加藤段蔵は「忍たま」にも登場!茨城出身で「風魔」で幻術を習ったというのは本当?

戦国時代に実在したと言われている加藤段蔵。「幻術使い」だとも「忍者」だったとも言われています。史料が残っていないため、実在したのかどうかも定かではありません。今回は加藤段蔵の人生を年表付きで解説し、各地の戦国大名の忍者事情などについても紹介したいと思います。

加藤段蔵の基本情報

加藤段蔵の人生

できごと

加藤段蔵の出自について

加藤段蔵は、江戸時代初期の軍学書などには、「鳶加藤、飛加藤(とびかとう)」などと表記されており、幻術使い、もしくは忍者だったと言われています。1503年の生まれとされていますが、史料が残っていないため、はっきりしていません。一般的には加藤段蔵が本名だと言われています。

加藤段蔵は、「とび加藤」と呼ばれることが多く、八尺の槍(もしくは棒)を使って、どんな塀でも飛び越えることが出来たことに由来しています。加藤段蔵という名は、1809年~1825年にかけて刊行された速水春暁斎の読本「絵本甲越軍記」で使われたもので、出自についても伊賀出身の忍者へと設定が変更されています。

上杉謙信に仕える

加藤段蔵は常陸国茨城郡の出身で、小田原の風間次郎太郎に師事し、幻術を身につけたと言われています。上野の長野業正に仕えた後は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に拝謁し、牛を呑みこんだり、瓠瓜の種を発芽させて、扇であおいで実を結ばせるなどの幻術を披露したと伝わっています。

その夜、長尾景虎から敵対していた大名家(家臣の家とも言われている)から刀を盗んでくるように命令されますが、加藤段蔵は簡単にこの命令を実行したと言われています。しかし、この技を長尾景虎が危険視し、身柄を確保しようとしますが、加藤段蔵は幻術を使い、越後から逃亡しています。

武田信玄の命令で討たれる

その後、甲府に現れた加藤段蔵は武田晴信(武田信玄)に仕官しています。しばらくして武田家秘蔵の書物がなくなり、加藤段蔵が犯人であることが判明。加藤段蔵は自分が(越後から)逃亡したことで長野業正の立場が悪くなったことから、武田晴信を暗殺して(長野業正への)恩を返そうとしたと白状。武田晴信の命令により、馬場信春(もしくは土屋昌続)に首を討たれたと言われています。

加藤段蔵の人柄・人物像

加藤段蔵の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

呑牛の術

長尾景虎に仕える際に、城下で披露(長尾景虎に直接見せたとも)した「牛を呑みこむ術」です。加藤段蔵は城下で一匹の大きな牛を見つけ、「ご覧ください。この牛をこの口で飲み込んで見せましょう」と言い放ちました。大きく息を吸い込むと、牛はみるみるうちに消えて行き、最後のひと呑みで牛は完全に消え、見学してい観衆たちは驚きに包まれました。

しかし、「ごまかされては駄目だ。奴は布をかぶって牛の背中に乗っているだけだ」との男の声で、群衆は目を覚ましたと言われています。この時、加藤段蔵は無言だったと言われていますが、術が破られたことに腹を立てていたとも伝わっています。

風魔(ふうま)とは?

風魔とは、戦国時代に北条家に仕えた忍者集団で、風間家の者が代々頭目となり、風魔小太郎を名乗っています。本拠地は相模国足柄下郡だったと言われており、北条家滅亡後は、江戸近辺で盗賊となり、密告により一網打尽にされたとも伝わっています。

風魔のことを書いた書物に、加藤段蔵も登場し、風間次郎太郎から幻術を学んだという記録も残っています。

加藤段蔵の名言・エピソード

加藤段蔵の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

上杉家と武田家の忍者衆は?

加藤段蔵を召し抱えなくても、上杉家や武田家にも専属の忍者軍団がいました。その辺りについて触れたいとおもいます。

軒猿(上杉家)

上杉家には軒猿(のきざる)という忍者集団がいました。忍者の解説書などでは軒猿の由来は、中国の公孫軒轅(黄帝)だと言われています。黄帝は中国の神話上の統治者でありますが、このころに忍術が盛んに行われていましたが、上杉家の軒猿に関係してるという史料は残っていません。

上杉謙信に仕えた忍者集団は書物では、「伏齅・「聞者役」などと呼ばれており、「軒猿」という記載はありません。その為、軒猿は歴史小説名などでの通称だった可能性が高いと思われます。

透波(武田家)

武田信玄に仕えた忍者集団は、「透波(すっぱ)」または、「甲州透波(こうしゅうすっぱ)」と呼ばれています。武田信玄は20代後半の若者で透波を組織化し、約70名を召し抱えていました。その中から特に優秀な30人を選抜し、板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰ら重臣に10人ずつ配置し、各地の大名の調略を行わせたと言われています。

透波は2人1組で敵地を探り、国境付近に出張していた武士に情報を伝えていたとも言われています。しかし、1548年の村上義清との戦いで、板垣信方・甘利虎泰が戦死したため、武田信玄は組織を再編し、「三ツ者」という諜報部隊を作っています。

三ツ者は、間見(諜報)、見方(謀略)、目付(監視)の3つの任務を扱ったことに由来しています。構成員は武士ではなく、町人・百姓などからスパイ任務に向いている人間をスカウトし、合計すると200人規模のものだったと言われています。

戦国大名は忍者を活用

その他、北条家の「風魔」、真田家の「真田忍者(猿飛佐助に代表される)」、徳川家の「伊賀衆(服部半蔵が有名)」など各地の戦国大名も忍者集団を重宝しています。忍者嫌いのイメージがある織田信長も饗談(きょうだん)と呼ばれる忍者集団を配下に置いていました。

饗談は桶狭間の戦いの際、今川義元の居場所を突き止め、織田信長の勝利に貢献したとも言われています。山陰地方の尼子家も「鉢屋衆」という忍者集団を重宝し、当時の当主であった尼子経久は、鉢屋衆を活用し、城を奪還することに成功し、以後、鉢屋衆は尼子家で重宝されています。

毛利元就は謀略に忍者を活用

その尼子家と勢力争いをしていた毛利元就には、「座頭衆・世鬼一族」という忍者集団がいました。「世鬼一族」の頭目:世鬼政時は300石で毛利家に仕えており、座頭衆はいわゆる琵琶法師と呼ばれる盲目の集団でした。座頭衆は「盲目だから何もできないだろう」という人の先入観を利用し、敵地の有力者に取り入り、情報収集や離間工作に力を発揮しています。

この座頭衆と世鬼一族は、共同して当主の尼子晴久と武装集団:新宮党の仲たがいを工作し、尼子晴久に新宮党を粛清させ、尼子家の弱体化に成功しています。結果、毛利元就の中国地方制覇に大きく貢献したとも言われています。

フィクションにおける加藤段蔵

フィクションにおける加藤段蔵について、紹介したいと思います。

信長の野望における加藤段蔵

信長の野望における能力値ですが、統率:50、武勇:80、知略:88、政治:27、となっています。軍事面で力を発揮するステータスに思えます。

ドラマにおける加藤段蔵

加藤段蔵が登場するドラマは、今のところありません。しかし、小説やゲームなどには登場しています。ちなみにアニメ「忍たま乱太郎」にも乱太郎のクラスメートに「加藤団蔵」というキャラクターが登場しており、加藤段蔵をモチーフにしていると思われます。

加藤段蔵は謎の多い人物

加藤段蔵に関しては、忍者だったのか、幻術使いであったのかも定かではありません。エピソードを見ていても超人的なものばかりなので、実在したのかも怪しいという見方もあります。ただ、小説やゲームにも加藤段蔵をモチーフにした人物が登場し、それらしい人物の史料もあるので、実在はしていたのではないかと思われます。