木村重成は勇敢で忠義心の高い若武者!青柳との逸話や墓について!

木村重成は、豊臣秀頼に仕えた武将で、イケメンで長身であったことから貴公子とも言われています。幼少期から豊臣秀頼の側近として仕え、武術に優れていたこともあり、豊臣秀頼の信頼が厚かったのは言うまでもありません。

豊臣家譜代の家臣ながら、大坂の陣(冬・夏)でも先頭に立って戦っていることから、真田幸村ら浪人衆からの信頼も高かったと言われています。この記事では木村重成の生涯を年表などで、分かり易く解説していきます。木村重成の人物像・評価や逸話などを、当時の情勢を踏まえて描いていきます。

木村重成の基本情報

 

木村重成の人生(年表付き)

できごと

生誕から豊臣秀頼の小姓まで

木村重成は、木村重滋(きむらしげこれ)の息子として誕生しています。

木村重滋ですが、豊臣秀吉(後に豊臣秀次)の家臣として賤ヶ岳の戦い(1583年)、小牧・長久手の戦い(1584年)、九州征伐(1587年)、小田原征伐(1590年)、文禄の役(1592年)などで活躍し、最終的には淀(山城国)18万石を与えられています。

しかし、1595年の豊臣秀次事件で、豊臣秀次を弁護したことから、豊臣秀吉に連座の罪を問われ自害しています。この時、長男の木村高茂も自害、娘も磔に処せられていますが、末子であった木村重成は罪に問われることなく生き残っています。

母親の宮内卿局(くないきょうのつぼね)は、豊臣秀次事件では助命され、豊臣秀頼の乳母として召し抱えられたことから、木村重成も幼少期から豊臣秀頼の小姓として取り立てられており、1599年には、豊臣姓を与えられています。

大阪の陣で活躍するも、戦死

1598年に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の筆頭だった徳川家康が台頭。1600年、関ヶ原の戦いに徳川家康率いる東軍が勝利すると、政治の実権は徳川家に移り、豊臣家の権威は形骸化していきました。1603年に江戸幕府が開設され徳川家康が征夷大将軍(初代)に任命されると、豊臣家は他の諸大名と同じ扱いにされ、豊臣家の内部で不満が高まっていきます。

1614年に方広寺鐘銘事件(鐘にあった文言で徳川家が豊臣家に因縁をつける)をきっかけに、大坂冬の陣が勃発。木村重成は大野治長らと共に開戦を主張し、今福の戦いで徳川軍と互角に戦い、大きく名を上げています。また真田丸の戦いにも参戦しており、後に和議が成立した後も豊臣秀頼の使者として振る舞いも礼に適っていると称賛されています。

1615年に大坂夏の陣が起こると、豊臣軍は野戦を展開。木村重成は長宗我部盛親と共に八尾・若江方面(東大阪市方面)に出陣。木村重成は若江方面を受け持ち、徳川方の藤堂高虎・井伊直孝軍と衝突。(八尾・若江の戦い)

木村重成隊は藤堂高虎隊に対しては善戦しますが、応援に駆け付けた井伊直孝隊との間で激戦を繰り広げますが、徐々に押され始め、木村重成は激しい戦闘の末に討ち死にを遂げています(享年23歳)。その後、真田幸村などの有力武将が相次いで戦死したこともあり、豊臣軍は敗北。豊臣秀頼と母親の淀殿は自害し、豊臣家は滅亡しています。

木村重成の墓について

木村重成の首については、首を挙げた安藤重勝(井伊家家臣)によって、領地の彦根(滋賀県)に持ち帰えられ、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされており、同寺院に木村重成の首塚が現存しています。

後年、江戸幕府が墓の建立が認められ、1730年に儒学者:並河五一が墓を建立していますが、この墓は現存していません。1764年に安藤家(安藤重勝の一族)の子孫によって、幕府公認の墓が建立されており、大阪市八尾市の公園に現存しています。また、木村重成に由来する地名として、大阪府東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という交差点があります。

木村重成の人物像・評価

木村重成の人物像・評価についてまとめてました。

若いながら主君や同僚からの信頼が厚い

幼少期から、豊臣秀頼に仕えていた為、信頼は厚かったようで、大野治長と共に重臣の1人に数えられています。

実は木村重成は、1614年の大坂冬の陣が初陣で経験も乏しかったことから、「自分は戦闘の経験が乏しいので、戦闘に際しては存分にお引き回しをお頼みしたい」と後藤又兵衛に頼んでみたり、翌年の大坂夏の陣でも先頭に立って戦っていることから、浪人衆の信頼も厚かったと思われます。

豊臣家は、大野治長らの譜代の重臣と、真田幸村らの浪人衆との間に対立があったことから、木村重成は双方からの信頼が高かったこともあり、貴重な人材であったとも言われています。

活躍ぶりは「豊臣四天王」!

木村重成と言えば、頼りない若者のイメージがありますが、大坂冬の陣での働きはとても初陣とは思えぬ活躍で、真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親と共に「豊臣四天王(秀頼四天王とも)」という声もあります。※毛利勝永の名前も一部では上がっています。

他の3人はいわゆる戦巧者や猛将としても名が知られており、父親が有名な戦国大名でした。※真田幸村(父親:真田昌幸)、長宗我部盛親(父親:長宗我部元親)、後藤又兵衛は豪傑として知られていました。大坂冬の陣の和議の際、徳川家康の血判が薄かったことから木村重成が鮮明な血判を求めたという逸話もあり、その度胸を徳川方の武将が語り継いだとも言われています。

木村重成の名言・エピソード

木村重成の名言・エピソードについて説明していきます。

正室:青柳と子孫について

1615年1月7日に木村重成は、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね、大野治長の母親、淀殿の乳母)の姪:青柳(あおやなぎ)と結婚しています。その後、大坂夏の陣が起こると、出陣の前に別れの盃を交わしたとされています。木村重成の戦死後に、妊娠していたことが分かった青柳は、親族にかくまわれて男児を出産し、出家。その後、木村重成の一周忌を終えた後に、20歳で自害したと言われています。

青柳ですが、木村重成が出陣する前という説や、自害せずに生涯を全うしたという説もあります。息子については、馬淵家の婿養子となり、後に馬淵源左衛門と名乗り、現代にも子孫が残っていると伝えられています。ジャーナリストの木村太郎氏は、木村重成の子孫という話がありますが、真偽のほどは分かっていません。

敵方にも賞賛された木村重成

木村重成の首が徳川方に届けられた際、徳川家康は感嘆したそうです。なんと、兜の緒は固く結ばれ、端が切り落としてありました。これは「二度とこの兜を脱がない」という討ち死の覚悟の現れでした。

また、木村重成の首からは香の匂いが漂っていたこともあり、徳川家康は「見苦しくないように香を焚いていたことは、良き勇士の極みだ。討ち死にの覚悟があってこうしていた(兜の緒を結んでいた)ことは、武士の鑑だ」と称賛しており、徳川方の武士が木村重成について後世に語り継いだと言われています。

フィクションにおける木村重成

フィクションにおける木村重成について解説します。

信長の野望における木村重成

信長の野望における木村重成の能力値は、統率:48、武勇:72、知略:38、政治:30と物足りない印象が強いです。登場も1608年以降なので、登場することが少ないかもしれません。戦国末期に登場する武将は能力値が低いので、今後評価の見直しが行われることを期待します。

ドラマにおける木村重成

木村重成については、代表作はないものの、豊臣秀頼が登場するドラマには側近として登場しています。長身のイケメンであったと言われていますので、イケメン俳優が演じることが多いようです。序盤は頼りない印象ですが、戦いを経験することにより頼りがいのある武将に成長していく描かれ方をする作品もあるうようです。

木村重成は、勇敢・仁愛にあふれた若武者

木村重成は、刀・槍・武術にすぐれた貴公子で、豊臣秀頼から全幅の信頼を置かれていました。大坂の陣ではかなりの活躍をしていますが、真田幸村などの活躍がクローズアップされるため、あまり目立たない武将でもあります。

今後、評価が変わる可能性のある武将とも言えるでしょう。