今川義元は領土を拡げ今川家の全盛を築いた武将!桶狭間の戦いで破れた暗愚な人物?

今川義元は駿河国・遠江国・三河国を支配した戦国大名で、「東海一の弓取り」の異名をもち、その大きな勢力は松平氏や織田氏らの周辺大名たちにも大いに恐れられました。

この記事では今川義元の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。今川義元がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける今川義元など、様々な視点から解説していきます。

今川義元の基本情報

今川義元(いまがわよしもと)は駿河国出身で、戦国時代を生きた武将です。

東海地方の覇権を掌握し今川氏の全盛期を築きますが、最期は織田信長におり桶狭間の戦いで破れました。

今川義元の人生

できごと

今川家三男として誕生

今川義元は、1519年、駿河国・遠江国守護大名の父・今川氏親の三男として誕生します。

兄には今川氏輝と今川彦五郎がいたため、家督相続の可能性が薄かった今川義元は、4歳の時に善得寺にて仏門に入りました。ここで幼い彼の教育係を務めたのが、後に軍師となる大原雪斎であり、その後2人は京都の健仁寺へと移って修行し、今川義元はここで得度しました。

僧侶として栴岳承芳と名乗り、妙心寺でも学んでいた今川義元でしたが、1536年頃、1526年に家督を継ぎ、甲斐侵攻を計画していた今川氏輝の命を受け、大原雪斎と共に駿河国へと戻ります。

その直後、今川氏輝と今川彦五郎が同日に急死します。この不可解な死には暗殺説も存在しますが、何にせよ、この兄達の死により三男であった今川義元に家督の継承権が回って来たのでした。

この時点でまだ僧侶であった今川義元でしたが、今川氏親正室の寿桂尼らの後押しを受けて還俗し、将軍・足利義晴の一時を賜りここで「今川義元」と名乗るようになります。

しかし、今川氏の有力家臣であった福島正成らがこれに反対します。福島正成は今川氏親の側室となっていた自身の娘が産んだ今川義元の庶兄である玄広恵探を擁立し、今川義元派に対抗しました。

寿桂尼の説得も功をなさず、同年6月、玄広恵探・福島正成は久能城で挙兵しました。(花倉の乱)

今川義元は北条氏に支援を得て玄広恵探方の方ノ上城を落城させ、次いで本拠地の花倉城を攻めました。猛攻を受けた玄広恵探は敗走し、間もなく普門寺で自害しました。

花倉の乱を制した今川義元は正式に今川氏の家督を相続し、この乱で自らに忠義を示した家臣を重用し、宗家支配体制を強化していきました。

周辺諸将との同盟と抗争

今川氏は、今川氏輝の代まで甲斐の武田氏とは抗争状態にありましたが、花倉の乱で武田信虎が今川義元を支援したこともあって、1537年に武田信虎の娘・定恵院を正室に迎えて同盟を締結します。(甲駿同盟)

しかし、これに不満を呈したのが北条氏綱でした。北条氏と今川氏の間には駿相同盟が結ばれていましたが、北条氏は国境付近にて武田氏と交戦しており、その武田氏に味方する甲駿同盟の締結は、駿相同盟の破綻と見なされました。

北条氏は駿河に侵攻し、第一河東の乱が勃発しますが、遠江の堀越氏・井伊氏らと結んだ北条氏により挟み撃ちを受けて今川軍が大敗しました。この時、上杉氏が今川軍に援軍を送っていますが、北条氏綱はその扇谷上杉氏の本拠地・河越城をも攻め落とす戦功を挙げています。

1540年には尾張国・織田信秀も挙兵して三河国に侵攻し、第一次小豆坂の戦いが勃発します。この戦いでも敗北し苦境に立たされた今川義元でしたが、1541年に北条氏綱が死去して北条氏政が家督を相続すると、彼と敵対関係にあった山内上杉氏・上杉憲政と結び、1545年に第二次河東の乱を勃発させます。

武田家では1541年に武田信虎が武田信玄によって追放されるクーデターが発生していましたが、今川義元は武田信玄とも同盟関係を維持しており、第二次河東の乱でも、武田氏は今川氏に味方していました。

武田氏と上杉氏の協力を得た今川義元はこの戦いで北条氏に制圧されていた河東を奪回し、最終的に武田信玄の仲介により北条氏と和睦を結びました。

この戦い以降、今川氏・武田氏・北条氏の抗争状態は緩和していき、それぞれが領土拡大へと集中していくこととなりました。

織田氏との戦いと甲相駿三国同盟の締結

三河国・岡崎城主であった松平広忠は、家中争いがきっかけで今川義元に頼るようになっており、1545年に織田信秀が三河侵攻を開始すると、今川義元に援軍を依頼します。

今川義元は松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質とすることを条件にこれに同意し、織田氏を牽制しつつ、三河国を従属化させていきました。

1548年、織田信秀が今川氏の三河進出に対抗すべく第二次小豆坂の戦いを勃発させます。織田信秀は美濃国・斎藤道三の娘濃姫を嫡男・織田信長の正室に迎えて長らく敵対していた斎藤氏と同盟を締結しており、残す課題は三河国・駿河国方面への領土拡大となっていました。

この戦いでは、軍師の大原雪斎や重臣の朝比奈泰能の活躍もあって今川軍が大勝し、織田氏の三河進出は挫折に終わります。

その後も織田氏の三河の拠点であった三河安祥城を攻略するなど織田氏勢力を三河から駆逐していき、織田氏に奪われていた松平竹千代を奪還するなど、織田氏への攻撃を続けていきました。

1551年には織田信秀が死し、鳴海城・笠寺城を守っていた織田氏方の山口教継も今川義元に投降すると、今川家の勢力は尾張国の一部にも及ぶようになりました。

松平広忠は第二次小豆坂の戦いの後に暗殺されており、領主不在となった西三河地域は、今川義元の支配下に置かれました。

こうして領土を拡大させた今川義元は、1554年、北条氏・武田氏との間に戦国史上最強の同盟とも評される「甲相駿三国同盟」を締結し、後顧の憂いをたちます。

この同盟は、各家の当主・今川義元、武田信玄、北条氏康の娘がお互いの嫡子に嫁ぐことで成立し、今川義元の娘・嶺松院は武田義信に、反対に今川義元の嫡男・今川氏真の元には北条氏康の娘・早川殿が正室として迎えられました。

この同盟により、今川義元は新たに領土とした三河国の経営など、領内の支配体制を確立させ、抗争相手を織田氏に絞ることが可能になりました。

三河を巡る織田氏との抗争は、今川義元が有利な立場にあったもののその後も続いており、1555年には今川氏に対抗する三河国衆による大規模な反乱である三河忿劇が開始します。

鱸兵庫助が半今川を掲げて挙兵したのを皮切りに、吉良義安が織田方の水野信元と結んで挙兵、翌1556年には酒井忠尚や奥平定能、菅沼定継、松平親乗らが次々と挙兵します。

織田氏はこれらの反乱軍を支援しており、1558年に今川軍と織田軍が衝突して今川軍が勝利すると、約3年に及んだ三河忿劇が収束しました。

その結果、三河国のほとんどが今川氏の領域となり、同年今川義元は家督を今川氏真に譲って隠居し、自身は三河国経営に集中するようになりました。ここに三河国の平定がほぼほぼ完成すると、今川氏は次の目標を尾張国進出に定めます。

桶狭間の戦い

1560年、今川義元は自ら2万5千を超える大軍の指揮を執り、尾張を目指して東海道を進軍します。

沓掛城に入った今川義元は、松平元康(竹千代から元服して改名)が指揮をとる三河勢を先行させ、織田軍の砦に囲まれている大高城へ兵糧を届けさせました。大高城周辺で織田軍の砦を破った後、鳴海城へと入る作戦でした。

こうして今川軍は大高城を拠点として、周りの丸根砦・鷲津砦への攻撃を開始し、これを受けて織田信長が出陣します。この時今川義元は沓掛城に止まっていましたが、砦への攻撃が開始されたと聞くと、自身もここを出立して大高城へと向かいます。

丸根砦・鷲津砦・大高城は今川軍に制圧されますが、織田信長の軍は鳴海城を囲む善照寺砦に入り、3千ほどの軍隊を配置しました。その後桶狭間方面に今川軍の存在を察知した織田信長は、善照寺砦に500人ほどを残して桶狭間へと軍を進めました。

こうして桶狭間にて激突した両軍でしたが、今川義元は緒戦での勝利に油断し、また沓掛城や大高城などに兵力を分散しており、当初の3万程の軍勢は、桶狭間では5千から6千ほどに減少していました。

そして運の悪いことに、視界を妨げるほどのヒョウまじりの豪雨に見舞われ、織田軍はこれに乗じて奇襲を仕掛け、大将同士が刀槍をふるう乱戦となります。

今川義元は一時退却を試みますが、その途中で織田家家臣・毛利良勝によって討ち取られました。

総大将を失った今川軍は混乱して戦意を失ってついに敗北し、この戦いによって織田信長の名が全国に轟く結果となりました。

今川義元の人柄・人物像

今川義元の人柄や人物像について説明します。

公家文化に通じる

僧侶出身の今川義元は、公家文化に通じており、京都の公家や僧侶との文化交流を積極的に行なっており、戦乱により都を逃れた公家達の保護も行なっていました。

自らも公家のように、お歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたとも言われます。(後年の創作の可能性も有)

戦においても馬ではなく輿に乗って移動していた言われますが、これは足利将軍家との密接な関係を有していた今川氏が特別に許された行為であり、軟弱で馬に乗れなかったからではなく、むしろ今川家の格の高さを誇示するための行為であったとも考えられています。

後年の評価

桶狭間の戦いによる今川氏の敗戦で、時代の流れは一気に変化して、織田信長の天下取りへの道が開かれました。その結果、この戦いに破れた今川義元は、前述したように、公家文化に耽った軟弱な武将としてのイメージを持つ人が多くなっています。

幼い頃は僧侶として修行していたため武芸に優れず、馬にも乗れなかったとも言われますが、これは後年、特に江戸時代の創作による所が大きく、実際には「東海一の弓取り」の異名に恥じないだけの武芸を身につけていたと考えられます。

優れた政治手腕

武芸の面では酷評されることも多い今川義元ですが、その治世下で今川氏の領土を大幅に拡大させており、その政治手腕は非常に巧みで優れたものがありました。

1553年には、今川氏親が定めた『今川仮名目録』に21条を追加し、これにより今川氏は室町幕府の定めたルールではなく、自国のために独自に設けたルールによって領国を支配していくと対外的に宣言しました。

具体的には、この追加法の中で室町幕府が定めた守護使不入地(=幕府によって設定された領地に、犯罪者捕縛や徴税のために守護がたち入ることを禁じること)の廃止を宣言することによって、今川氏は室町幕府の後楯をもって領土を支配する守護大名でなく、自分の力で支配する戦国大名であるという立場を明確にしました。

経済政策の面では、駿河国・遠江国・三河国は石高的には決して豊かな国ではなかったために、これに変わる資金源として、安倍金山や富士金山等の金山開発を積極的に行いました。

東海道を使った物流も有効に活用しており、伝馬制度も整備して、商業を奨励しました。

このような今川義元の政治手腕は、越前国の勇将・朝倉宗滴にも高く評価されており、『朝倉宗滴話記』の中で、「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として、武田信玄や上杉謙信と共にその名が挙げられています。

今川義元の名言・エピソード

今川義元の名言やエピソードについて解説します。

『今川仮名目録追加』に記された言葉

「寄親は今川家への奉公を第一に心がけ、与力にもそう言葉かけよ」(=足利将軍家ではなく今川家のために働くことを心がけよ、部下にもそう伝えるように)

「昨日なし 明日また知らぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ」(=昨日のことを覚えておらず、明日なにが起こるかわからないような人は、今日までの命であると思え)

桶狭間の戦いにおけるエピソード

今川義元の評価を著しく低下させた桶狭間の戦いにおいては、後年の創作とも思われるエピソードが数々残っており、真実であるかのように語られています。

緒戦の勝利と圧倒的兵力差に安心しきっていた今川義元が、陣地で休憩をとって酒盛をしていた、馬に乗れなかった今川義元は戦に赴く際も戦場を離れる際も優雅に輿に乗っていたというのは有名ですが、『信長公記』には、桶狭間の戦いにおける今川義元の出で立ちについて、

「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける」と記されており、少なくとも「馬に乗れなかった」というのは創作であることがわかります。

江戸時代に記された『当代記』には、桶狭間の戦いの直前に、今川義元の夢枕に花倉の乱で破った異母弟の玄広恵探が立ち、「此度の出陣をやめよ」と告げ、これに対して今川義元が「そなたは敵。そのようなことは聞けぬ」と答えると、

「敵味方の感情で言っているのではない。当家の滅亡を案じているのだ」と続けたという話が残されています。

しかし、当時の情勢から考えれば、今川氏が勝利するだろうと考えるのが普通であり、今川義元が油断したことも決して彼の暗愚からくることと一方的に評価することはできません。

戦後、織田信長も、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったことを非常に喜んでおり、手に入れた今川義元の愛刀に、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」と刻み、また熱田神宮に「信長塀」を奉納するなど、その勝利の意義がいかに大きかったかを物語っています。

フィクションにおける今川義元

フィクションにおける今川義元を解説します。

信長の野望における今川義元

シリーズによっても異なりますが、信長の野望における今川義元のステータスは、統率85、武勇70、知略79、政治89となっています。

知名度の高い武将らしく、どの項目でも高い数値を誇り、優れた領土支配を行なった実績が反映して統率・政治では特に高数値となっていますが、やはり桶狭間の戦いでの敗戦が響き、武勇や知略の面では少し劣っています。

ドラマにおける今川義元

桶狭間の戦いは織田信長の天下統一への道を拓いた非常に重要な戦いであるため、織田信長の登場するドラマにおいては、今川義元も必ずと言っていいほど登場しています。

近年の大河ドラマでは、2006年の『功名が辻』(演:江守徹)、2007年の『風林火山』(演:谷原章介)、2017年の『おんな城主直虎』(演:春風亭昇太)が挙げられます。

この中では特に『おんな城主直虎』がそうであるように、これまでのドラマでは今川義元は公家文化に溺れた暗愚な武将として描かれることが多くなっています。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、歌舞伎役者の片岡愛之助さんが演じており、これまでとは少し違った、武将としての能力も高く勇ましい一面も併せ持つ、実力者としての今川義元像が打ち出されています。

今川義元は暗愚な敗将ではなく内実は優れた統治者だった

歴史の転換点となった桶狭間の戦いにおいて、その油断から敗北を導いたとして、今川義元は暗愚な武将として低い評価を受けることが多い人物です。

公家文化に精通していたこともその悪評に繋がっており、武将らしからぬ軟弱な人物というイメージが強くなっています。

しかし、これらの悪評は「桶狭間の戦いで敗北した、幼き日の徳川家康を人質にとった」という事実を知る後世の人間たちが、その結果だけを見て創作したエピソードによる所も大きく、実際の今川義元の統治の様子を見てみると、その政治手腕は非常に優れたものがあります。

今川家の三男であり、仏僧の修行に励み本来は家督を相続する立場になかった今川義元が、家督争いを制した後、領土を拡大させ今川家の全盛期を築いたことは、彼の優れた政治手腕無しでは成し得なかったことです。

同じ時代を生きた人物達は、今川義元について高く評価すると同時に非常に恐れていたはずであり、だからこそ桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長が天下統一への道を着実に歩み始めることが出来たと言えるでしょう。