石川数正は、徳川家康に古くから仕え、主に交渉や外交の部隊で活躍しました。しかし、徳川家から謎の出奔をし、羽柴秀吉に仕えています。今回は石川数正の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについて紹介していきたいと思います。
石川数正の基本情報
本名 | 石川数正 |
生涯 | 天文2年(1533)~文禄2年(1593) |
時代 | 戦国時代~安土桃山時代 |
出身国 | 三河国 |
居城 | 岡崎城(三河)→松本城(信濃) |
主君 | 徳川家康→羽柴(豊臣)秀吉 |
官位 | 従五位下伯耆守 |
妻(正室) | 内藤義清の娘 |
子 | 成綱、康長、康勝、政令、康次 |
石川数正の人生
年 | できごと |
---|---|
1533年 | 誕生 |
1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元が戦死。徳川家康が独立 |
1561年 | 徳川家康と織田信長が衝突。石川数正は先鋒を務める |
1562年 | 徳川家康と織田信長の間で清州同盟が成立する。石川数正は交渉担当として貢献する |
1563年 | 三河一向一揆が起こり、父:石川康正が徳川家を裏切るが、石川数正は徳川家に忠誠を誓う |
1570年 | 姉川の戦いに参戦 |
1572年 | 三方ヶ原の戦いに参戦 |
1575年 | 長篠の戦いに参戦 |
1579年 | 松平信康が切腹し、岡崎城代に任命される |
1585年 | 徳川家を出奔し、羽柴秀吉に仕える |
1593年 | 61歳で亡くなる |
誕生
石川数正は石川右馬允康正の子として、1533年に三河で誕生しています。徳川家康が駿河の今川義元の人質だった時代から、近習として仕えていました。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、徳川家康は今川家から独立を画策。石川数正は今川氏真と交渉し、今川家の人質となっていた徳川家康の正室:築山殿と、嫡男:松平信康を取り戻すことに成功しています。
1561年に徳川家康が織田信長と紛争を起こした際は、徳川軍の先鋒として活躍しています。1562年に、徳川家康と織田信長の間に清洲同盟を成立しますが、石川数正は織田信長と交渉を行い、同盟の成立に大きく貢献しています。
1563年に三河一向一揆が起こると、父:石川康正は徳川家康を裏切ったと見られていますが、石川数正は浄土宗に改宗し、引き続き徳川家に忠誠を誓っています。石川家の家督は、叔父の石川家成が継ぎますが、これは石川家成が徳川家康の親戚であることが理由とされています。
石川数正は家老に任命され、酒井忠次、石川家成に次いで重用されるようになりました。松平信康が元服すると後見役にもなっています。1569年に石川家成が遠江に転出すると、代わりに西三河の旗頭になっています。
軍事面でも活躍
石川数正は内政面での活躍が目立ちますが、軍事面でも活躍しています。1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦い、1575年の長篠の戦いなどで武功を挙げています。1579年に松平信康が切腹すると、岡崎城代に任命されています。
1582年、本能寺の変で織田信長が亡くなり、その重臣の羽柴秀吉が台頭すると、徳川家康の命で羽柴秀吉との交渉を担当しています。1584年に徳川家康と羽柴秀吉の間で、小牧・長久手の戦いが起こると、石川数正もこの戦いに参加。徳川家康に和睦の提案をしたのは、石川数正だと言われています。
1585年3月までに石川数正は、名を石川康輝と改めており、短期間ではありますが、「康輝」名義の文章も発行しています。
徳川家を出奔
1585年11月13日、石川数正は徳川家を出奔し、羽柴秀吉の元に逃亡しています。出奔の理由ですが、「羽柴秀吉に篭絡された」、「徳川家康と不仲になった」などの理由が挙げられていますが、はっきりとした理由は分かっていません。
石川数正は徳川家の軍事的機密を熟知していたことから、出奔は徳川家にとっても大きな影響を与え、以後、徳川家は機密を守るために軍制を武田流に変更しています。その後石川数正は羽柴秀吉に仕え、通称を出雲守、名を吉輝(秀吉からの偏諱)と改め、石川出雲守吉輝と称しています。
1590年の小田原征伐で、徳川家康が関東に移されると、石川数正は信濃松本10万石が与えられています。石川数正は城下町の発展と、松本城の天守閣の造営などの整備に尽力しています。1593年に61歳で死去しています。
石川数正の人柄・人物像
石川数正の人柄や人物像について、紹介してきたいと思います。
情に鈍い人物
徳川家の家臣時代に、岡崎三奉行の1人であった高力清長は、石川数正について「情の鈍い人」と評価しています。つまり、感情を表に出さない人であったと言われています。一方、石川数正は他人の感情を読み取るのが得意で、「交渉」や「外交」が得意であったと伝えられています。
「田舎者」と評されることが多い三河武士ですが、石川数正は珍しく「インテリの知将」であったと推測できます。徳川家の家臣にはいなかったタイプだったのかもしれません。そんな石川数正は、「三河者は狭量」という口癖がありました。
狭量=心が狭い、という意味ですが、泥臭い田舎者の三河武士の中で石川数正は異質の人物として、輝きを放っていたのかもしれません。
徳川家の譜代中の譜代
実は徳川家康は松平宗家の出身ではありません。安祥松平家の出身であり、石川家はそのころからの家臣でした。安祥七譜代と言われる七つの家がありましたが、石川数正の石川家もこの七譜代の一つと言われています。
その為、石川数正も幼少期の徳川家康に仕え、「懐刀」と呼ばれていました。後の江戸時代の幕藩体制における親藩(徳川家の一族)、譜代(関ヶ原の戦い以前の家臣)、外様(関ヶ原の戦い以後の家臣になった大名)と大名を区別しています。石川数正が出奔せず、徳川家の家臣で居続けたら、譜代中の譜代家臣ということになっていたでしょう。
石川数正の名言・エピソード
石川数正の名言やエピソードについて、紹介していきます。
出奔の理由は?
石川数正の出奔の理由は、はっきりとは分かっていませんが、以下の理由が推測されています。
①羽柴秀吉の調略説
織田信長の死後、後継者の地位を確立して羽柴秀吉ですが、徳川家康の存在は脅威でした。その徳川家康の戦力を削ぐために、重臣であった石川数正を味方に引き入れようとしたとした説があります。具体的には、破格の条件での引き抜き、徳川家で石川数正を孤立されたりして、石川数正が出奔せざるを得ない状況に追い込んだ可能性があります。
②徳川家康との不仲説
1579年、松平信康が切腹していますが、この事件を契機に徳川家康と不仲になったという説があります。徳川家は徳川家康の浜松派、松平信康の岡崎派に別れていたとされ、岡崎派だった石川数正は徐々に力を失い、居場所を失ったことが出奔の原因になったとも言われています。
➂その他の理由
その他には、父:石川康正が徳川家康に敵対したことで、叔父の石川家成が嫡流とされたため、重用されなくなった説や、出奔そのものが徳川家康と示し合わせた芝居で、羽柴家の情報を徳川家康に流していた説などもあります。
石川数正の死後は?
石川数正の死後、領地は息子の石川康長に引き継がれます。関ヶ原の戦いでは、東軍に味方した為、領地は安堵されます。しかし、石川康長の統治は苛烈を極めていたと伝えられており、松本城の普請工事の規模は、8万石(10万石という説も)では賄えるものではありませんでした。
徳川家からすると、自分たちを裏切った石川数正とその一族は許しがたい存在でありましたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方していたので、しばらくは大名として君臨することができました。しかし、ある事件が石川家の没落の引き金になります。
その事件というのが、1613年の大久保長安事件でした。大久保長安は全国の金銀山の支配を任されていたことから、「天下の総代官」とまで言われていました。しかし、金銀の産出量の減少に伴い、徳川家から冷遇されるようになりました。加えて、大久保長安は生前、不正に私服を肥やしていたことが分かり、彼の死後、7人の息子は切腹を命じられています。
不幸なことに石川家と大久保長安家は親戚にあたり、連座として罪に問われ、石川康長は流罪に処され、改易となります。これにより石川数正家は断絶しました。結果的に石川家は徳川家に復讐される形になりましたが、これを外様大名潰しという説もありますが、その辺りははっきりとは分かっていません。
フィクションにおける石川数正
フィクションにおける石川数正について、紹介していきます。
信長の野望における石川数正
石川数正の能力値は、統率:70、武勇:55、知略:79、政治:84と完全な内政型タイプです。登場も1548年から1592年と長く、内政で使う分には有効な気がします。
ドラマにおける石川数正
石川数正は、主に徳川家康、織田信長、豊臣秀吉を扱っている大河ドラマや時代劇に登場しています。ただ、文官タイプなのであまり目立たない存在かもしれません。
石川数正は文官タイプでも、合戦でも活躍
石川数正は文官タイプですが、他の徳川家重臣とはタイプが違ったことから、徳川家康に重用されていました。しかし、謎の出奔で徳川家から羽柴家に鞍替えし、石川数正の死後、彼の一族は断絶しています。
徳川家が裏切り者の石川家に復讐をしたという説もありますが、偶然が重なったようにも思えます。出奔理由については、今後解明されていくことを望みます。