吉川広家は「うつけ」だった?関ヶ原での行動は毛利家存続のためだった?

吉川広家は関ヶ原の戦いでの行動から「裏切り者」のイメージが強いですが、これは毛利家存続を第一に考えてとった行動だと言われています。後に岩国藩を統治しますが、現在の岩国市の基礎を築いたことから優れた政治家という一面もあります。

今回は吉川広家の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介していきたいと思います。

吉川広家の基本情報

吉川広家の人生

できごと

誕生

吉川広家は吉川元春の三男として生まれています。1570年には尼子氏討伐戦で初陣を果たしていますが、幼少期は「うつけ(馬鹿者)」と称されており、父:吉川元春が嘆いていたという逸話も残っています。

礼儀作法が悪かったり、三男で所領が少なかったことから、1580年から1582年の間に、石見小笠原氏の養子縁組の話に乗って、小笠原氏の養子になろうとしますが、主家の毛利輝元の反対もあって断念しています。

1583年、織田信長の後継者の地位を確立しつつあった豊臣秀吉のもとへ、人質として出されています。当初、吉川元春は隠居後の相手として吉川広家を近くに置きたかったと言われていますが、毛利家の安泰のために、これを断念。吉川広家は、豊臣秀吉と謁見後にすぐに大坂から本国へ帰されており、その後、毛利輝元より隠岐を与えられいます。

吉川家当主に

1586年に父:吉川元春(当時は隠居の身)が、1587年に吉川家当主で長兄:元長が相次いで亡くなり、吉川広家は吉川家を相続し、当主になりました。次兄:元氏は他家に養子に出されており、病弱だったことで広家が後継者になったとも言われています。

実は広家と名乗ったのはこの時で、それまでは「経言」を名乗っていました。広家という名は毛利家の祖先:大江広元から偏諱を得たと言われています。1588年7月に豊臣姓と羽柴のの名字を与えられ、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官しています。

同年10月には、宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉、豊臣秀吉の養女)と結婚し、形式城は豊臣秀吉の娘婿となりました。しかし、1591年にこの正室は病死してしまいました。以後正室を迎えず側室を置くにとどめています。

1591年、豊臣秀吉の命令により、月山富田城に入り、14万石の領主となります。文禄・慶長の役(挑戦出兵)にも出陣し、日本槍柱七本の1人に数えられるほどの活躍を見せています。1597年に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家との間に領土問題が発生し、豊臣秀吉の死(1598年)もあり、毛利家と吉川家の足並みの乱れが露呈しています。

岩国領主に

1600年、主家の毛利家に倣い、吉川氏は当初西軍に属しますが、東軍に寝返るという密約があったと言われています。この時に毛利家の領地の安堵を条件にしています。密約通り、関ヶ原の戦い当日に吉川氏は東軍に寝返り、合戦は東軍が勝利。毛利家を合戦に加えなかったのも吉川広家の作戦であったと言われています。

しかし、毛利家は存続は許されますが、山陽・山陰112万石から、周防・長門29万8千石に大幅減俸されています。後に幕府の許可を得て、検地を行い36万9千石に修正されています。

毛利家が萩(長州藩)に移されると、吉川広家は岩国3万石(後に6万石に修正)があたえられ、岩国藩初代藩主となります。岩国藩は長州藩からは家臣として扱われますが、江戸幕府からは大名として扱われるというズレに苦しみます。吉川広家は隠居後も実権を握り続け、今の岩国市(山口県)の基礎を築き上げ、1625年に65歳で亡くなっています。

吉川広家の人柄・人物像

吉川広家の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

毛利家が第一(毛利両川体制)

吉川広家が、主家の毛利氏の存続を第一に考えているのは、一重に毛利両川(吉川・小早川)体制によるものです。毛利両川体制は、毛利元就(吉川広家の祖父)がまだ国人領主に過ぎなかったころ、勢力を伸ばす過程で、吉川家に次男:元春(吉川広家の父)、小早川家に三男:隆景(吉川広家の叔父)を養子として送り込み、毛利家を吉川家と小早川家が支えるという体制を構築したのが始まりです。

後に毛利家は中国地方を支配するほどに領土を拡大しますが、毛利家の当主は毛利元就→毛利隆元→毛利輝元と続きます。毛利隆元が早死にしたためにまだ若い毛利輝元を、叔父の吉川元春・小早川隆景が後見するという体制が長く続いていました。

吉川広家もこれに倣い、毛利家の存続を第一に考えていたようです。裏切り者というイメージが強いですが、あくまで主家である毛利家を守ろうとした実直な武将なのかもしれません。

岩国城はすぐに廃城

岩国城は、1601年に吉川広家によって築城が始められました。1608年には4重6階の唐造りの天守を持つ城が完成しています。しかし、1615年の一国一城令により廃城になっています。これは長州藩の毛利秀元が居城を破壊したことに、合わせざるを得なかったからだと言われています。

具体的に説明すると、岩国藩は周防、萩(長州)藩は長門で違う国になりますし、当時の周防には城は岩国城しかありませんでした。なので、城を取り壊す必要はないのですが、岩国藩は長州藩の家臣という扱いだったこともあり、城を破壊せざるを得なかったのではないでしょうか。

吉川広家の名言・エピソード

吉川広家の名言やエピソードについて、紹介したいと思います。

「宰相殿の空弁当」とは?

関ヶ原の戦いでは、毛利家は毛利秀元が出陣していました。西軍から攻撃の合図があっても毛利軍は動きませんでした。これは吉川広家が東軍に内通していたため、毛利軍が動くことに反対していたとことが、原因だと言われています。

毛利秀元は西軍からの出陣要請に動かない理由として挙げたことが「これから弁当を食べる」というもので、後に「宰相殿の空弁当」という言葉も生まれました。これは毛利秀元が毛利宰相秀元と呼ばれたことに由来しています。

「宰相殿の空弁当」という言葉の産みの親は、吉川広家なのかもしれません。

岩国市の産みの親

岩国は、戦国時代は大内家が納めていましたが、あくまで大内家の中心は山口(大内家の元で山口は西の小京都と呼ばれるほどに発展)でした。岩国が発展したのは吉川広家が統治するようになってからで、当時の市街地は今の錦帯橋付近でした。吉川広家は隠居後も実権を握り、1617年には岩国藩は、石高10万石(最盛期は17万石)にまで発展させています。

現在の都市は戦国大名によって開拓された場所が多くあり、東京(江戸)は徳川家康、仙台は伊達政宗などは有名ですが、主家の毛利家(毛利輝元の代)は広島の基礎を築いています。広島は毛利家の後は、福島正則、浅野家が統治し発展を続けますが、岩国は幕末まで一貫して吉川家が統治しています。

岩国藩は1871年の廃藩置県で岩国県となり、同年11月15日に山口県となり、吉川家は華族に列しています。現在の岩国市は山口県東部の観光都市として、年間を通して観光客が訪れています。

フィクションにおける吉川広家

フィクションにおける吉川広家について、紹介したいと思います。

信長の野望における吉川広家

吉川広家の能力値ですが、統率:69、武勇:60、知略:68、政治:76と平均的な能力値となっています。ただ、父:吉川元春が統率・武勇が90を超えているので、どうしても比べられてしまうのが、残念なところですよね。

ドラマにおける吉川広家

吉川広家は、大河ドラマ「葵 徳川三代(2000年)」に登場しています。ただ、同じ時代に有名な武将が多い為にどうしても影がうすくなってしまいます。祖父(毛利元就)、父(吉川元春)と比較されてしまう影響もあるように思います。

吉川広家は毛利家第一の武将だった

吉川広家は関ヶ原の戦いでの寝返りから、「裏切り者」の印象がありますが、それはあくまで毛利家存続のために行ったことで、江戸時代以降も毛利家にとっては欠かせぬ存在だったようです。後の岩国市の基礎を築いていることから、優れた手腕を持った政治家だったのかもしれません。