今川氏真は義元亡き後、今川氏を存続させた文化人!蹴鞠や剣術にも長けていた?

今川氏真は今川家の第十二代当主で、「海道一の弓取り」と称された今川義元を父に持った人物です。桶狭間の戦いで織田信長に破れた今川家は大名としては没落してしまいますが、後に徳川家康の配下となり、後々の世に至るまで今川家を存続させました。

この記事では今川氏真の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。今川氏真がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、フィクションにおける今川氏真など、様々な視点から解説していきます。

今川氏真(いまがわうじざね)の基本情報

今川氏真(いまがわうじざね)は大名としての今川家の最後の当主で、権力を失って以降は北条家や徳川家を頼り、後の江戸時代まで今川家を存続させました。

また、戦国きっての文化人としても知られ、和歌集や蹴鞠、剣術などにも注力して取り組んだ人物です。

今川氏真の生涯

できごと

誕生〜家督相続

今川氏真は1538年に今川義元と定恵院(武田信虎の娘)の間に嫡男として誕生します。父の今川義元は「海道一の弓取り」との異名を持つ、東海一帯に権力を持つ有力大名でした。また近隣には甲府の武田、相模の北条など戦国に名を轟かす有力大名が割拠しており、1554年には今川氏真が北条氏康の長女・早川殿と婚姻することで、この三国による甲相駿同盟が成立しました。

また今川氏は足利一門においての名門とされ、足利宗家が途絶えた際の序列は吉良家の次に今川家という高い地位にあり、将軍家の継承権を持った特別な家柄でした。そのように足利一門の血を引き、京への関係性も強かったことから、今川氏真も早くから和歌や蹴鞠などの京文化に親しみました。駿河国を訪問した山科言継の記した「言継卿記」には、1557年に今川氏真が自邸で和歌会を開いたことが記録されています。

1558年には父の今川義元から家督を譲られ、義元は西国への軍事行動に専念し、今川氏真は駿河・遠江の政治面を中心に担当しました。

桶狭間の戦い〜大名今川の没落

1560年、尾張国へ侵攻した父の義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまいます。これを機に今川氏真が今川家を継承することになりますが、桶狭間の戦いでは義元の他に今まで今川家を支えてきた重臣と呼ばれる人物たちも多数討ち死となってしまい、残った国人の離反も相次いでいきます。徳川家康も桶狭間の戦い後に西三河地域を勢力下とし、1561年には 将軍足利義輝が和解を促しますが、今川家との断交を決め、1562年織田信長との間に清洲同盟を結ぶことになります。このことは今川家にとって大打撃となりました。同年1562年に今川氏真自らが兵を率いて徳川家康の一宮砦を攻撃しますが、これが退けられ、1564年には吉田城が開城し、今川家の勢力が三河から駆逐されてしまいました。

1568年にはそれまで今川家中を影で支えてきた祖母の寿桂尼(今川義元の母)が亡くなると、それを契機に武田信玄は甲駿同盟を解消し駿河国に侵攻(駿河侵攻)、徳川家康は遠江国に侵攻してきます。武田軍が駿河に攻めてくると、兵力差で太刀打ちができず、北条家の援軍も期待できないことから西に向けて逃亡し、本拠地今川館は武田軍によって奪われ焼き払われてしまいました。

駿河を追われた今川氏真は、裏切りが相次ぐ中でも今川家に忠誠を見せていた朝比奈泰朝が守る掛川城を頼ります。守りが固い掛川城で半年近くの籠城戦を続けますが、1569年についに徳川家康の開城要求を受け入れ、ここに戦国大名としての今川家が滅びました。

文化活動に勤しんだ後半生

掛川城を開城後は、妻・早川殿の実家である北条氏康を頼って小田原に居を移します。1571年、氏康が亡くなり氏政に当主が代わると、氏政は武田家との和睦を行ったため、今川氏真は相模を出て徳川家康の庇護下へと入りました。

家康の元に移った後の今川氏真は、以前にも増して和歌や蹴鞠などの文化活動に勤しみました。1575年には428首を収めた私歌集「今川氏真詠草」を書き記し、また、京へ上洛して旧知の公家や文化人らとも交流を育みました。なお、徳川家に従う形で軍事活動にも参加しており、武田軍との戦いや長篠の合戦後の残敵征伐などに従事しています。1576年には徳川家康から牧野城主に据えられますが、一年で解任されており、頭を剃髪して名も宗誾と改めました。その後の今川氏真は京都に移り住み、和歌会や連歌会に積極的に参加したり、古典の書写などを行ったりして過ごしました。

嫡男の範以は1607年に亡くなってしまいますが、次男の品川高久や範以の子の範英は徳川秀忠に仕え、1612年には徳川家康から近江国野洲郡の500石を安堵され、品川にも屋敷が与えられたことにより、子や孫のいる江戸に移り住みました。1615年、江戸で77歳の生涯を閉じました。

今川氏真の人柄・人物像

今川氏真の人柄や人物像について解説していきます。

卓越した芸術スキル

戦国時代の大名・武将にとって歌や踊りなど芸術的分野に精通していることは、趣味嗜好というだけではなく、今でいう接待道具のようなものでした。今川氏真は足利家の名門の血筋だったこともあって、この辺の芸術分野には若くから才能を持ち、剣術は剣の名手で有名な塚原ト伝に学んで免許皆伝の腕前を持ち、和歌は後水尾天皇選の「集外三十六歌仙」に名を連ねるほどの名人です。多くの公家や文化人らと交流も経ていた今川氏真は文化人として一流の評価を受けました。これらの公家文化を重んじることは、今川家の教育として子孫たちにも受け継がれ、これはのちに江戸時代という平和な世の中に入ってから功を奏し、徳川幕府から重宝される文化人としての今川家の地位を確固たるものにしました。

戦国の世を生き残った処世術

今川氏真は不運にも大名として成り上がることは出来ませんでしたが、運良く殺されることはなく、北条家や徳川家などで匿われ77歳の長寿を全うすることが出来ました。これには今川氏真が生まれ持った由緒正しき血筋と優れた文化人としての教養スキルを備えていたことが大きく、豊臣政権下や徳川幕府でも同様に一定の待遇を保たれ、収入を保証された所以でもありました。

大名としては家を潰した二代目という低い評価を受けがちですが、見方を変えると、得意の文化人としてのスキルを上手く活かして生き延び、お家を存続させた処世術に長けた人物であったとも言えるでしょう。

今川氏真の名言・エピソード

今川氏真の名言やエピソードについて解説していきます。

信長に蹴鞠を披露

今川氏真は、和歌や剣術など一流のプロから手ほどきを受けて育ったため、様々な分野に通じており、公家の代表的競技である蹴鞠にも才能を発揮した人物です。蹴鞠についてはその道の一流である飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱から学んだ本格派でした。1575年には、かつて父・義元を討った仇でもある織田信長から今川氏真の蹴鞠が見たいと所望され、公家たちと共に信長の前で蹴鞠を披露したという逸話も残っています。

今川氏真が詠んだ句

今川家を没落させた人物としての評価が目立つ一方、和歌や連歌などの名人として評価された今川氏真ですが、以下のような句も残されており、彼の心境を読み取ることができます。

・なかなかに世にも人をも恨むまじ 時にあわぬをを身の咎にして(もう世の中も人も恨んではいない。私自身が時代にあっていなかったのだ。これは私の身からでた罪だ。)

・なかなかに世にも人をも恨むまじ 時にあわぬをを身の咎にして(地位や名誉を失っても悔しいとも羨ましいとも思わない、ただ自分が望んでいた平和な世の中を過ごせることにとても満足している。)

戦国切っての大名だった今川家を没落させてしまったことに対する後悔は微塵も感じられない、吹っ切られた清々しい歌という印象です。今川氏真の中には名誉や権力よりも大事な物が見えていたのではないでしょうか。

フィクションにおける今川氏真

フィクションにおける今川氏真を解説していきます。

信長の野望における今川氏真

信長の野望シリーズにおける今川氏真の評価は各シリーズを通じてかなり低いものになっています。「信長の野望 創造」では、統率11,武勇23,知略2,政治61と武力面の低さが足を引っ張り、全武将中でもダントツに低い総合能力値となっています。

ドラマにおける今川氏真

ドラマにおける今川氏真は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で登場しています。俳優の尾上松也さんが今川氏真役を演じられており、蹴鞠が得意という人物設定がされています。今川の衰退に翻弄されながらも、世の中を生き残るために奮闘する姿が描かれています。

今川氏真は今川家を後世に残した戦国切っての文化人

今川氏真は父・義元の威光に隠れて低い評価を受けがちですが、文化人としての存在感は非常に強く、その得意分野を活かして、今川家を後の江戸時代に至るまで名家として存続させる功績を作った人物でもあります。

もし生まれる時代や相対する相手が異なっていれば、もっと高い評価を受けた人物であったのかもしれません。