井伊直政の逸話や赤備えについて!政治的な能力も高かったのは本当?

徳川家康の重臣の井伊直政。実は徳川四天王の1人ですが、軍事面だけでなく政治的な能力の評価されています。彦根藩の初代藩主としても知られており、幕末には大老:井伊直弼も輩出しています。今回は井伊直政の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

井伊直政の基本情報

井伊直政の人生

できごと

今川氏の家臣の家に生まれる

井伊直政は、1561年に今川氏家臣であった井伊直親の嫡男として生まれました(幼名は虎松)。当時の井伊家当主:井伊直盛は今川義元に仕えていましたが、桶狭間の戦いで戦死しています。父:井伊直親は、1562年に今川氏真に謀反の疑いをかけられて、殺害されています。

当時、虎松はわずか2歳だったため、井伊直盛の娘にあたる次郎法師が井伊直虎を名乗り、井伊家の当主になりました。虎松も今川氏に命を狙われますが、新野親矩(今川氏家臣)の元で養育されますが、1564年に新野親矩は討ち死にしてしまいます。

その後は、新野親矩の一族に養育されますが、1568年に武田信玄が駿河に侵攻した際、命を狙われたこともあり、出家しています。1575年に徳川家康に見いだされ、井伊氏に復することを許されます。名を「井伊万千代」と改め、徳川家康の小姓に取り立てられています。

徳川家康の重臣として活躍

万千代は高天神城の戦いなどの武田氏との戦いで戦功をあげています。1582年、22歳で元服して井伊直政と名乗ります。同年に起こった本能寺の変では、徳川家康の伊賀越えを助け、天正壬午の乱では徳川方の使者として、北条氏との講話交渉を行っています。

徳川家康が、武田の旧領:甲斐・信濃を併合した際は、武田の旧臣たちを自部隊に加え、徳川家康の命により武田の軍法を引き継ぎました。これが「井伊の赤備え」と呼ばれています。1583年には、松平康親の娘(徳川家康の養女):花(唐梅院)と結婚しています。1584年の小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになりました。

1586年10月に徳川家康が豊臣秀吉に臣従すると、11月には従五位下に叙位され、豊臣姓を下賜されています。1590年の小田原征伐では夜襲をかけて、小田原城内に攻め込んだ武将としてその名を知られています。徳川家康が関東地方に国替えされると、上野箕輪12万石の領主に任命されています。これは徳川家家臣の中では最も多い石高でした。

1598年には箕輪城を廃し、和田城を改築のした上で高崎城と改名して新たな居城としています。

彦根藩の開祖になる

1600年の関ヶ原の戦いでは、松平忠吉と共に先陣を務めています。関ヶ原では足に大けがを負うも、戦後は西軍の総大将だった毛利輝元との交渉を務め、周防・長門の2ヵ国が安堵された毛利輝元からは起請文が送られています。

その他、島津氏との和平交渉や真田昌幸・信繁(幸村)の助命にも尽力しています。これらの功績により石田三成の旧領:近江佐和山18万石を与えられています。徳川家康は西国の抑えと、非常時に朝廷を守るために井伊直政を佐和山に配したとも伝えられています。

1602年、井伊直政は彦根城築城途中に佐和山城で死去しました(享年:42歳)。その後、彦根城が完成すると、佐和山藩(18万石)は廃藩となり、新たに彦根藩(30万石)が置かれ、以来彦根藩は明治時代まで井伊藩の藩として栄えました。

井伊直政の人柄・人物像

井伊直政の人柄や人物像について紹介したいと思います。

美男子だった?

井伊直政の容姿ですが、「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」という記録が残っています。美男子として知られた存在で、徳川家康が豊臣秀吉に臣従する前、人質として送られてきた大政所(豊臣秀吉の母)や侍女たちが、惚れ込んだとも言われています。

また、井伊直政は徳川家康の寵童だったと言われており、自邸の庭近くに井伊直政の家を作らせて、折を見て通っていたとも言われています。

他武将からの評価

毛利家の小早川隆景は、井伊直政の政治・外交手腕について「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評しています。これは井伊直政がその気になれば、天下をとることができるということを意味しています。他の地方の武将たちも同じようなことを噂していたとも言われています。

関ケ原の戦い後に、肥前の鍋島勝茂は「井伊直政の作法や容姿や勢いが、言葉にも述べられないほど見事であった」と評価しています。また同僚の本多忠勝とは度々比較されることが多かったため、仲が良くなったとされ、榊原康政とは徐々に打ち解けるようになり、徳川家康の関東入り後は2人で行動する機会が増えたとも言われています。

酒井忠次は、井伊直政に対しては温かい目で見守っていたとされ、徳川家康は生前の井伊直政の働きについて「幕府を開くにあたっての一番の功労者」であると語ったと、江戸幕府編修の系譜集に記録されています。

井伊直政の名言やエピソード

井伊直政の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

恐妻家だった?

井伊直政は負けず嫌いな性格でしたが、正室:唐梅院に対しては頭が上がらなかったと言い、唐梅院の侍女が井伊直政の子供を妊娠したと知ると、その侍女を父である印具徳右衛門に帰してしまったというエピソードもあります。

この子供が後の井伊直孝にあたり、6歳までは母の元で育ち、後に井伊直政に引き渡されました。しかし、井伊直政は箕輪のとある庄屋に預け、養育を託しています。これは唐梅院のことを気にしてのことだと思われます。12歳になった井伊直孝は、父:井伊直政と対面を果たしますが、翌年に井伊直政は亡くなっています。

井伊直弼も井伊直政の子孫

井伊直政の死後は、家督は長男:井伊直勝が相続します。しかし、病弱だったため、徳川家康の命で井伊直勝は分家して上野安中藩主となっています。井伊家は弟:井伊直孝が継承し、以降は直孝の家系が井伊家を継承していきました。

幕末の大老:井伊直弼は、13代藩主:井伊直中の十四男として生まれたため、当初は家督を相続する予定はありませんでした。しかし、兄などの死により彦根藩の後継者とななっています。

フィクションにおける井伊直政

フィクションにおける井伊直政について、紹介したいと思います。

信長の野望における井伊直政

能力値ですが、統率:89、武勇:89、知略:76、政治:80、となっています。イメージ的には軍事面で活躍するタイプですが、内政面でも活躍できそうな能力になっています。

ドラマにおける井伊直政

ドラマでの井伊直政は、取り上げられています。ただ、評価の高さの割には、知名度がイマイチな感じがして残念なところもあります。

徳川四天王の中では一番若い

徳川家康の家臣の中で筆頭格なのが、「徳川四天王」と呼ばれる四人の重臣たちです。一番の古株は酒井忠次で、徳川家康が幼少期に今川義元の元へ人質として赴く際にも同行しています。本多忠勝は「家康に過ぎたるもの」とも称されるほどの猛将で、生涯において57回合戦に及ぶかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

榊原康政は、武勇においては本多忠勝に劣ると言われていますが、指揮官としての能力は高かったとされています。井伊直政は他の3人よりも若く、徳川家康に仕えたのも一番最後ですが、軍事面だけでなく政治的な能力の高さも評価されていますので、智勇兼備の武将と言っても良いでしょう。