石田三成は秀才ながら誤解されやすい性格だった?関ヶ原敗戦後のエピソードとは

石田三成は豊臣秀吉・豊臣秀頼に仕えて五奉行を務めた人物で、豊臣秀吉の死後、天下分け目の大決戦である関ヶ原の戦いを勃発させました。

この記事では佐々成政の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。佐々成政がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける佐々成政など、様々な視点から解説してきます。

石田三成の基本情報

石田三成(石田三成)は近江国出身で、安土桃山時代を生きた武将です。

幼い時から豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、その死後は豊臣秀頼に仕えました。

石田三成の人生

できごと

豊臣秀吉の小姓となる

石田三成は、1560年、近江国の土豪・石田正継の次男として誕生します。石田氏は、代々京極氏に仕えていた一族であり、間接的に京極氏を保護していた浅井氏にも仕えていたこととなります。

しかし、その浅井氏は1570年の小谷城の戦いで滅亡し、京極氏も勢力を衰退させていました。1574年、浅井氏を破った織田信長の命により羽柴秀吉が近江国・長浜城主となると、父や兄と共に羽柴秀吉に仕官して小姓となりました。

1577年から羽柴秀吉が中国征伐の総司令官になると、明確な資料は残っていないものの、石田三成もこれに従軍して中国各地で転戦したと考えられています。

その最中の1582年、本能寺の変により織田信長が倒れると、羽柴秀吉は即刻毛利氏と和睦して中国から引き返し(中国大返し)、謀反人・明智光秀を山崎の戦いで破りました。

豊臣秀吉の側近として活躍する

織田信長の後継者を決める清洲会議において対立を深めた羽柴秀吉と柴田勝家との間に、1583年に賤ヶ岳の戦いが勃発します。

この頃の石田三成は、主に文官・外交担当者として活躍していたようで、1582年から1583年に記したとされる「石田三成発給文書目録稿」が現存しています。

文官として活躍していた石田三成ですが、賤ヶ岳の戦いでは柴田軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の巧名を挙げるなど、武人としての活躍も見せました。続く小牧長久手の戦いにも従軍し、羽柴秀吉の織田信長の後継者となるべき道を支えました。

1585年に羽柴秀吉が関白に就任すると(翌1586年に豊臣に改姓)、石田三成もそれに伴って従五位下・治部少輔に任じられます。また、これまでの功績が認められて近江国・水口城を与えられ、25歳の若さで豊臣家五奉行となる大出世を果たしました。

石田三成は五奉行(浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家)の中でも行政を司るとともに浅野長政・増田長盛と共に政務全般を担当し、その中核を担いました。

同年、石田三成は「墜水の会」と呼ばれる会合に、豊臣秀吉と共に参加しています。これは、豊臣秀吉がこれまで敵意を表明していた上杉家との密会でありました。この会合により上杉景勝は豊臣秀吉を結び、その臣下に入ることが決定しました。

石田三成はこの会合に参加していた上杉家の重臣・直江兼続とかねてから非常に良好な関係を築いており、上杉景勝が豊臣秀吉への臣従を誓うために上洛した際には、彼を斡旋する重役を務めました。

1587年より、豊臣秀吉は九州征伐を開始し、島津氏らと戦いますが、石田三成は兵糧や武器などを輸送する後方支援を担当します。前年、石田三成は堺奉行に任じられており、この地を治めて兵站基地として整備していました。

この基地を活用してスムーズな後方支援を行なった石田三成の奮闘により、九州征伐は順調に進み、島津氏を豊臣傘下に入れることに成功しました。九州平定後は博多奉行になり、博多町割りや復興に従事しています。

この頃、石田三成は太閤検地の実行役も任されており、1584年頃から美濃・奥羽・越後・薩摩など全国各地を転々としています。太閤検地の奉行を務めたのは浅野長政でしたが、石田三成も検地奉行の相談役となり、検地の方針「七か条の誓い」を定めました。

その内容は「謝礼をもらっても検地は平等に正確に行う」「農民に乱暴な対応をしたり威張ったりしない」「村人に憎らしい者がいても不公平な検地はしない」などといったものでした。

外交面でも、常陸国の佐竹義宣の豊臣秀吉謁見を斡旋、伊達政宗の対応、上杉氏と最上氏の対立を取持つ、後陽成天皇の聚楽第行幸の対応を行うなど、文官としては抜きん出た活躍を演じていました。

一方軍事面では、1590年に小田原征伐が開始され、石田三成はこれにも従軍し、北条氏の支城である館林城や忍城の攻略を任じられます。特に、忍城の戦いは石田三成が水攻めを行なったことで有名です。

兵力数の上では圧倒的に有利であった石田軍でしたが、忍城は堅城であり中々攻略できなかったため、功を焦った石田三成が、備中高松城の戦いに倣って水攻めを行うことを決定したと言われています。なお、近年の研究では、石田三成は水攻めに反対していたが、豊臣秀吉の命令があったために従ったと考えられています。

石田三成は短期間で石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を引き入れましたが、結局堤防が決壊してこの作戦は失敗し、ついに忍城を陥落させることは出来ませんでした。(最終的には和睦して終了)

朝鮮出兵で敵を増やす

1592年、豊臣秀吉が明への侵攻を目指して朝鮮出兵を開始すると、石田三成も朝鮮に渡り朝鮮総奉行に任命されました。

碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参戦しますが、幸州山城の戦いでは激戦の末に日本軍が敗退し、石田三成も負傷しています。文禄の役・第二軍として出兵していた加藤清正や鍋島直茂により、一時咸鏡道が制圧されますが、義兵抗争が活発化し再び咸鏡道が乱れます。

しかし、加藤清正は咸鏡道は既に(自分の力によって)治っていると主張し、加えて石田三成とともに第一軍として出兵していた小西行長の非難を開始します。

これに対して石田三成も応戦して加藤清正・黒田長政を始めとする武功派を非難したため、ここに彼らとの対立が始まりました。

1593年に一時的な和睦となり帰国しますが、1595年に豊臣秀吉の甥でその後継者に目され関白に就任していた豊臣秀次が切腹する事件が起こります。実子・豊臣秀頼の誕生により豊臣秀次の存在が邪魔になったために切腹に追い込み、そうするように讒訴したのが石田三成である、とするのが通説となっています。

この通説には疑問が呈される所ですが、豊臣秀次の死後、その旧領であった近江国7万石が石田三成の代官地となり、また近江国・佐和山約19万の加増を受けています。

そして1597年、文禄の役で締結された和睦が破綻して慶長の役が始まると、石田三成は国内で後方支援に従事することとなります。

蔚山城の戦いの後、蜂須賀家政や黒田長政らの在朝鮮武将達が豊臣秀吉に戦線縮小案を提示すると、これを受けた豊臣秀吉は激怒します。さらに、福原長堯らにより「彼らが合戦を放棄していた」と報告されると、蜂須賀家政や黒田長政は領国への逼塞を命じられました。

福原長堯が石田三成の縁戚であったこともあり、処分を受けた武将達は石田三成がこの処分の黒幕であると考えて彼を恨むようになり、反石田三成勢力の「七将」が結成されるきっかけとなりました。

※七将=加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政

豊臣秀吉の死去

1598年、豊臣秀吉が死去すると朝鮮出兵は中止となり撤兵が勧められますが、朝鮮から戻った加藤清正や福島正則、そして逼塞を命じられていた蜂須賀家政、黒田長政ら武断派と、石田三成を中心とする文治派での対立が激化するようになります。

豊臣秀吉は死の直前に、豊臣秀頼が成人するまでの政治運営は、有力大名である五大老と、石田三成ら五奉行による合議制をとるようにと言い遺していました。しかし、五大老のうち徳川家康は特段の地位を保持しており、徳川家康は水面下で福島正則や黒田長政らと婚姻関係を結ぼうと画策していました。

1599年にこの企てが明らかになると、同じく五大老の前田利家らによってこの婚姻関係構築が五大老・五奉行間で締結していた御掟に反するとして徳川家康が弾劾されますが、間も無く前田利家が死去すると、徳川家康や武断派七将と石田三成派の対立が再び激化しました。

同年、武断派七将は石田三成の屋敷を襲撃し打ち取る計画を立てます。事前の通報によりこの計画は石田三成の知る所となり、まず佐竹義宣の屋敷に逃れ、その後伏見城に籠りますが、ここも武断派七将に取り囲まれます。

伏見城で政務を執っていた徳川家康が仲介に乗り出し、石田三成の命は守られますが、この時石田三成の隠居などが約束されたため、石田三成の勢力は格段に衰えることとなりました。

関ヶ原の戦い

その後に起こった徳川家康暗殺計画を首謀したとされて、前田利長や浅野長政らが五大老・五奉行としての地位を事実上喪失すると、豊臣政権の主導権は徳川家康が掌握するようになります。

1600年6月16日、徳川家康が上杉征伐のために大阪を離れると、入れ替わるように毛利輝元が大阪に入ります。

この毛利輝元の大阪入城は前田玄以、増田長盛、長塚正家の三奉行の要請を受けたものであり、同時に彼らは徳川家康の罪状を書き連ねた弾劾状を諸大名へと発送しました。ここに、毛利輝元を総大将とする西軍が結成されました。

隠居の身であった石田三成は、これを受けて親豊臣派の諸大名と連携をとって西軍に引き入れていき、奉行職へと復帰します。

決起した西軍は8月に伏見城を陥落させ、その後も伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを攻略しながら軍を進め、ついに9月15日、関ヶ原で東軍と激突します。

戦いの序盤はやや西軍優勢で進んだものの、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって総崩れとなり、同日正午には東軍の勝利が決します。

石田三成は、近江国方面へ敗走します。しかし、徳川家康の命令を受けた田中吉政の追捕隊に見つかり拘束され、身柄を徳川家康の元に送られました。その後小西行長らと共に堺を引き回され、京都・六条河原にて斬首されました。41歳でした。

石田三成の人柄・人物像

石田三成の人柄や人物像について説明します。

真面目な正確と旗印

豊臣秀吉の元、非常に優れた内政官・外交官として活躍した石田三成でしたが、その優れた政治手腕は、領民支配にも活かされています。

石田三成が治めた佐和山では、彼は非常に領民想いの善政を敷いたとされており、領民から大いに慕われていました。

石田三成は領内において「十三か条掟」「九か条掟」という年貢の計算に関する詳細な規則を定めており、これによって不正な年貢の取り立てや代官の不正を無くし、領民の暮らしの質を向上させました。

また、「何か困ったことがあれば、石田三成に直々に訴えてきて良い」として領民からの直訴を認め、不平不満の解決にも努めました。このような真面目で平等を重んじる石田三成の考えは、上述した太閤検地における「七か条の誓い」にも現れています。

石田三成が使用した旗印は「大一大万大吉」と呼ばれるものですが、これには「一人が万人に、万人に一人に尽くすこと。そうすれば平和になる」という意味が込められています。

この旗印をとってみても、石田三成が領民など下々の者に対しても公平に向き合い、平和ももたらそうと努力した非常に真面目な人物であったことが伺えます。

島左近と渡辺勘兵衛

「治部少(=石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という歌が『古今武家盛衰記』に残っていますが、島の左近とは、石田三成の側近・島清興のことを指します。

島清興は当時勇将として名を馳せていた武人であり、多くの武将から仕官を請われていましたが、その全てを断っていました。

石田三成も島清興に仕官を要請しますが、はじめこれを断られます。そこで石田三成は、当時与えられたばかりの水口4万石の内、2万石の高禄を与えると破格の待遇を提案して再三の説得を行い、ついにこれを承諾させました。

このエピソードは、「君臣禄を分かつ」として、『常山紀談』や『名将言行録』に残っています。

島清興はその後関ヶ原の戦いまで石田三成に付き従い、関ヶ原の戦いでは「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」とされるほどの奮闘を見せました。

同じように、石田三成は渡辺勘兵衛という評判の豪傑に対しても、禄高500石の小姓であった時に「自分の500石の知行全てを与える。自分が100万石取りになった際に10万石を与える」と約束して彼を臣下に加えています。

渡辺勘兵衛も島清興同様、関ヶ原の戦いまで忠義をもって石田三成に仕え、敗戦後石田三成が「そなたに与えると約束した10万石も、夢となってしまった」と嘆くと、渡辺勘兵衛はこれまでの恩義に対する感謝を捧げたと言われています。

へいくわい者

石田三成の人柄を表すものとしては、「へいくわい者(=無遠慮の者)」という言葉がよく知られており、一般的に嫌われ者としてのイメージが強くなっています。

その経歴を見ても、朝鮮出兵をきっかけに加藤清正らと対立しており、関ヶ原の戦いで裏切った小早川秀秋も、朝鮮出兵で石田三成に恨みをもった武将の一人です。

しかし、このようなイメージは後世、特に関ヶ原の戦いで石田三成と対立した徳川家康を権現とした江戸時代に築かれた部分が多く、石田三成=奸臣のイメージを構築している「千利休の切腹、豊臣秀次の切腹、蒲生氏郷の毒殺は裏で石田三成が糸を引いていた」と言う説は、全て江戸時代に捏造された話であると考えられています。

また、文官として活躍した石田三成は、豊臣秀吉と臣従する武将達の間を取持つような中間的な役割にあり、その愚直とも言える真面目な性格もあいまって、誤解によって恨みを買う場面も多かったと考えられます。

石田三成の名言・エピソード

石田三成の名言やエピソードについて解説します。

お茶にまつわる逸話 三杯の茶と大谷吉継

若年の石田三成が豊臣秀吉にその才能を見出されるきっかけになったものとして、「三杯の茶」のエピソードが有名です。

ある時、豊臣秀吉が鷹狩りの帰りに近江国・観音寺に立ち寄ると、喉が乾いた豊臣秀吉は近くにいた小姓に茶を持ってくるように命じます。

この小姓は、はじめに大きな茶碗にたっぷりと入ったぬるめのお茶を差し出します。豊臣秀吉がおかわりを所望すると、今度は少し小さめの茶碗に入ったやや熱めのお茶を差し出しました。

そして3度目のおかわりに対しては、小さなお茶碗に入った熱々のお茶を少しだけいれてきました。

この小姓は、大変喉が乾いていた主君のために、まず最初は飲みやすい温度でたっぷりのお茶を出して喉を潤し、そして徐々に熱くすることでお茶の味わいを楽しめるように工夫したのです。

そしてこの小姓こそ、若き日の石田三成でありました。この機知と心遣いに気が付いた豊臣秀吉は、ここで彼を家臣として取り立てることを決意したというのが、「三杯の茶」のエピソードです。

また、石田三成と同様に豊臣秀吉から取り立てられた大谷吉継とは、深い友情関係があり、そのきっかけとなったのもお茶でありました。

豊臣秀吉が開いたある茶会の席で、一口ずつ茶を飲んで次へ回していく「回し飲み」が行われました。

らい病を患っていた大谷吉継は、飲むふりをして茶碗を回そうとしましたが、顔の膿が茶に落ちてしまい、以降の大名達はこれを嫌がって茶を飲まず、飲むふりをしてそそくさと次に茶碗を回しました。

しかし、これをみた石田三成はそんなことは意に介さないと言わんばかりにこれを飲み干して見せ、大谷吉継を感動させたと言われています。

敗走中の石田三成

関原の戦いで敗北した後、石田三成は自分の領地である近江国・古橋村に身を潜めたと言われています。

その後、与次郎太夫という百姓の案内で山中の岩窟に身を隠しますが、この時与次郎太夫は徳川軍からの咎めの責任を一身に引き受けるために妻と離縁し、刑死を覚悟して熱心に石田三成を介抱しました。

与次郎太夫がここまで石田三成に身を捧げたのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、石田三成が村人を救うために米百石を分け与えたことがあり、そのことに深い恩義を持っていたからでした。

石田三成は与次郎太夫の献身に感謝しますが、彼がこれによって処刑されるのは心苦しいと、与次郎太夫を説得して徳川軍に自らの居場所を告げさせたと言います。

徳川家康の元に送られ対面を果たすと、徳川家康は「このように戦に破れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」と言うと、石田三成は「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えます。

この勇敢な様子を見て、徳川家康は「石田三成は大将の道を知る者だ」「平宗盛などとは人の出来が違う」と賞賛しています。その後徳川家康は処刑される石田三成らに小袖を送りますが、これが「江戸の上様からです」と告げられると、石田三成は「上様は秀頼公以外にいない。いつから徳川家康が上様になったのだ」と受け取りを拒否しました。

その後、晒し者になった石田三成の元へ、関ヶ原の戦いで裏切った小早川秀秋がやって来た際には、「道理を捨てて人を騙して裏切ったことは武将として恥であり、後世に笑われるだろう」と言い放ったといわれています。

京都の町を引廻された最中、水が飲みたくなった石田三成が警護の者にこれを所望したところ、水がなかったので干柿が差し出されました。石田三成が「痰の毒であるから食べない」と拒否すると、「間も無く首を刎ねられる物が何を今更」と失笑されます。

これに対して、「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首を刎ねられるまで命を大事にする。それは何とかして本望を達したいと思うからだ」と応え、警護の者達を黙らせました。

フィクションにおける石田三成

フィクションにおける石田三成を解説します。

ドラマにおける石田三成

石田三成は、豊臣秀吉が登場する映画やドラマにおいては、その側近として高い頻度で登場しています。

NHKの大河ドラマでは、1996年『秀吉』では真田広之さん、2000年『葵徳川三代』では江守徹さん、2009年『天地人』では小栗旬さんなど、錚々たる俳優陣が演じています。

2016年の『真田丸』では山本耕史さんが演じており、生真面目な性格で不正を嫌い正論や合理性で物事を推し進め、それによって軋轢が生じても頓着しない態度をとるため、真田信繁からも「人を不快にさせる何かを持っている」と評された人物として登場しました。

実際には情が深く、戦のない太平の世を築くために豊臣家に忠勤に務めた人物であり、のちに真田信繁とも本音や心情を見せるようになった様子が描かれました。

嫌われ者の石田三成だが豊臣秀吉を支えたその優れた才能は看過されるべきではない

後世、奸臣・嫌われ者としての悪評高い石田三成ですが、その経歴を見てみると、豊臣秀吉の元で若くして文官・官僚としての才能を発揮し、内政・外政ともに非常に重要な役割を担っていたことがわかります。

武将である以上、戦での活躍ばかりに目がいきがちであり、確かに石田三成は忍城水攻めの失敗など、戦下手であったという評価は免れないかもしれません。

しかし、賤ヶ岳の戦いや文禄の役では奮闘を演じており、なにより彼の優れた内政能力が無ければ、豊臣秀吉の天下統一は成し遂げられなかったと言えるでしょう。

関ヶ原の戦いで敗者となった石田三成は、その責任を一身に背負うこととなり、豊臣秀吉の元で築き上げた功績が忘れられ、マイナスイメージばかりが表立ち、時に奸臣としてのエピソードが捏造されるほどになってしまいました。

現在では史料が見直されてその不当な評価は改善しつつありますが、忠義心高く知性優れた武将として、より高い評価を受けても過言ではない武将の一人と言えるでしょう。