伊東マンショはフェリペ2世も感動させた少年使節の正使!帰国後の活動は?

伊東マンショは1582年に派遣された天正遣欧使節団の4少年の1人であり、帰国後はキリスト教弾圧の逆風吹き荒れる日本において、その生涯をキリスト教布教に捧げた人物です。

この記事では伊東マンショの生涯を年表付きで分かりやすく解説します。伊東マンショがどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、映画における伊東マンショなど、様々な視点から解説していきます。

伊東マンショの基本情報

伊東マンショ(いとうまんしょ)は日向国出身の安土桃山時代から江戸時代初期を生きたキリシタンです。

大友宗麟の名代として天正遣欧使節団の正使となりヨーロッパに赴き、帰国後は司祭となり布教活動を行いました。

伊東マンショの人生(年表付き)

できごと

苦難の少年時代

1569年、日向伊東氏の家臣である父・伊東祐青と母・町の上の間に生まれます。母方の祖父・伊東義祐は48個の城を築城し、日向国全域を治めた有力な戦国大名でした。

しかし、1577年、勢力を拡大させる島津氏が日向国に侵攻を開始して戦となり、父は戦死してしまいます。伊東氏一族は血縁である豊後国の大友宗麟を頼ろうと敗走します。当時8歳であった伊東マンショも、これに従って12月の雪山を歩き豊後国を目指しました。

命からがら豊後国にたどり着いた伊東マンショでしたが、大友宗麟から十分な支援を受けることは出来ませんでした。母・町の上はこの地で再婚しますが、馴染むことが出来なかったのか、伊東マンショは豊後国内を放浪するようになります。

その途中でスペイン人宣教師のペドロ・ラモンと出会い、彼に導かれて臼杵にて洗礼を受け、マンショの教名を授かります。落ちぶれながらも大友宗麟の縁戚にあった伊東マンショは、良家の子息しか入学が認められなかった有馬のセミナリヨ(初等の神学校)に一期生として入学し、ラテン語や音楽などを学びました。

1582年、同じくセミナリヨの一期生であり優秀の誉高かった原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルとともに天正遣欧使節団に選出されます。

天正遣欧使節団は、宣教師ヴァリニャーノが、日本における布教活動資金を教皇・王侯に援助してもらうこと、日本人自らにキリスト教世界を見聞させて、帰国後にその偉大さを語らせて布教を行うことを目的として、大友宗麟・大村忠純・有馬晴信らキリシタン大名と協力して派遣を決定したものです。

伊東マンショは、大友宗麟の名代兼天正遣欧使節団の正使としてヨーロッパに向かうことになりました。

天正遣欧使節団として

1582年2月20日、少年達は宣教師ヴァリニャーノ、世話役を務めるメスキータ神父らと共に長崎港を出航しました。この時の権力者はキリスト教に寛容だった織田信長であり、ヴァリニャーノに対し狩野永徳作の「安土城下町屏風」を与えて見送っています。

1583年11月、マカオを経由してインドのゴアに着いたとき、ヴァリニャーノはこの地の管区長に任命されたため、少年たちはここで一時師と別れることになりました。その後、嵐や海賊に見舞われ、熱病にかかるなどの苦難を乗り越え、1584年ついにポルトガルのリスボンに到着しました。

ポルトガルは当時スペインの支配下にあり、1584年11月、少年たちはスペイン王・フェリペ2世と謁見することとなります。彼らは帯刀して袴・足袋・草履を身につけた武士の正装(首回りはヨーロッパのマナーに従って襟を着用)で宮廷に赴き、フェリペ2世や集まっていた貴族達を感動させました。

その後、イタリアのトスカーナ・ヴェネチア・ミラノなどを巡回して各地で歓迎を受け、1585年3月、ローマで教皇グレゴリオ3世との謁見を果たします。伊東マンショは、ラテン語で大友宗麟達からの奉書を見事に読み上げました。

グレゴリオ3世は少年達を歓迎しもてなしますが、わずか18日後に崩御してしまったため、次の教皇となったシスト5世にも謁見し、その戴冠式にも招待されています。伊東マンショは戴冠式において、教皇が手を洗うための水を注ぐ大役を務めています。

1586年、ヨーロッパ周遊を終えた少年達は、再びリスボンから帰国の途に着きます。経由地のマカオに到着した時、彼らの支援者である大村忠純と大村宗麟が死亡したこと、織田信長に替わって天下をとった豊臣秀吉がバテレン追放令を発令したこと等、衝撃的な事実を知ります。

宣教師の立場では帰国できないとわかったヴァリニャーノは、自らをインド総督の使者として、少年達はその同行者という立場とすることで帰国を果たします。

帰国後

1590年7月に長崎港に帰った少年達は、翌1591年3月、聚楽第で豊臣秀吉と謁見します。その後7月に天草に移ってイエズス会に入会し、さらなる研鑽を積むため、1601年から約3年間、伊東マンショは原マルティノとともにマカオに留学します。

帰国後の1608年に司祭に叙階されると、伊東マンショは小倉教会に赴任し、布教活動を行います。母の要望もあって故郷の飫肥にも赴き、伝道しています。この時代、キリスト教禁止・バテレン追放の程度は地方差があり、寛容な大名もまだ多く、小倉の領主・細川忠興(正妻は細川ガラシャ)もその一人でした。

しかし、1611年、細川忠興が態度を急変させ、神父追放令を発令、小倉教会を破壊します。その裏には、キリスト教と手を切らなければ、細川家を潰すという江戸幕府からの圧力がありました。

これを受けて、伊東マンショは小倉から下関、さらに中津へと逃れながらも、布教活動を行います。1612年に長崎に戻った伊東マンショでしたが、これまでの疲れが祟って病に倒れ、原マルティノらに看取られながら死去しました。

彼の死から数年後の1614年、江戸幕府が最初の禁教令を出しており、一層キリスト教取り締まりが激化するのでした。

伊東マンショの人柄・人物像

伊東マンショの人柄や人物像について説明します。

ヨーロッパでのエピソード

ヨーロッパ中で歓迎を受けた天正遣欧使節団の少年達でしたが、伊東マンショはその正使らしく、数々の場面で賞賛を受けています。

スペインでは、エヴォラ大聖堂でパイプオルガンを演奏して大司教を喜ばせ、フェリペ2世と謁見した際には、王が草履に興味を持っていることに気づき、自分の履いていた草履を差し出して、フェリペ2世を感動させました。フェリペ2世は、思わず彼を抱擁したと言われています。

イタリアでも、トスカーナ大公が開いた舞踏会で大公妃・ビアンカから誘われた際に、付き添い人のメスキータ神父に許可を仰いだ行動が、謙虚さと配慮に満ちたものであると周囲の人を感動させたというエピソードが残っています。

伊東マンショはこの時の気持ちを、「困惑したが、野暮臭く見えないように大胆に構えて勇を鼓した。初陣のような気持ちだった」と回顧しています。

伊東マンショは、海外でも通用する臨機応変さと、日本人らしい謙虚さを兼ね備えた人物であったことがわかります。

豊臣秀吉との関係

伊東マンショは少年達の中でもラテン語や音楽に長けており、大村宗麟の血縁という出自の良さもあったため、豊臣秀吉から再三に渡り仕官を提案されます。

多額の報酬も約束されていましたが、伊東マンショは「私はヴァリニャーノに我が子のように育ててもらった。師のもとを去っては、恩を忘れたことになります」と拒否し、豊臣秀吉もこの忠義心に感心し、受け入れています。

しかし、関白の命令にすら従わず、お金にも誘惑されないキリシタンの信仰心の固さは危険であると、豊臣秀吉は改めて実感することとなったのでした。

伊東マンショの名言・エピソード

伊東マンショの名言やエピソードについて解説します。

キリスト教洗礼は金平糖がきっかけ?

少年時代、豊後国を放浪していた伊東マンショは、まるで乞食のように落ちぶれていました。ある日、地面に絵を書いて遊んでいたところを、宣教師ペドロ・ラモンに声をかけられますが、驚いて何も言えませんでした。

そこでペドロ・ラモンが持っていた金平糖を伊東マンショに差し出すと、嬉しそうにそれを食べ、その美味しさにつられて、教会まで付いて行っていつの間にか洗礼を受けていたと言われています。

長門・周防での布教活動

1608年に司祭に叙された伊東マンショは、はじめ小倉教会へと赴任しますが、イエズス会の指示を受け、小倉教会を拠点として様々な町を布教のために巡回しています。その一つが、毛利氏の領地であった長門・周防でした。ここでは毛利秀包(毛利元就九男)らのキリシタン達を訪れ、告解を聴き、ミサを行うなどして彼等を励ましたと言います。

しかし、毛利氏の城下町・萩では、当主毛利輝元による激しいキリスト教弾圧が行われており、これを危惧した伊東マンショは、萩の信徒達が助け合えるようにコンフラリアと呼ばれるキリシタン組織を創設しています。

フィクションにおける伊東マンショ

フィクションにおける伊東マンショを解説します。

映画における伊東マンショ

長崎俊一監督作品の映画『MAGI-天正遣欧少年使節-』では、俳優の野村周平さんが演じています。「生き抜く 何かなんでも生き抜く」というキャッチフレーズがつけられており、史実と同じように、苦難の航海を乗り越えてヨーロッパで学んだ様子や、逆境の時代においても布教を続けた、伊東マンショの過酷な人生が描かれています。

伊東マンショは厳しい時代にも負けず信念を貫き、波乱万丈の一生を送った

伊東氏という名門に生まれながらも少年時代から苦労を重ね、帰国後もキリスト教弾圧の逆境に見舞われた伊東マンショ。それでも信仰を捨てず布教に励み、厳しい時代を生きたキリシタンたちを励まし続けました。

天正遣欧使節団の少年達は、その後千々石ミゲルは棄教、原マルティノはマカオ追放、そして中浦ジュリアンは処刑と、それぞれが茨の道を歩んでいます。弾圧に見舞われながらも生涯布教を続けられ、最後は盟友・原マルティノに看取られた伊東マンショは、彼らに比べれば幸福であったのかもしれません。

当時のヨーロッパでは、天正遣欧使節団に関する莫大な数の書物や冊子が出されました。それらの書物は現在でも新たに発見される資料も多く、当時少年たちがヨーロッパに与えた衝撃がいかに大きかったかを物語っています。

ヴァリニャーノの目的の一つであった日本人少年たちによる布教という面では、大きな成果は残せなかったかもしれませんが、彼らがヨーロッパにおいて日本という国の存在を強く認識させたことは、現在においても非常に高く評価できることと言えるでしょう。