顕如は戦国時代を生きた僧侶で、浄土真宗本願寺派の第11代宗主です。宗教者でありながらも織田信長に対抗するために門徒衆を率いて信長の侵略に対抗し、激しい攻防を繰り広げた人物でもあります。
この記事では顕如の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。顕如がどのような人物であったのか、どのような名言やエピソードを残しているのか、ドラマやゲームなどフィクションにおける顕如など、様々な視点から解説していきます。
顕如の基本情報
本名 | 顕如(けんにょ) |
生涯 | 天正12年(1543年)〜天正20年(1592年) |
時代 | 戦国時代・安土桃山時代 |
出身国 | 大坂 |
居城 | 石山本願寺 |
主君 | 証如 |
官位 | 准三宮 |
妻(正室) | 教光院如春尼 |
子 | 教如、准如 |
顕如(けんにょ)は大坂出身の戦国時代から安土桃山時代を生きた僧侶です。諱は光佐で本願寺光佐とも呼ばれた人物です。浄土真宗本願寺派の第11代宗主として、僧侶ながらも織田信長の天下統一を全力で阻んだ人物でもあります。
顕如の人生
年 | できごと |
---|---|
1543年 | 本願寺第10代宗主である証如の子として誕生 |
1554年 | 父証如の死により12歳で本願寺の宗主を継ぐ |
1557年 | 教光院如春尼(三条公頼の実子)と結婚 |
1559年 | 正親町天皇の勅命により本願寺が門跡となる |
1561年 | 僧侶の官職でもある僧正に任命される |
1568年 | 織田信長の上洛に伴い、圧迫を受け敵対関係に発展する |
1570年 | 織田信長を相手に交戦(石山合戦・長島一向一揆)し、 信長包囲網を構築 |
1576年 | 再び織田信長と天王寺の戦いで交戦 |
1580年 | 朝廷を仲介として信長と和平を結ぶ |
1585年 | 大僧正に任命される。翌年に朝廷から准三宮を賜る |
1592年 | 50歳で死去 |
生誕から本願寺継職まで
顕如は天文12年(1543年)に第10代本願寺宗主である証如の長子として誕生しました。1554年には父証如の死に伴い、12歳という若さで本願寺宗主を継ぐことになります。父の証如の時代は細川家と手を組み、周囲の敵対勢力を攻撃するなど過激な一面もあった本願寺ですが、顕如が継いでからは一転して他勢力との友好的な関係を築いていき、過去の遺恨を打ち消すために努めました。
1559年には正親町天皇の命で本願寺は門跡となり、1561年には日本の仏教を統括する僧正に任命されます。顕如はその類い稀なる統率力で本願寺門徒を統制し、一代で本願寺宗派の最盛期を築き上げます。
信長台頭による交戦
1568年に織田信長が足利幕府将軍の足利義昭を立て上洛すると、宗教勢力が大きかった本願寺は信長から疎まれ、圧力をかけられるようになってしまいます。
1570年には畿内で信長により追い出されていた三好三人衆が反攻を開始したことをきっかけに、顕如と本願寺門徒も織田信長への反旗を翻し、近隣の浅井・朝倉軍や一向一揆などを味方につけて石山合戦・長島一向一揆など激しい攻防を繰り広げました。
武田信玄や浅井・朝倉家などと親睦を深め、信長包囲網を築きあげていた顕如でしたが、1573年に武田信玄の急死と浅井・朝倉の滅亡をきっかけに信長に追い込まれる形となり、自ら和議を申し出ます。
しかし、1576年に再び足利義昭の信長討伐の命に従う形で蜂起(天王寺の戦い)します。毛利勢の援護も受けて粘りを見せた本願寺でしたが、1577年には雑賀衆の降伏や信長の水軍強化に伴い劣勢に陥っていきました。1580年に顕如はついに降伏を決断し、朝廷を仲介として自らの石山本願寺退去(後任に長男の教如)を条件として信長と和睦を結びました。
信長死後の豊臣政権下
本能寺の変で信長が死去後は、代わって権力を握った豊臣秀吉に和睦を申し込みます。また本願寺の持つ経済力などを引き入れたかった秀吉は石山本願寺の寺内町を基盤にして大坂城とその城下を整備していきます。
1585年には豊臣政権下のもと天満本願寺を建立し、大僧正に任命された顕如は、翌年の1586年には朝廷から准三宮に任じられます。
しかし、その後の本願寺は豊臣政権下で厳しい統制を受けていくことになります。1591年には秀吉から新しく京都の地に移転を強いられ、かつて栄えた顕如の本願寺勢力はますます衰えていきます。1592年、顕如は本願寺再興を祈りながら50歳でその生涯を終えました。
顕如の人柄・人物像
顕如の人柄や人物像について解説していきます。
絶対に戦わない男
本願寺は元々は戦国時代に栄えた仏教宗派の一つではありましたが、一向宗の鎮撫に尽くしていたこともあって、全国に幅広い仏教集団を築いてた宗派でもありました。その影響力は顕如の時代に最盛期を迎え、織田信長を最も苦しめたとも言われる一大勢力を築きあげましたが、初めから信長へ対抗していた訳ではなく、当初は一向宗による軍事活動を抑えようと信長からの軍資金依頼にも快く応じ、温厚な関係を築くことに努めていました。
また信長との激しい戦いから完全武装の武闘派のイメージが持たれますが、あくまでも本願寺と苦しむ民を守るために反旗の意思をもった統率者として信長に対抗した人物であり、自身が武器を持って戦うということはありませんでした。また度重なる厳しい戦いにおいてもあくまでも籠城戦を選択するなど仏教者としての強い意思を持った戦い方をしていたことも伺えます。
愛妻家の一面
顕如は1557年に三条公頼の三女である如春尼と結婚します。事実上は政略結婚であった二人ですが、結婚の翌年には長男の教如が誕生するなど、夫婦仲も非常に良かったと言われています。
そんな妻想いであった一面が垣間見えるように、1588年の七夕に二人で和歌を詠みあった記録が残っています。
「いくとせもちぎりかわらぬ七夕の けふまちへたるあふせなるらん」顕如
「いくとせのかはらぬ物を七夕の、けふめづらしきあうせなるらん」如春尼
顕如の名言・エピソード
顕如の名言やエピソードについて解説していきます。
顕如が唱えた「南無阿弥陀仏」とは
顕如が宗主とした本願寺は浄土真宗にあたり、戦国時代に入ってから勢力を伸ばした信仰でした。
顕如が唱えた「南無阿弥陀仏」という意味は、決して南無阿弥陀仏を自身で唱えるだけで極楽にいけるという意味ではなく、「全てを阿弥陀仏に任せることで、苦しみの元となる無明の闇が破られて幸せな極楽へいける」という阿弥陀仏への感謝の意を込めて唱える意味の念仏となります。
また仏教の中でも制約があまりない宗派でもあり、肉や魚を食す行為も認められていたため、戦国の世に多くの人に受け入れられ、信仰される宗派となっていきました。
戦国大名を上回る力さえ持った顕如
顕如は僧侶でありながらも本願寺の潤沢な資金力を元に、朝廷や各大名との関係を作ったり、その信仰力の強さから全国で起きる一向一揆をコントロールする役目も担っていた大変力が強かった宗派となります。
実際に顕如の義姉(如春尼)は武田信玄の正室になった三条夫人にあたり、顕如と信玄は義兄弟の仲にあたるなど、一宗派の枠を大きく超えた影響力を持っていたことが分かります。
また拠点のあった石山本願寺は大坂にあり、当時の寺内町はまさに経済と軍事の要として栄えた城下町のようでもあり、来日していたイエズス会の宣教師さえも顕如の影響力の凄さを手紙に書き記したと言われています。
フィクションにおける顕如
信長の野望における顕如
信長の野望では本願寺顕如の名で有名で、歴代シリーズで信長を翻弄したその強さが能力値に発揮されています。能力値が高いシリーズでは統率96,知略87,政治94などどれも僧侶としての能力とは思えない高数値を叩き出しています。
ドラマにおける顕如
数々のアニメやドラマで顕如は登場していますが、最近のドラマでは2013年に放送された「信長のシェフ」で俳優の市川猿之助さんが顕如役を演じられています。凛とした佇まいは当時の顕如を思わせるような人としての魅力が感じられます。
顕如は本願寺最盛期を作った人物
顕如は天下を目前とした戦国の覇者織田信長を10年もの長きに渡って苦し続けた大名も顔負けの一大権力者でした。
本願寺の一大栄華は顕如の類い稀なる統率力と政治手腕を元に成し遂げられましたが、その心には戦乱の続く暗い世の中において少しでも民衆の力になろうという気概があり、そして浄土真宗の教えと強い信念があってこそ信長に対抗することが出来たのではないでしょうか。