信長により苦境に追い込まれた際に読まれた歌であり、北畠家の行く末を案じる北畠具教の切なる気持ちが伝わってくるものとなっています。

北畠具教の名言・エピソード

北畠具教の名言やエピソードについて解説します。

三瀬の変での言葉

後世記された『勢州軍記』には、三瀬の変における北畠具教の様子が描かれています。

北畠具教は、討ち込んできた長野左京亮に対して「我常に己此の如き逆心を為さん者と思いしなり(=私は常にお前は謀反を起こすような者であると思っていた)」と言い放ちます。

三瀬館に乗り込んできた19人もの刺客達が北畠具教の鬼気たるオーラに圧倒されて怯むと、「弱の者共なる也、たとひ鬼神なりとも具教一人何事をかし出さんや。疾く来たれ(=臆病者どもめ、例え私が鬼神であっても一人では何ができようか。早くかかって来い)」と怒鳴り、刺客達を切り捨て100人余に重症を負わせたと言われます。

北畠具教の首塚

三瀬の変で殺害された北畠具教の首は、主君を慕いその誇りを守ろうとした家臣・芝山秀時と大宮吉守らが敵将から奪い返します。

そして北畠家代々の本拠地に葬ろうとして馬を飛ばしますが、敵軍の追撃にあいその間も次々と仲間を討ち取られます。芝山秀時と大宮吉守はそれでも諦めず山々を越えて野々口という場所まで到達します。そこで、芝山秀時の父・芝山秀定と合流を果たしました。

芝山秀定はここまで首を守った2人を賞賛し、興福寺の院主を務めていた北畠具教の弟の下に行くよう命じました。2人を見送ったあと、芝山秀定は敵兵を蹴散らしながら山を登って北畠具教の首を葬り、その後滝壺に飛び込んで主君の後を追って自害しました。

この首塚は現在も三重県飯高町野々口にある御所尾山中にひっそりと佇んでいます。

フィクションにおける北畠具教

フィクションにおける北畠具教を解説します。

信長の野望における北畠具教

シリーズによっても異なりますが、北畠具教のステータスは統率70、武勇97、知略21、政治50となっています。北畠家の全盛期を築きながらも最後は織田家に破れてしまった史実からか、知略や政治は低くなっていますが、塚原卜伝より秘伝を受けたほどの剣豪ぶりが、武勇97という高数値に現れています。

北畠具教は最後まで織田信長に対抗し続けた誇り高き伊勢武士だった

父の代から引き継ぎ勢力を拡大させ北畠家の全盛期を築き上げた北畠具教でしたが、破竹の勢いにあった織田氏の勢力には敵わず、最後は織田家による北畠家の乗っ取りという結果で終わってしまいました。

しかし、大河内城の戦いでは、織田信長はついに武力で北畠軍を制圧することは出来ず、代々伊勢国を支配してきた北畠氏の強さを見せつけています。また三瀬の変での最期の姿からも、北畠具教の勇猛さがよく分かります。

周辺の者達が次々と織田信長に屈服する中で、最期まで諦めず抵抗を続けた北畠具教は、伊勢武士としての強い誇りを持った勇猛な武将であったと評価することができるでしょう。