井伊直虎は女性でありながら、井伊家の当主として遠江国井伊谷一帯を治めた人物です。大河ドラマ『おんな城主 直虎』で主人公として取り上げられ一般的に知られるようになりましたが、実はその人物像や生涯のほとんどは未だ謎に包まれ、存在したか否かについても様々な説があり、議論されています。
この記事では井伊直虎の生涯を年表付きで分りやすく解説します。井伊直虎がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける井伊直虎など、様々な視点から解説していきます。
井伊直虎の基本情報
本名 | 井伊直虎(いいなおとら)別称:次郎法師、祐圓尼 |
生涯 | ?~天正10年(1582) |
時代 | 戦国時代~安土桃山時代 |
出身国 | 遠江国 |
居城 | 井伊谷城 |
主君 | 今川氏真→徳川家康 |
官位 | なし |
妻(正室) | なし |
子 | 井伊直政(養子) |
井伊直虎(いいなおとら)は戦国時代から安土桃山時代にいきた人物です。女性でありながら井伊家の当主として家の存続につとめました。
井伊直虎の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1536年 | 誕生 |
1544年 | 出家し、次郎法師と名乗る |
1560年 | 桶狭間の戦いで父・直盛が戦死 |
1562年 | 養嗣子として井伊氏の家督を継いだ直親が殺される |
1565年 | 還俗し直虎と名を変え、井伊氏の当主となる |
1565年 | 龍潭寺へ、直虎の黒印を捺した寄進状を発給 |
1566年 | 井伊直平の菩提を弔うために福満寺に鐘を寄進する |
1566年 | 今川氏が井伊谷へ徳政令を出すも、直虎がはねつける |
1568年 | 今川氏の圧力などにより徳政令の発動に踏み切る |
1575年 | 直親の子・直政を徳川家康に出仕させる |
1582年 | 死去 |
遠江国井伊谷の国人の一族に生まれる
井伊直虎は遠江国井伊谷城主の井伊直盛の娘として誕生します。生年は定かではありませんが、天文5年(1536)前後ではないかとされています。井伊氏は遠江国井伊谷を治めていた国人で、南北朝時代頃には既に井伊谷にいたようです。戦国時代、遠江国の大部分を治めていたのは今川氏でした。敵対していた時期もあったものの、直盛の時代には井伊氏は今川氏の配下となっていました。父・直盛には男子がおらず、従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定でした。天文13年(1544)、直親の父・井伊直満が謀反の疑いをかけられ自害、直親は武田領の信濃に逃亡します。許嫁であった直虎は出家し、次郎法師と名乗りました。直親は弘治元年に復帰して直盛の養子となりますが、一族のうちの別の女性を正室に迎えたため直虎は婚期を逃すこととなりました。
父や養嗣子の死により、女性ながら当主となる
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで父・直盛が家臣16人とともに討死します。これにより養子に入っていた直親が家督を継ぎます。しかし永禄5年(1562)に直親は、家臣の小野道好の讒言によって今川氏真によって殺されます。直虎一族にもその累が及びかけますが、母方の兄の擁護によって救われます。その後、井伊氏は主君である今川氏の命により周辺勢力の攻撃に参加しますが、その際に一族や重臣が討死してしまします。そんな中で永禄8年(1565)、次郎法師は還俗し直虎と名前を変えて井伊氏の当主となりました。
周辺大名から介入を受けるも、井伊家の存続に奔走する
永禄9年(1566)、今川氏真は井伊谷一帯に徳政令を出しますが、直虎はこれをはねつけます。これは直虎が債権主である銭主方と結託したためでした。これに対し農民は今川氏を頼り徳政の実施を迫ります。そして徳政令拒否派の直虎と、徳政令要求派に組した小野道好らとで対立が発生、これに今川氏も介入します。最終的に永禄11年(1568)に直虎は徳政令を受け入れざるを得なくなりました。
さらに同年、小野道好の専横により一時は井伊谷城を奪われてしまいますが、これに反旗を翻した井伊谷三人衆に三河国の徳川家康が加担、これにより直虎の実権は回復します。元亀3年(1572)に信濃国から武田氏が侵攻してくると、直虎は井伊谷城を明け渡し浜松城に逃れます。徳川軍はその後三方ヶ原の戦いなどで武田氏に敗れ窮地に追い込まれますが、信玄が病に倒れたことで武田軍は撤退します。直虎はその間、元許嫁・直親の遺児・虎末を養子にして育てます。天正3年(1575)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、直政は300石を与えられます。晩年は井伊谷で古くから井伊氏の菩提寺として存在していた龍譚寺で過ごしたといわれます。天正10年(1582)に死去。その後、井伊氏の家督は直政が継ぎました。
井伊直虎の人柄・人物像
井伊直虎の人柄や人物像についてまとめます。
なぜ女性なのに当主になった?
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで井伊直虎の父・直盛が戦死します。その後、養子に入っていた井伊直親が家督を継ぎますが、小野道好の讒言によって今川氏真によって殺されます。直親の子・虎松(後の直政)は当時まだ2歳と幼かったため、直虎が実質的な当主を務めることになりました。
井伊直虎は存在した?
井伊直虎という人物について、同時代の史料にはほとんど記録されておらず、その存在や性別についても様々な議論や異説があります。数少ない史料のひとつが祝田郷の有力者宛に徳政令の実施を命ずる書状で、このなかで「次郎直虎」の署名があります。「次郎法師」の名で発給された印判状も残っています。『井伊家伝記』には、“次郎法師”という人物が「女地頭」と呼ばれ、事実上の当主を務めていたと記されています。これが「直虎」が女性であったことを示す唯一の史料ですが、この文書が成立したのは江戸時代中期であり、信ぴょう性が高い史料とはいえません。別の史料では今川氏が「井伊次郎」という人物を井伊谷に送り込んで支配にあたらせたとされ、「井伊次郎」と直盛の娘である「次郎法師」は別人であるとの見方もあります。いずれの史料も断片的な記載にとどまっているため、井伊直虎の人物像は謎に包まれています。
井伊直虎の名言・エピソード
井伊直虎の名言・エピソードについて解説します。
直虎を支えた和尚・南渓瑞聞
後継者が戦死したり今川家に殺されたりして、井伊家に危機が訪れた際に、直虎を当主に推薦した人物が、龍潭寺の住職であった南渓瑞聞(なんけい ずいもん)であったといわれています。南渓瑞聞は当主となった直虎を支え、井伊直政が徳川家康に仕えるきっかけもつくりました。
その後の井伊氏は徳川家康のもとで繁栄した!
井伊直虎が当主を務めた時代、井伊氏は今川氏や武田氏といった周囲の大勢力から介入を受けたり、家臣の背信行為があるなど苦しい時代が続きました。井伊直政は徳川家康に仕えそこで多くの武功を立て、徳川四天王のひとりに数えられるまでになりました。そして関ヶ原の戦いの後は彦根城に移り30万石の譜代大名となり、江戸時代を通して幕府の中枢を務める家柄となりました。
フィクションにおける井伊直虎
フィクションにおける井伊直虎を解説します。
信長の野望における井伊直虎
あまり登場回数は多くないですが、登場しているものでは統率68、武勇16、知略74、政治76となっています。華々しい戦功がないためか、武勇の数値は低めですが、女性ながら当主を務めたことから他の数値はそこそこのものになっています。
ドラマにおける井伊直虎
2000年代に入ってから様々な小説などで取り上げられるようになりましたが、2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』で主人公として描かれて一気に知名度が上がりました。柴咲コウさんが主演をつとめました。史料が少ないため、関連する家の記録などを手掛かりにして、空想も交えて物語がすすめられました。
井伊直虎は逆境のなか、家を支えた伝説の人物だった!
井伊直虎が当主を務めた時代は井伊氏にとって苦しく、不遇な時代ではありましたが、直虎や家臣たちがなんとかその時代を耐えたからこそ、その後の井伊氏の繁栄があったといえると思います。
また、記録が少なく謎に包まれている点が多い人物ですが、わからないことに想像を巡らせるのも歴史の楽しみ方のひとつではないでしょうか。