吉川元春は不敗伝説を持つ毛利最強の猛将!嫁取りの逸話も残る愛妻家

吉川元春は毛利元就の次男であり、「毛利三本矢」と呼ばれる優秀な兄弟の内の一人です。特にその武勇をもって毛利家繁栄の基礎を築き上げ、三男小早川隆景と並んで「毛利両川」と讃えられています。

この記事では吉川元春の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。吉川元春がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける吉川元春など、様々な視点から解説していきます。

吉川元春の基本情報

吉川元春(きっかわもとはる)は安芸国出身で戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

吉川家の養子となった後、父・毛利元就から兄・毛利隆元、その子・毛利輝元と3代に渡って仕えました。

吉川元春の人生(年表付き)

できごと

吉川家を乗っ取る

1530年、安芸国吉田郡山城にて、毛利元就の次男として誕生した吉川元春は、1540年、吉田郡山城を攻めてきた尼子晴久との戦いにおいて、わずか12歳で初陣を飾ります。兵数の数で圧倒的不利な毛利軍でしたが、この戦いに見事勝利し、吉川元春はその喜びを初めて味わいました。

1547年7月、17歳になった吉川元春は、藤原南家の流れを汲む名門・吉川家の要望を受け、吉川興経の養子となります。

この縁談は吉川興経と対立していた彼の叔父・吉川経世と毛利元就が仕組んだものであり、吉川興経はこれを当初拒絶していました。最終的に、自らの命を保証することと、嫡男・千法師が成長した暁には家督を彼に相続させることを条件に承諾したのでした。

しかし、1550年、毛利元就は約束を破り、吉川興経を隠居させた上で吉川元春に家督を承継させます。そして、家臣に命じて吉川興経と千法師を暗殺します。こうして、なかば乗っ取る形で吉川元春が吉川家の当主に就任しました。

1555年に毛利元就の主君・大内義隆が陶晴賢に殺害されて厳島の戦いが勃発すると、吉川元春もこれに参陣し、智勇で知られた武将・弘中隆包を討取る武功をあげました。この戦いに勝利した毛利氏は、中国地方での地位をますます確実なものにしていきます。

尼子氏との戦い

1556年、毛利元就は石見銀山の支配権をめぐって尼子晴久と争い、吉川元春も忍原の戦い・降露坂の戦いと連戦しますが、これらはいずれも尼子軍に退けられます。

1557年に毛利元就が隠居したため家督を継いだ長男・毛利隆元は、1560年頃から尼子氏討伐に力を注ぐようになり、吉川元春もそれに従います。1565年の第二次月山富田城の戦いでは、吉川元春が主力として参戦して奮闘し、月山富田城を包囲して兵糧攻めを行い、ついに尼子晴久の後を継いだ当主・尼子義久を降伏させます。

この戦いで事実上滅亡した尼子氏ですが、再興を目指して山中幸盛らが1569年に挙兵します。

後に「尼子・毛利の国の戦いも今日が最後」と記される激戦・布部山の戦いでこれを撃破しますが、同じ年に今度は大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が周防国に侵攻してきます。吉川元春は、大友軍の援軍が到着する前に一気に攻め上がり、大内輝弘を自害に追い込み、これを制圧しました。

尼子再興軍の抵抗はその後も続いており、吉川元春は末石城・新山城・私都城などを攻略していきます。

尼子再興軍は織田信長・羽柴秀吉を頼り、毛利氏の拠点・上月城を奪います。これに対し、吉川元春が1578年4月に上月城を包囲して上月城の戦いが始まりました。

圧倒的大軍を率いた吉川元春でしたが、積極的に攻撃に出ようとはせず、陣城を構築し深い掘や塀を作るなど防御に徹底し、また連日太鼓を打ち鳴らして威嚇するなど、敵兵の戦意を喪失させていきます。

やがて織田軍が他の戦に集中するために撤退してしまい、孤立した尼子再興軍はついに降伏し、ここに尼子再興軍との戦いが収束しました。

織田信長・羽柴秀吉との戦い

1580年、織田信長に攻められていた三木城が落城します。この城を守っていた別所長治は、毛利氏に援助を求めていました。この三木城の戦いの後、備前の宇喜多直家や豊後の大友宗麟との協力を取り付けた織田信長・羽柴秀吉が毛利領への侵攻を開始します。

1581年の鳥取城の戦いでは羽柴秀吉と激戦を繰り広げ、配下の吉川経家を亡くす痛手を追いますが、吉川元春は橋を全て打ちこわし、船も陸にあげて使えないようにして、まさに背水の陣の構えで進軍しました。羽柴軍は圧倒的な兵力を持っていましたが、暫く対峙した後、吉川元春軍との衝突を恐れてついに兵を引き上げてしまいました。

続く1582年、備中高松城の戦いでまたもや羽柴秀吉と対峙します。羽柴秀吉の水攻めによって苦戦を強いられていた中、本能寺の変が勃発し織田信長が自害します。

羽柴秀吉はこれを隠して、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧であった安国寺恵瓊に知らせることで、毛利勢を混乱させ、強引に和睦に持ち込みます。本能寺の変の発生を毛利勢が知ったのは、羽柴秀吉が撤退した翌日でした。

騙されたことに激怒した吉川元春はすぐに追撃しようとしますが、小早川隆景や安国寺恵瓊に「和睦を破ると毛利家の信用が失落する」と制され、追撃することは出来ませんでした。このことがきっかけで、吉川元春は非常に羽柴秀吉を嫌悪するようになります。

1582年に家督を嫡男・吉川元長に譲って隠居したのも、羽柴秀吉からの再三の臣従要求を拒むためだったと言われています。以降、毛利家は羽柴秀吉に協力するようになり、弟・小早川隆景や嫡男・毛利元長は四国攻めに参加しますが、吉川元春は「吉川元春館」という隠居館に止まっていました。

1586年の九州攻めでは、羽柴秀吉の強い要請と、小早川隆景と毛利輝元の説得もあって隠居の身にありながら参戦を決意します。しかし、出征先の豊前で化膿性炎症(癌であったとも)により死去します。57歳でした。

吉川元春の人柄・人物像

吉川元春の人柄や人物像について説明します。

父・毛利元就からの評価

吉川元春は戦に長けた武人肌の猛将であり、生涯76戦して64勝12引分という「不敗伝説」を持っています。実はたった一度だけ負けているのですが、それは幼いときに弟・小早川隆景との雪合戦における1敗であるという逸話があります。

名将の父・毛利元就からも、「戦では元春に及ばぬ」「眼東南を見て、心西北にあり」と高く評されており、初陣である1540年の吉田郡山城の戦いでは、父の反対を押し切って参戦したと言われており、幼い時から武勇に富んだ人物であったことがわかります。

優しさを併せ持つ愛妻家

武功の数々から戦一辺倒の荒くれ者なイメージが持たれやすいですが、実際は思慮深く配下の者達を厚く労わる優しさも持ち合わせていたと言われています。その優しさは、妻を娶るときの逸話にも現れています。

毛利家家臣・熊谷信直の娘である新庄局は、不美人であるという不名誉な評判がたっていました。しかし、吉川元春は自ら進んでこの娘を妻にしたいと言い出します。

驚いた毛利元就が問いただすと、「熊谷信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし私が娶れば信直は喜び、私のために命がけで尽くしてくれるだろう」と言い返し、毛利元就を納得させました。子煩悩であった熊谷信直はこのことに大層喜び、生涯毛利家に仕え活躍しました。

この結婚は勇猛で知られた熊谷信直を味方につけるという政治的意図もありましたが、吉川元春と新庄局は非常に仲睦まじく、生涯側室をもつことなく、吉川元長ら4男2女に恵まれました。

吉川元春の名言・エピソード

吉川元春の名言やエピソードについて解説します。

『名将言行録』に記された名言

江戸時代末期に記された『名将言行録』には、吉川元春の「小身の敵には、遠くから囲み立てるようにするべし。さすれば、自ら潰れていく。大身の敵には、十死必勝の覚悟を持って、全力で事を構えるべし。さもなくば、我々は天下に”勇無し”と舐められてしまうだろう。」という言葉が残っています。

この言葉から、吉川元春がただ攻撃一辺倒の無知略な武将ではなく、父・毛利元就と同じように、様々な戦略を練りながら戦をすすめていたことがわかります。

吉川太平記

生粋の武人として名を馳せる吉川元春ですが、豊富な知識を持つ文化人としての一面もありました。尼子氏討伐戦において籠城戦を開始し持久戦となったとき、吉川元春は『太平記』の写本を開始し、40巻に及ぶ『吉川太平記』を書き上げます。

原作に忠実に従った文体で書かれており、現在この本は国の重要文化財に指定されています。

フィクションにおける吉川元春

フィクションにおける吉川元春を解説します。

信長の野望における吉川元春

シリーズによっても異なりますが、吉川元春のステータスは、統率95、武勇94、知略78、政治61となっています。武勇に優れた史実の通り、統率と武勇が90を超える非常に高い数値となっています。

ドラマにおける吉川元春

1997年の大河ドラマ『毛利元就』では、俳優の松重豊さんが演じています。

鬼吉川と毛利元就の武勇を濃厚に受け継ぐ猛将で、数々の戦場で活躍する姿が描かれました。

その勇猛さで知られる吉川元春は、知識と優しさも持ち合わせた武将だった

毛利三本矢の三兄弟の中でも、特に猛将として知られる吉川元春ですが、そのイメージ通り「不敗伝説」を誇り、尼子氏討伐戦などで数々の武功を打ち立てています。攻撃と防御を上手く使い分け知略も持っていた吉川元春は、あの豊臣秀吉も恐れた程の戦上手でした。

その一方で配下の者を労わり、妻を愛す優しさと、『太平記』を見事に写本する教養も持ち合わせていました。まさに、毛利家繁栄の基礎を築いた文武両道の名将であると言えるでしょう。