海北友松は戦国の世を生き抜いた名絵師!その代表作や雲龍図とは?

海北友松は戦国〜江戸時代初期を代表する絵師の一人であり、武士の家に生まれながらも筆を取ることを選び、今に至るまで数々の名作を生み出した人物となります。

この記事では海北友松の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。海北友松がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ドラマやフィクションにおける海北友松など、様々な視点から解説していきます。

海北友松の基本情報

海北友松(かいほくゆうしょう)は近江国出身の戦国〜江戸時代初期を生きた絵師の一人です。

狩野元信や狩野永徳に支持し、狩野派を学びながらも独自の表現を取り入れた作品の数々は現代に至るまで高い評価を受け、当時の代表的な絵画として名を残しています。

海北友松の人生

できごと

武士の家に誕生

海北友松は1533年、近江浅井家の家臣である海北綱親の五男として誕生します。浅井家は近江の雄として全国に名を馳せた有力大名で、父の海北綱親は浅井亮政、久政、長政の浅井家三代に渡って仕えた重臣でした。赤尾清綱や雨森清貞と共に「浅井三将」とも呼ばれ、浅井家の軍人として織田信長などを相手にその武勇・知略を存分に発揮し活躍した名将です。

このように歴とした武家の家に生まれた海北友松でしたが、海北家の中では五男として生まれたこともあって幼少の頃から禅門に入ることになり、京都の東福寺で修行に励む毎日を過ごします。東福寺では僧侶たちの世話をする係をする稚児として禅や茶道を学び、公卿たちとの交流を深めていきました。またこの時に狩野元信・永徳らを師匠として狩野派を学んでいたとされています。

浅井家の滅亡、海北家を背負う立場に

そんな海北家にも戦国の波が押し寄せてきます。1570年になると当時浅井家と同盟関係にあった織田信長が、盟約でもあった「隣国朝倉家への不戦の誓い」を破り、越前国の朝倉義景を攻め始めます。これにより当主の浅井長政は織田との同盟を破棄し朝倉側へとつくことになりました。

織田家との戦況は苦境を極めていき、1573年には織田信長が3万の大軍を率いて浅井家に押し寄せ、浅井長政が自害することで浅井家が滅亡し、長政に仕えていた父・兄も共に討ち死することになりました。

海北友松は東福寺で暮らしていたこともあってその難を逃れていましたが、父と兄を相次いで失った海北家は武家としての存続が危なくなります。海北友松は海北家をもう一度武家として再興したいという強い決心を持ち、40歳という年齢で還俗することにしました。

遅咲きの名絵画師

海北家再興を願って還俗した海北友松は武芸に励みますが、お家再興はなかなか上手くはいきませんでした。

そんな海北友松の転機となったのが、東福寺にいた頃に嗜んだお茶や和歌の知識、そしてそれに伴う文化人との交流の広さでした。当時の有力文化人であった東陽坊長盛や細川幽斎らと付き合い、斎藤利三や石田三成、安国寺恵瓊らの武人にも広く人脈を持っていたことがわかっています。絵画や茶道というのは文化人以外にも武人にとっての嗜みでもあり、それらに秀でていることは様々な有力人物にも関われる重要なチャンスでもありました。ともあって海北友松は既に60歳近い年齢に差し掛かっていましたが、遅咲きの絵画師として見出されることになり、そのキャリアをスタートさせます。

そんな海北友松の才能を見出した一人に時の天下人である豊臣秀吉もいました。豊臣秀吉に認められた友松は宮中などからも用命を受け、本格的に画業に専念していくことになります。

その後の海北友松は「建仁寺丈障壁画」などの代表作を次々と書き上げていきました。海北派の始祖と呼ばれ、最晩年になっても精力的に活動を続けた海北友松は1615年に83歳でその生涯を終えました。

のちに海北派は友松の息子である海北友雪に受け継がれ、徳川家光の乳母であった春日局によって推挙を受け、海北家再興という友松の悲願を果たすことになります。

海北友松の人柄・人物像

海北友松の人柄や人物像について説明していきます。

義に熱い人物だった

海北友松は戦国・江戸初期を代表する絵画師でありながら、歴とした海北家の血を引く義に熱い武人でもありました。その人柄が良くわかるエピソードが海北友松と親交が深かったと言われる斎藤利三との友情です。

1582年に織田信長が本能寺の変で倒れ、謀反を起こした明智光秀と後の天下人である羽柴秀吉(豊臣秀吉)による大山崎の戦いが発生し、明智光秀が敗れてしまいます。

明智光秀の家臣であった斎藤利三は捕縛され、秀吉の命令で京都六条ヶ原で斬首され、光秀の遺体と合わせて本能寺や栗田口で見世物にされてしまいます。親友の死を知った海北友松は決死の想いで長槍を振りかざして本能寺に突入し、利三の遺体を奪い返したと言われています。

その後利三の遺体は京都の真正極楽寺に葬られ、今も海北友松の墓と隣同士で佇んでいます。友情を大事にした海北友松の人柄がよく分かるエピソードとなっています。

文化人・絵画師としての評価

戦国・安土桃山時代の絵画師業界は狩野永徳に代表される狩野派を主流として、それに対抗する長谷川等伯の長谷川派という二代流派が凌ぎを削っていました。

そのような中で海北友松は狩野永徳の死後、独自の画風作りに注力していきます。1599年頃には既にその画才も評価されており、代表作である「建仁寺方丈の障壁画」を手がけ成功を納めます。

その後も「山水図屏風」や「雲龍図」「花鳥図」など独自の世界をかたち作っていき、他の画家の追随を許さない海北派が誕生し、公家や官家からも引っ張りだことなる人気画家へとなっていきました。

海北友松の名言・エピソード

海北友松の名言やエピソードについて解説していきます。

画龍の名手

海北友松の絵は狩野派の豪胆さを受け継ぎながらも、みずみずしい空気感とも言える情緒性をまとった絵が特徴的です。

その中でも特に「龍の名手」として評判が高く、代表作「雲龍図」は縦2メートルほどの長さに墨で龍が描かれた作品ですが、濃淡の墨の流れに沿って描かれた見事な龍は、戦国の世を生き抜いた海北友松自身を反映するような力強い絵となっています。

海北友松は武士としての海北家再興を願いながらも絵師へと身分を落としてしまったことを終生気にかけていましたが、それによって生まれた矜持が彼の絵に凄味を持たし、他の画家には描けない作品を多く生み出しました。

この雲龍図は海外でも高く評価され、龍の名手として遠い朝鮮の国でも褒め称えられました。

義から生まれた海北家再興

海北友松は絵画師としてその生涯を終えますが、武士としての誇りを捨てず、死ぬまで海北家の再興を願い続け制作活動に従事した人物でもありました。

そんな海北家の悲願が達成されたのが海北友松の死後、徳川三代将軍の家光の時代となってからになります。その当時、海北友松の子である友雪は一介の絵師として不遇を極めていました。そんな友雪を救い出したのが徳川家光の乳母である春日局です。斎藤利三の娘であった春日局は、父である利三の亡骸を丁重に葬ってくれた海北友松の恩に報いようと息子である友雪を将軍である家光に推挙します。それ以降海北家は将軍お抱えの絵師としてその地位を確固たるものにし、明治の時代に至る長きまで存続することになります。

海北友松が残した義の想いで繋がったこの話は、いかに当時の人々が仁義礼節を大事にしていたかが分かる暖かいエピソードとなっています。

フィクションにおける海北友松

フィクションにおける海北友松を解説していきます。

ドラマにおける海北友松

1989年に放送された大河ドラマ「春日局」で吉幾三さんが海北友松役で出演されており、身寄りのなくなってしまった春日局を見守る暖かみのある役柄となっています。

小説における海北友松

海北友松に関する小説には作家の葉室麟さんの「墨龍賦」という小説があります。武人としての誇りを持ち続けた絵師・海北友松の一生を描いた長編歴史小説となっています。

海北友松は武士としての誇りを生涯忘れずに数々の名作を世に出し続けた絵師

海北家という由緒ある武士の家に生まれながらも、絵師になった海北友松は生涯に渡って自分が何者なのかを模索し続けた人でもあります。晩年には自分の生きる道を絵画に見出し「雲龍図」を始めとする名画を次々と生み出しました。

また、斎藤利三という友を大事にした姿は海北友松がいかに人情に熱く、人としての繊細な心を持っていた人物かが分かります。

海北家再興という悲願を最後まで願いつつ、武士と絵師という狭間で揺れ動いた苦難の人生でしたが、そんな彼だからこそ後の世に至るまで多くの人々を魅了する作品が描けたのではないでしょうか。