井伊直孝は招き猫とひこにゃんを生んだ!幕末の井伊直弼との関係は?

井伊直孝は徳川秀忠・家光・家綱という3人将軍に仕え、江戸幕府の土台を固める役割を果たしました。また、井伊家が治めていた彦根には現在、ひこにゃんという人気キャラクターがいます。ひこにゃんが生まれるきっかけとなった「招き猫」のエピソードには井伊直孝が深くかかわっています。

この記事では井伊直孝の生涯を年表付きで分りやすく解説します。井伊直孝がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける井伊直孝など、様々な視点から解説していきます。

井伊直孝の基本情報

井伊直孝(いいなおたか)は駿河国出身で、安土桃山時代から江戸時代を生きた譜代大名です。

上野白井藩主、近江彦根藩主を務めたほか、徳川秀忠・家光・家綱と将軍家に代々仕え、江戸幕府の中枢を担いました。

井伊直孝の人生(年表付き)

できごと

徳川家の重臣の家に生まれる

井伊直孝は1590年に井伊直政の二男として生まれます。父・井伊直政は「徳川四天王」に数えられ、徳川家康の天下取りに大きく貢献した人物です。幼少期は上野国の北野寺に預けられ、養育されます。

1602年に父・井伊直政が死去すると、井伊家の当主の座は兄・井伊直勝が継ぎます。井伊直孝は徳川秀忠の近習として仕え、1608年に上野白井藩1万石の大名になります。

井伊家の当主として順調に出世

1615年の大坂冬の陣では、病身の兄に代わって井伊家の大将として出征します。この頃、兄・井伊直勝は家臣たちをまとめきれずにいたため、徳川家康の命令により井伊直孝が当主となり、井伊家18万石のうちの15万石を領することとなります。大坂夏の陣では大きな功績をあげ5万石の加増を受けます。

1617年にはさらに5万石を加増、1633年にも5万石加増があり、譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を持つことになります。

幕府の中枢を務める

1632年、徳川秀忠は死の間際に井伊直孝に対して、徳川家光の後見と幕政への参与を命じます。井伊直孝は幕府の最高職である大老として、老中達とともに政治を取り仕切るようになります。徳川家光の絶大な信頼を得ていた井伊直孝は、徳川家綱の元服時に加冠を務め、朝鮮通信使の応接においても幕閣筆頭としての役割を担います。また、徳川家康の命日には将軍の名代として日光東照宮に参詣する役目を務め、これは後に至るまで井伊家固有の役目となりました。

井伊直孝は1659年に死去するまで江戸に在府し、譜代大名の重鎮として幕政を主導しました。井伊直孝の死後も井伊家は幕府の中枢を務めます。大老職に就けるのは井伊と酒井・土井・堀田の4家のみとされ、井伊家からは6人もの大老を輩出しました。幕末に安政の大獄を行ったことで有名な井伊直弼も、名門井伊家の流れを汲む一人です。

井伊直孝の人柄・人物像

井伊直孝の人柄や人物像についてまとめます。

彦根藩主として

井伊直孝は幕府の中枢としてだけでなく、彦根藩制の整備にも積極的に取り組みました。「井伊直孝遺状」は家訓として歴代尊重されたほか、井伊直孝が晩年に語った言葉をまとめた「井伊直孝御夜話」・「井伊直孝公御物語」などの書物が伝わっています。

時代に先んじた、殉死禁止の命令

これまでは主君が死去すると、家臣もそれを追って腹を切ることが美徳とされていました。そして、殉死した者の子孫はそれにより優遇されるなどの措置が各藩で行われていたため、殉死は増加傾向にありました。しかし、殉死によって優秀な人材が失われるなどの弊害も発生していました。井伊直孝は死の間際、家臣を呼び寄せて自らが死んだのちに後を追って殉死することを禁じ、次世代へ奉公をしていくよう命じました。井伊直孝の死後に武家諸法度でも殉死の禁止が定められ、井伊直孝が時代の流れを的確に読み取る、合理的な考え方の持ち主であったことが窺えます。

井伊直孝の名言・エピソード

井伊直孝の名言・エピソードについて解説します。

大坂の陣での赤備え同士の対決

井伊家の兵は、井伊直孝の父・井伊直政の時代から「赤備え」部隊を編成しており、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いでも「井伊の赤鬼」と呼ばれるほど活躍しました。1614年の大坂冬の陣で井伊直孝は、井伊家の大将として大阪城の南側にある八丁目口の攻略を任せられ、赤色の甲冑を身にまとって戦に臨みます。一方その付近で大阪城方として参戦していたのが真田信繁(幸村)でした。真田家もまた赤備えを導入しており、徳川家康を一泡吹かせて、真田の名を天下に轟かそうとしていました。ここに赤備え部隊同士が相対することになります。井伊直孝は、突撃を敢行しますが真田軍の巧みな戦術にってしまい、500人の死者を出す失態を演じてしまい、赤備え対決に勝利することはできませんでした。

井伊直孝は、翌年の大坂夏の陣では先鋒を務め木村重成と長宗我部盛親を打ち破り、大阪城の山里郭に籠っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し自害に追い込むなどの功績をあげ、冬の陣での雪辱を晴らしました。

招き猫とひこにゃん

ある日、井伊直孝が江戸で鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺の前を通りかかると、猫が手招きしているのが見えます。それにつられて境内に入ると、その途端に激しい雷雨になり、井伊直孝は危うく難を逃れます。雨宿りの最中にその寺の和尚と話し、昵懇の仲になった井伊直孝は、その寺を井伊家の菩提寺として整備します。この寺が東京都世田谷区にある豪徳寺です。豪徳寺では、猫の手招きのおかげで寺が栄えたということで、招猫堂が建てられます。これが「招き猫」の始まりであるとされています。

また、エピソードをモデルにしてつくられたのが彦根市のゆるキャラの「ひこにゃん」です。なお、ひこにゃんがかぶっている兜は井伊の赤備えで用いられた様式をモデルにしており、その点でも井伊家とのゆかりが深いキャラクターです。

フィクションにおける井伊直孝

フィクションにおける井伊直孝を解説します。

信長の野望における井伊直孝

シリーズによっても異なりますが、統率77、武勇75、知略59、政治76となっており、平均的な数値となっています。

ドラマにおける井伊直孝

大河ドラマで頻繁に取り上げられる時代と言えば戦国時代ですが、井伊直孝にとってその時代は元服もしていない頃でした。それもあってか、井伊直孝がドラマに出演する機会も多くないようです。

井伊直孝は将軍に信頼され、江戸幕府の礎を築いた

井伊直孝は長年にわたり将軍の側近を務めました。名家の出身というだけでなく、兼ね備えた実力によって出世の階段を上っていきます。時代の流れを的確に読み取り、合理的な政策をうち出していくことで、江戸幕府繁栄の礎を築きあげました。