太原雪斎は今川義元を支え東方の安定を維持し西への拡大を準備した最高軍師

今回は、現在の静岡県全域と愛知の三河地方を支配していた今川家に仕え、僧としてだけではなく、政治、外交、軍事のすべての面で優れ、今川家を支えてきた武将、太原雪斎(たいげん せっさい)をご紹介いたします。

太原雪斎の基本情報

太原雪斎(たいげん せっさい)は、駿府(現在の静岡市)に武家の家庭に生まれ少年時代から仏門で修行していたところ、今川家の要請により同家に仕えることになる。今川義元を当主にすることに尽力し今川家を全国屈指の戦国大名に導いた人物です。

太原雪斎の人生

できごと

太原雪斎の60年間の人生を大まかにわけると次の三つに分けられます。

・臨済宗の寺での修行から今川義元の教育係をしていた時代(1496~1520年代前半)
・今川家の内乱を治め義元に今川家を継がせるまでの時代(1520年代後半~1536)
・今川家を安定させ拡大していこうとした時代(1536年~1555年)

臨済宗の寺での修行から今川義元の教育係となった時代

太原雪斎は庵原城主、庵原政盛(いはらまさもり)の子として1496年駿河の庵原(現在の静岡市清水区)に生まれます。庵原家は今川家の重臣の家系でしたが、太原雪斎は嫡子ではなかったため、当時の慣習に基づき、10代で出家して駿河内にある善得寺に入山することになります。

寺では九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗りは修行を開始、その後、京都建仁寺で修行を続けました。優秀であった太原雪斎の噂は、当時の今川家の当主であり今川義元(いまがわよしもと)の父でもある今川氏親(いまがわうじちか)の耳にも入り今川家に迎えたいとの誘いを受けます。

二度、誘いを断った太原雪斎でしたが三度目の誘いを受けて今川家で仕えることになりました。一方、後に今川家を継ぐことになった今川義元も嫡子ではなく出家して仏門に入っていました。

太原雪斎と今川義元の年の差は約20歳でこの時代であれば親子くらいの年の差でした。太原雪斎は義元の教育係になるとともに、義元と二人で京都の建仁寺に入り、後には妙心寺で学識を高めていきます。

太原雪斎も今川義元も当初は僧として生きていく予定だったのです。

今川家の内乱を治め義元に今川家を継がせるまでの時代

今川義元の父、今川氏親は死後の内乱を防ぐために生前から嫡子、今川氏輝(いまがわうじてる)に家督を継がせることを決定しており、1526年氏親が亡くなると、すみやかに今川氏輝に家督が継承されました。

今川義元の兄でもある今川氏輝の時代、駿府は比較的安定した時代ではあったものの三河で松平家が勢力を伸ばしてくると今川家は三河を放棄して甲斐の武田家領内へ侵攻するようになっていきました。京で修行していた太原雪斎と今川義元を駿河に呼び戻したのも今川氏輝でした。

1536年事件が起こります。
当主、今川氏輝と継承者第一位であった弟の彦五郎が同じ日に急死したのです。ふたりの死に伴い、太原雪斎や今川氏親の正室であり義元の母であった寿桂尼(じゅけいに)たちは、義元を当主にするべく、義元を僧から還俗させ、太原雪斎は足利将軍家に承認してもらえるように働きかけました。

この動きに対して、反旗を翻したのが甲斐に隣接する東方方面で軍事力を握っていた今川家の有力勢力のひとつ福島家でした。
福島家は今川家の血を引く玄広恵探(げんこうえたん)を擁立しようとします。

寿桂尼による福島家側への説得も試みられましたが、福島家を後ろ盾にした玄広恵探は久能城で挙兵。駿府の今川家の館を襲撃しますが今川家は守り抜きます。玄広恵探は方ノ上城(現在の焼津市)や花倉城(現在の藤枝市)を拠点として今川家への攻撃を緩めることはありませんでした。

しかし、太原雪斎と今川義元は関東の戦国大名、後北条家(ごほうじょうけ)の支援を得ると、方ノ上城を落城させ、恵探の花倉城を一気に攻め滅ぼしました。
この内乱は「花倉の乱」と呼ばれています。

今川家を安定させ拡大していこうとした時代

今川義元が当主になると太原雪斎が最初に着手したのが近隣諸国との関係改善の交渉でした。北側、東側との関係を安定させると西側へ勢力を伸ばそうと動き始めたのです。

今川、北条、武田の三国の同盟の成立

・太原雪斎は先ず、関係が悪化していた甲斐の武田家とは婚姻による関係改善をすすめました。具体的に言うと、今川義元は武田信虎(たけだのぶとら)の娘の定恵院(じょうけいいん)を正室として迎え、信虎の長男晴信(後の武田信玄)は今川家と縁の深い三条家から三条の方(さんじょうのかた)を正室に迎えました。

・さらに太原雪斎は北条家と武田家に呼びかけ、1554年今川義元、北条氏康、武田晴信、3名を善得寺(ぜんとくじ)(現在の静岡県富士市)で会合させる場を設定し、三国の同盟を締結させました。この同盟は「甲相駿同盟」とも呼ばれています。

西に勢力を伸ばす基盤を作った太原雪斎

勢力を西へ伸ばしたかった今川家にとって三国の同盟で東側や北側の備えが整ったことは大きな収穫でした。今川義元が撃破しなければならない相手は豊富な財力を背景に勢力を伸ばしてきた西の尾張の織田家になりました。

織田家の当主は織田信秀、織田信長の父でした。1546年、織田信秀は松平弘忠(まつだいらひろただ)が統治していた西三河に攻め込みました。松平弘忠が救援を求めた相手が駿河の今川義元でした。要請により太原雪斎が出陣し三河田原城を落城させました。

一旦は退いた織田信秀でしたが、岡崎城の攻略を諦めませんでした。1548年、三河の額田郡、小豆坂で織田信秀軍と太原雪斎を大将とする今川軍は再び戦い太原雪斎は見事に勝利をおさめまたのです。

太原雪斎の人物像

太原雪斎はこんな人であったと伝えられています。

人物像概要

太原雪斎は秀才であり、僧としても教育者としても武人や交渉者としてもすべてに優れた人であったと伝えられています。その優秀さゆえに、今川義元の父親である今川氏親(いまがわうじちか)にスカウトされ今川義元の教育役に任じられたのです。

幼くして仏門に入った太原雪斎は仏教にとどまらず、統治する者が身につけるべき儒学の思想を理解し、また兵法も学び大名家を継ぐ者の教育者としては理想的な人物だったのです。

今川義元が今川家を継いでからは、太原雪斎は義元の全面の信頼を受け、他国との大切な交渉の場に望み、今川家が進むべき道を助言し、自身で何度も戦の采配をふるい今川家の安泰を維持し、拡大をめざしていったのです。

歴史上の人物による評価

武田家の記録によれば、武田信玄の軍師であった山本勘助(やまもとかんすけ)も太原雪斎の死後、今川家にはなくてはならない人物であったと死を惜しんだと記されています。

少年時代に人質として今川家で生活していた徳川家康も今川家の繁栄が築かれたのは太原雪斎がいたためであり、太原雪斎が亡くなった後は統治がうまくいかなくなるのは不思議ではないと語ったと伝えられています。

元々、太原雪斎は今川家譜代の武家の家に生まれており武家の生き方もきちんと理解し、教え子でもあった今川義元との関係は極めて良好でした。今川義元からは師として、また父親や兄のように慕われていたとも伝えられています。

太原雪斎が亡くなって5年後、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれることになりますが太原雪斎が存命であれば、織田信長に大敗する結果にはならなかったのではないかと現在でも語られています。

太原雪斎の名言・エピソード

この名言、お聞きになったことはありますか?

“おのれの才がたかが知れたものと、観じきってしまえば、無限に外の知恵というものが入ってくるものだ。”

太原雪斎が言ったとされる名言の一部です。意味は自分の才能はそんなにたいしたものではないと思って観察することで、限りなく外から知恵が入って来る。ということです。

この名言の前にも太原雪斎のコメントがあって、昔からどこでも、学ぼうとする人は上手にまねをしようとするからこそ、自我流になることはない。学ぼうと心がけるためにも自分の才能への執着があってはいけないとも言っています。

武士や政治家の一面だけでなく、教育者としての一面を持っていた太原雪斎だからこそ言える奥深い言葉だと思います。

フィクションにおける太原雪斎

江戸幕府を開いた徳川家康も今川家の人質時代は太原雪斎に教育を受けていたという話も伝えられています。

今川家(駿河)と織田家(尾張)に挟まれていたのが三河の松平家でした。松平家はその時勢を見て今川家と織田家とどちらにつくかを検討しなければならない状況でした。

松平家の嫡男として生まれたのが松平竹千代(まつだいらたけちよ)、後の徳川家康です。松平竹千代は8歳のときから今川家に人質に出されて18歳まで今川家で暮らすことになります。

人質と言っても松平竹千代は、将来、岡崎の松平家の継承者です。
今川義元にとっても織田信長にとっても将来は仲間に引き入れて立派な協力者になって欲しい立場の少年でした。そこで今川家が松平竹千代の教育にあてたのが、太原雪斎だと言われています。松平竹千代は、直接、太原雪斎から読み書き、そろばんから、統治者としてのありかたや武士としての戦い方なども習ったという言い伝えもあります。

太原雪斎のまとめ

嫡子でなかった太原雪斎は出家して僧になり、今川義元も僧として太原雪斎の弟子でした。

兄たちの死により今川義元が今川家の当主になると、太原雪斎は義元を助け、今川家の安泰と拡大に向かって邁進していったのです。

今川家が繁栄を獲得できたのは、太原雪斎の存在も大きく、太原雪斎と今川義元は二人三脚で時代を切り開こうとして生きたのではないでしょうか?