池田恒興の首の価値は?子の輝政は姫路城を築いた!

池田恒興は旧くから織田信長に仕えていた人物です。羽柴秀吉や明智光秀などのようなとりわけ目立った功績やエピソードがあるわけではありませんが、実力主義の織田家臣団の中で生き残り、信長の死後も織田家の旧臣として存在感を示しました。

この記事では池田恒興の生涯を年表付きで分りやすく解説します。池田恒興がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける池田恒興など、様々な視点から解説していきます。

池田恒興の基本情報

池田恒興は戦国時代から安土桃山時代に生きた戦国武将です。若いころから織田氏に仕え信長のもとでいくつもの戦に参戦します。本能寺の変で織田信長が死去したのちは羽柴秀吉に仕えました。

池田恒興の人生(年表付き)

できごと

織田信長に仕え、数々の戦に参戦

池田恒興は天文5年(1536)に織田氏の家臣であった池田恒利の子として生まれます。母の養徳院は織田信長の乳母であり、のちに織田信秀の側室となります。織田信長とは乳母兄弟の間柄になります。出生地は尾張国という説が有力ですが、美濃国・摂津国・近江国などといった説もあります。池田恒興は幼少のころから小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃侵攻などで戦い、元亀元年(1570)の姉川の戦いでは功績を評価され犬山城と1万貫を与えられました。

その後も比叡山焼き討ちや長島一向一揆の討伐にも参陣するなど、織田信長の統一事業に携わります。天正2年(1574)に美濃明知城が武田勝頼によって奪われた際は、その押さえとして東美濃の小里城に入ります。天正8年(1580)には花隈城で荒木村重と戦います。荒木村重は元は織田信長の家臣でありながら反旗を翻した人物です。池田恒興は、嫡男・元助と次男・輝政とともに花隈城を取り囲み、攻撃を仕掛けます。そして紀州雑賀勢の協力もあり、花隈城を開城させることに成功します。この功により池田恒興は摂津国有岡の地を与えられます。

信長の死後、宿老として政権の中枢を担う

天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が死去すると、中国攻めから引き返してきた羽柴秀吉と合流し明智軍と対峙します。池田恒興は5000の兵を率いて右翼に布陣します。池田恒興率いる手勢は奇襲を敢行し、明智方を混乱に陥れます。これに続くように羽柴方の軍勢が一斉に攻撃をし、明智軍を壊走させます。

山崎の戦の後は柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉らとともに織田家の宿老に列し、諸将への所領の充行状に連署しています。また京都の施政にあたり、大阪城を領します。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、参戦はしていなかったものの羽柴秀吉方に組し、美濃国内13万石を与えられ、美濃大垣城に移ります。美濃に入ったときには、美濃清水城の稲葉一鉄と領地の境界論争を起し、羽柴秀吉に裁許を仰いで和解を成立させるという出来事がありました。

小牧・長久手の戦いで討死

天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信長の次男である織田信雄が争うに至り、信雄は徳川家康に応援を求めて秀吉と断交します。池田恒興は双方の陣営から招かれますが、秀吉方に属することになります。3月13日、池田恒興は信雄方であった犬山城を奇襲し、攻略することに成功します。秀吉軍と家康軍は尾張国小牧でしばらくの間にらみ合いが続きますが、4月4日に池田恒興は秀吉に対してある献策をします。それは兵を家康の本拠である三河に攻め込み、家康の背後を突くというものでした。秀吉はこの策を採用し、池田恒興は子・元助らとともに出陣します。しかしこの行動は家康方に看過されます。池田軍と徳川軍は4月9日に長久手にて激突します。戦闘は2時間余り続き、一進一退の攻防となりますが、徐々に徳川方の優勢となっていきます。その戦闘の中で池田恒興は、徳川方の永井直勝という武将の槍を受けて討死します。またこのときに嫡男・元助もまた共に討死します。池田軍は壊滅することとなりました。次男・池田輝政は家臣に説得され戦場を離れ、戦後に池田氏の家督を継ぐこととなりました。

池田恒興の人柄・人物像

池田恒興の人柄や人物像についてまとめます。

信長の徹底した実力主義の中で生き残った!

織田信長は家臣に対して徹底的な実力主義を採用しており、佐久間信盛や林秀貞などのような旧くから仕えている者であってもしばしば追放の対象となったり殺されたりしています。そのような中で池田恒興は、初期から最後に至るまで信長のもとに仕えていました。羽柴秀吉や明智光秀などのように極めて目立った功績を残したわけではありませんが、地道に実績を重ねて、または合戦以外の面で信長の統一事業を支えていたことが伺えます。

織田氏重臣による清州会議に参列する

1582年、本能寺で信長が討たれた後に織田氏の跡継ぎや領地の分配を決めるための清州会議が開かれます。羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家というそうそうたる参加メンバーの中に池田恒興も名を連ねています。この会議で羽柴秀吉と柴田勝家間の対立が浮き彫りとなりましたが、池田恒興はこのときに秀吉に賛同する立場をとります。その後は秀吉政権のもとで活躍することとなります。

池田恒興の名言・エピソード

池田恒興の名言・エピソードについて解説します。

三河に攻め入る作戦を発案したのは秀吉?

小牧・長久手の戦いでは池田恒興が羽柴秀吉に対して、三河に攻め込むことを提案したとされています。しかし実際には、最初にそれを提案したのは秀吉であって、失敗に終わってしまったため、その汚点を隠すために“池田恒興が発案した”ということにしたという説もあります。

子・輝政は父の首の価値に異議を申し立てる!そして姫路城を建造

長久手の戦いの後に家督を継いだ次男・輝政は、父を討った永井直勝を召し出してその最後を語らせます。このとき、直勝が5000石の知行持であることを知ると、「父の首はたったの5000石か」と嘆息したといいます。輝政は家康に、直勝への加増を言上して直勝は1万石の大名になりました。

池田輝政は九州征伐や小田原征伐などの秀吉の主要な合戦に従軍し、豊臣政権の重要人物となります。徳川政権になると播州姫路の地を与えられ、現在にみえる姫路城を建造しました。

フィクションにおける池田恒興

フィクションにおける池田恒興を解説します。

信長の野望における池田恒興

シリーズによっても異なりますが、統率72、武勇72、知略39、政治61、と平均的な数値となっています。

ドラマ・映画における池田恒興

信長や秀吉を扱った作品にはしばしば登場しております。最近では2013年の映画「清州会議」では佐藤浩市さんが演じ、2014年の映画「信長協奏曲」では向井理さんが演じ、主人公信長の相棒のような立ち位置で描かれました。

池田恒興は地道に功績を積み上げた武将だった!

池田恒興は幼少のころから信長に仕えました。大きな功績や華々しいエピソードなどは見当たらないものの、入れ替わりが激しい織田信長家臣団の中に長い期間居続けたのは、地道に実績を積み重ねていたためではないでしょうか。