狩野永徳は安土桃山時代を代表する絵師!唐獅子図屏風絵は政治利用された?

狩野永徳は時の権力者から重用された「狩野派」の中でも随一の天才と称され、また日本美術史の中においても最も有名な画家の一人としてその名を挙げられます。安土桃山時代の権力者、織田信長や豊臣秀吉に重用され、数々の障壁画を描いています。

この記事では狩野永徳の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。狩野永徳がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、漫画やアニメにおける狩野永徳など、様々な視点から解説していきます。

狩野永徳の基本情報

狩野永徳(かのうえいとく)は山城国出身で安土桃山時代を生きた画家で、織田信長・豊臣秀吉といった天下の武将をはじめ、公家・天皇家にも重用されました。

狩野永徳の人生(年表付き)

できごと

天才少年

1543年、室町幕府御用絵師であった狩野派三代目頭領・狩野松栄を父として誕生します。狩野永徳は幼少時から才能を発揮し、10歳の時には祖父の狩野元信に連れられて、13代将軍足利義輝に謁見しており、狩野一族の間でもいかに期待されていたかが分かります。

本格的に制作を開始した時期については諸説ありますが、1566年、24歳で大徳寺聚光院の障壁画の制作に父と共に取り掛かります。父・狩野正信は若き狩野永徳の才能を認めており、自らは脇にまわり、狩野永徳を主担当とさせます。全46面の襖絵の内、狩野永徳は24面を割り振られ、『花鳥図』『琴棋書面図』を書き上げます。

この時に描いた絵は、20代前半という若さながら、選りすぐったモチーフを拡大強調して目立たせるという狩野永徳の特徴が出ており、伸びやかで既に成熟された雰囲気のある絵となっています。

その後、室町幕府御用絵師であった狩野家は、その立場から五摂家の一つである近衛家とも親しかったことから、1567年から1568年に近衛家当主・近衛正久邸の障壁画を描いています。

武将からの寵愛と織田信長

1571年、29歳の狩野永徳は豊後国の守護大名大友宗麟に招かれ、金工師や薬師と共に豊後国に下向します。この時の様子を「めいじん(名人)そろへ下申候」と書き記した文書が残っており、この頃には既に狩野永徳が名人として広くその名を知らしめていたことが伺えます。

狩野永徳は文化人としても名高かった大友宗麟より、臼杵に築いた丹生島城の書院の襖絵を制作するよう依頼されます。当時の臼杵は勘合貿易で栄えた国際交易都市であり、狩野永徳は樹石見山という名の明人と交流を持ち、ここで明の画法も学び、さらにその才能を伸ばしました。

そして1576年、安土城の建築が始まると、織田信長により依頼され安土城内約100枚にも及ぶ障壁画の制作を開始し、3年の年月をかけてついに完成させます。

安土城はその後焼失してしまったため、狩野永徳の作品を見ることは出来ませんが、金碧濃彩の、重々しく豪華絢爛な障壁画であったという記録が残っています。城の各階には絵の間が設けられ、その中の一つには、漆黒に金地の障壁画が描かれ、外の柱が朱色、うちの柱が金という派手派手しい織田信長好みの部屋もあったようです。

このように、武将達からその才能を買われ数多くの障壁画の依頼をこなす中で、武士好みの豪華で大胆な画風「大画様式」を確立させました。

豊臣秀吉に仕えた晩年

1582年の本能寺の変で織田信長が倒れると、織田信長に替わり天下人となった豊臣秀吉に重用されるようになります。

1583年には本拠地大阪城の障壁画を描き、1586年には政庁兼邸宅として、また後陽成天皇の饗応のために着工を開始した聚楽第において、その障壁画を描きます。その他、仙洞御所、天瑞寺など、豊臣秀吉が次々と築いた建物の障壁画のほとんどを請負いました。これら豊臣秀吉からの大規模な障壁画の依頼は、7年で5回にまで及んだと言われています。

その間にも、1589年に後陽成天皇の内裏の障壁画を、1590年には皇族・八条宮家の障壁画を描くなど、武家以外でも広く寵愛され、精力的に活動しています。

1589年、豊臣秀吉より落雷被害を受けた東福寺の天井画の修復を命じられます。しかし、その最中の1590年、この絵のメインである龍図の制作途中に病に倒れ、48歳で死去します。過労死であったとも言われています。

狩野永徳の人柄・人物像

狩野永徳の人柄や人物像について説明します。

後世の狩野派と、ルイス・フロイスからの評価

狩野永納が1679年に発刊した『本朝画史』において、「怪怪奇奇、自ら前輩不伝の妙を得て、もって一時に独歩す」、「(弟の狩野宗秀は)画法を専ら兄永徳に学び、よく規矩を守ったが、兄には及ばなかった」と記されており、後世の狩野派の人々からも、狩野派きっての天才として、高く評価されていたことが分かります。

またその存命中から高く評価されていたことは織田信長や豊臣秀吉から重用されていたことを見ればわかる通りですが、『狩野五家譜』において「安土城殿中の絵の間を信長公の命で描いたところ、公は大いに満足の意を表わし、永徳をただちに法印に除し、知行三百石を与えた」と記録されており、織田信長に謁見した宣教師・ルイス・フロイスも、著書『日本史』の中で、「日本で最も優れた職人」と讃えています。

ライバル・長谷川等伯

武将達の要望に応えて「大画様式」を確立させたように、狩野永徳は自らの絵画における信念を決して曲げることのない頑固者ではなく、求められたものに素早く対応する柔軟性と、政治的配慮を怠らない強かさを持ち合わせていた人物であったようです。

狩野永徳の活躍によって1500年代後半の障壁画は狩野派一族の独占状態となっていたところに、急速に長谷川等伯(1539年〜1610年)が台頭してきます。曽祖父の時代から続き名声を高めてきた狩野派と異なり、長谷川等伯は一代でその名を轟かせた画人でした。

狩野永徳は長谷川等伯一門の障壁画作成を阻止するため、依頼者や有力者に酒樽や絵扇を送るなどの賄賂を行なっていたと言われています。

狩野永徳の名言・エピソード

狩野永徳の名言やエピソードについて解説します。

仕事は命がけだった

時の有力者、殊に有力武将との仕事は、狩野永徳にとっていつも命がけのものでした。

気性の荒い織田信長から安土城障壁画の依頼をされた際は、「もしも気に入らないものを仕上げてしまったら、殺される恐れがある」と危惧し、安土城移住前に弟へ家督を譲った上、家名を存続させるために別家を建てさせています。

それは豊臣秀吉の時代になっても同じで、その仕事はいつもプレッシャーとの戦いでもありました。

信長三回忌に合わせて狩野永徳が描いた「織田信長像」は、当初は当時流行していた「片身替わり」と呼ばれる、左右色違いの小袖を身につけた華やかな姿で描かれていました。しかし、これに豊臣秀吉がクレームをつけたため、狩野永徳は冷や汗をかき、即刻これを地味な色合いへと修正しています。

唐獅子図屏風絵は政治利用に用いられた?

狩野永徳の代表作『唐獅子図屏風絵』は、1582年に本能寺の変の発生を聞きつけた豊臣秀吉が、当時交戦中であった毛利輝元といち早く講和を結ぶために贈られたとされています。

次に紹介する『洛中洛外図』も同様で、この作品は将軍足利義輝が、上杉謙信に早く上洛して関東管領に就任せよというメッセージを伝えるために制作されたと言われています。

洛中洛外図はいつの作品?

『唐獅子図屏風絵』と並ぶ代表作の一つ、『洛中洛外図』ですが、その絵がいつ描かれたかにおいて論争があります。

通説では、描かれた洛中洛外の様子から、絵が制作されたのは1561年頃で、完成したのが1565年9月3日であるとされています。しかし、1565年5月に依頼者・足利義輝が殺害されてしまい、暫く狩野永徳の元にとどまり、織田信長が上洛した1574年3月、同盟を結ぶために上杉謙信にこれを贈ったとされます。

しかしこの説は、足利義輝が1561年、狩野永徳に制作を依頼した時、彼はわずか4歳であったことになり、不可能であると反論されています。(この反論においては、描かれたのは1574年以降であると主張されます。)

フィクションにおける狩野永徳

フィクションにおける狩野永徳を解説します。

漫画・アニメにおける狩野永徳

漫画『ねこねこ日本史』(著:そにしけんじ)第5巻に、主人公として登場します。史実と同じように時の権力者らに重用された結果、過労死してしまうキャラクターとして描かれています。

この作品はアニメ化もしており、声は声優の八代拓さんが担当しています。アニメ版においては、その死因が過労死から転落死へと変更されています。

狩野永徳は狩野派の最盛期を築き上げた天才だった

狩野永徳は依頼者や時代が求めているものを敏感に察知し、その要望に応えることで若い頃から死の寸前まで権力者達に重用された天才画家でした。

狩野永徳の活躍により狩野派はますますその名声を高めて組織力が強化し、室町幕府御用絵師に続いて江戸幕府御用絵師となるまでに成長していきます。

狩野永徳が描いた作品は、その多くが障壁画であったため、建物の喪失とともにその作品も消え現存しているものは数少なくなっています。しかし、当時の文献からは彼が描いた豪華絢爛な障壁画の様子が伺え、安土桃山時代の建物を華やかに彩っていたのが目に浮かんできます。