出雲阿国は歌舞伎の創始者!真田丸にも登場!本名と墓の場所について!

出雲阿国ですが、本名については分かっていません。出雲大社の巫女だったということから、そう呼ばれるようになり、やがて諸国を巡り「かぶき踊り」を広め、これが現在の「歌舞伎」の原点をなりました。今回は出雲大社の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

出雲阿国の基本情報

出雲阿国の人生

できごと

生まれは出雲?

出雲阿国は、出雲国杵築中村の里の鍛冶屋:中村三右衛門の娘として生まれています。出雲大社の巫女となり、文禄年間で出雲大社勧進のために諸国を巡回していたとされています。苗字が「出雲」で名前が「阿国」と考えられがちですが、実はこの名前は史料になく、本名でない可能性があります。

結婚していた?

出雲阿国は歌舞伎の基礎を作った人物とされています。現在で言うと芸能人のような存在で、日本各地を渡り歩いていたと言われており、多くの戦国大名からも人気を集めたとされています。また、同じく歌舞伎の創設者として知られる名古屋山三郎(なごや さんさぶろう)の妻、あるいは恋人という説もあります。

名古屋山三郎は、武芸に優れた人物であると共に容姿端麗で、和歌や茶道についても理解があったとされ、仕官先でトラブルを起こして殺されたとも言われています。名古屋山三郎が亡くなると、出雲阿国は彼の姿に扮して歌舞伎の元となった踊りを作り上げたともされています。

「かぶき踊り」を広める

「慶卿記」という史料には、1600年に「クニ」と呼ばれる女性(出雲阿国とされている)が「ヤヤコ跳」という踊りを行ったとされ、この「クニ」が3年後、「かぶき踊」をスタートしたと言われています。2つの違いですが、「ヤヤコ跳」は今でいう女の子たちのダンスで、「かぶき踊」とはセクシーさを売りにした踊りのようなものでした。

後者の「かぶぎ踊り」は日本中の遊女屋に広まっていきました。その為、出雲阿国自身も遊女だったのではないかという説もあります。この遊女屋で行われていた歌舞伎は「遊女歌舞伎」と呼ばれ、一部では50人以上の遊女が舞台に上がり、数万人クラスの客数を動員したとも言われています。

しかし、トラブルが多かったこともあり、後に江戸幕府により遊女歌舞伎は禁止されています。歌舞伎が盛り上がるのは元禄時代からでこの頃から、男性中心の演劇になっていきました。出雲阿国が亡くなった年ですが、諸説ありはっきりとはしていません。出雲に戻り尼になった伝承もあり、出雲大社近くに出雲阿国のものと伝わる墓もあります。

また京都の大徳寺にも出雲阿国のものと伝わる墓があり、名古屋山三郎の墓と並んで供養されています。

出雲阿国の人柄・人物像

出雲阿国の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

諸国を巡業していた

元々。出雲阿国の一座は京都の四条河原の仮設小屋で興行を行っていましたが、後に北野天満宮に舞台を張るほどの規模になりました。史料によると、伏見城で参上して豊臣秀吉に踊りを披露したこともあったそうです。その他、公家や御所に住む女性にも踊りを披露しており、京都での人気が衰えると、江戸を含む諸国を巡業するようになりました。

こうして一大ブームを巻き起こした出雲阿国の一座ですが、1607年に江戸城で歌舞伎を披露した後は、消息が途絶えています。しかし、1612年に御所で「かぶき踊り」が上演されており、これを出雲阿国の一座とする説もあります。

傾奇者とは?

「傾奇者(かぶきもの)」とは、戦国時代末期から江戸時代初期に流行した言葉で、それまでの常識から外れたド派手な身なりをする人を言いました。傾く(かぶく)とは、頭を傾けるという意味があり、周囲を驚かせるような変わった様子を指していました。

漫画「花の慶次」のイメージから傾奇者と言えば、前田慶次というイメージが強いかもしれません。出雲阿国は女性でありながら、男装し「かぶき踊り」を披露していたことから、「傾奇者」と呼ばれていました。傾くから「傾奇」へ、歌い舞う芸妓から「歌舞妓」となり、そしてお面をかぶり音楽に合わせて踊る伎楽(ぎがく)の伎から「歌舞伎」と表記が変わりました。

歴史上、傾奇者言えば伊達政宗、前田慶次が挙げられますが、女性でありながら男装し武士の格好をした出雲阿国が一番の傾奇者なのかもしれません。

出雲阿国の名言・エピソード

出雲阿国の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

かぶき踊りのスタイルは?

「かぶき踊り」は、武士(男装した出雲阿国)が町娘(女装した男性)に戯れるという内容でした。その他の踊り手も踊ることから、最期には出演者と観客が入り乱れて全員で踊るなど、かなりの熱狂ぶりだったようです。

この「かぶき踊り」が遊女屋で流行したことから「遊女歌舞伎」となりました。「遊女歌舞伎」は男装した遊女と遊女の濃密な掛け合いに三味線を追加したこともあり、お客にとっては、遊女の品定めになっていたようです。

その後、幕府の取り締まりが厳しくなり、女性が舞台に立つことができなくなりました。その影響もあり、元禄年間以降は男性中心の現在の歌舞伎のスタイルが確立していきました。

結城秀康との逸話とは?

結城秀康は、徳川家康の次男で徳川秀忠の異母兄としても知られています。伏見城代として勤めていた結城秀康は出雲阿国の一座を気に入り、幾度も御殿に招きいれていました。結城秀康が出雲阿国を「天下一の舞女」と褒めたたえていました。一方の出雲阿国も結城秀康を飽きさせないようにと、踊りを研究し様々な歌舞伎のスタイルを誕生させたとも言われています。

フィクションにおける出雲阿国

フィクションにおける出雲阿国について、紹介したいと思います。

信長の野望における出雲阿国

能力値ですが、統率:79、武勇:6、知略:84、政治:77、となっています。おそらく通常シナリオでは登場しないのでボーナス武将、もしくは姫武将としての登場かもしれません。

ドラマにおける出雲阿国

出雲阿国を題材にしたドラマは少ないようです。NHK大河ドラマ「真田丸(2016年)」には出雲阿国が登場していました。しかし、生涯に謎が多すぎることもあり、ドラマ化が難しいのかもしれません。

出雲阿国と阿波踊りとの関係は?

出雲阿国ですが、徳島県の「阿波踊り」とも関係しているようです。出雲阿国が徳島に赴いたかどうかは謎ですが、京都から出雲阿国がまった「かぶき踊り」が徳島に伝来し、それを現地の女性が真似て踊ったことから徳島独自の踊りが誕生したとも言われています。

これが「阿波踊り」の起源となったとされ、「阿波踊り」の語源は「阿呆踊り(アホおどり)」とも言われ、「阿呆」から「阿波」に変化したとも伝えられています。