北条氏康は武力・外交・内政で優れた人物だった!酒についての逸話も紹介!

北条氏康は、戦国時代に関東一円で大きな勢力を誇った後北条氏の第3代目の当主です。当時、関東における古くからの勢力であった山内・扇谷両上杉氏を追い、周辺の諸大名・豪族を服属させるなど、勢力の伸長を積極的に行いました。また、武田氏・今川氏と三国同盟を結んだり、時には上杉氏と同盟を結ぶなど、時と場合に応じて巧みな外交戦略を展開しました。また、領国内では検地制度や税制などの整備を行い、北条氏の勢力を確固たるものとしました。

この記事では北条氏康の生涯を年表付きで分りやすく解説します。北条氏康がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける北条氏康など、様々な視点から解説していきます。

北条氏康の基本情報

北条氏康(ほうじょううじやす)は相模国出身の武将です。後北条氏第3代目当主として、関東一円を支配しました。

北条氏康の人生(年表付き)

できごと

北条氏の第3代当主として各地で戦を仕掛ける

北条氏康は永正12年(1515)に北条氏綱の子として生まれます。享禄3年(1530)に小沢原の戦いで初陣を飾り、奇襲作戦を用いて上杉朝興の軍勢を破ります。天文6年(1537)には扇谷上杉氏の本拠となっていた河越城を攻略、このころから北条家の家督を相続すべき人物として父・氏綱とともに政務に関与し始めます。天文10年(1541)、父・氏綱が死去したことにより後北条氏第3代当主の座につきました。天文14年(1545)には今川義元との間で駿河の富士川以東の土地をめぐり争います。関東管領上杉憲政が今川と結んだため、氏康は危機に陥りますが、武田晴信(信玄)の斡旋により講和が成立。危機は免れますが、駿河国の富士川以東の土地を失うことになります。翌15年(1546)に山内・扇谷上杉氏が河越城を包囲すると氏康はその救援に向かいます。城内に立て籠もった北条綱成と連携して攻城軍に奇襲をかけこれを打ち破り、扇谷上杉氏を滅亡させます。この河越夜戦は、桶狭間や厳島の戦いとともに三大紀奇襲に数えられています。この戦により北武蔵の武将らを北条氏に服属させることになりました。

関東一円の支配を確立する

天文20年(1551)には上野の平井城を攻め、翌年に関東管領・上杉憲政を越後国守護代長尾景虎(上杉謙信)のもとへ走らせます。天文23年(1564)に氏康は駿河に軍を進めますが、このときに今川義元の軍師をつとめていた太源雪斎の斡旋があり、氏康・今川義元・武田晴信が駿河国善徳寺で会見を行います。これにより三国同盟が成立しました。氏康はその後、関東における経略に専念します。ここから数年は検地の実施や、税制・伝馬制の確立などを行っています。永禄2年(1559)に家督を息子・氏政に譲ります。この年から長尾景虎が上杉憲政を擁して関東へ侵攻を始め、氏康は抗戦をします。永禄4年(1561)には小田原城へ侵攻を受けますが、退けました。

外交政策により勢力の安定を図る

桶狭間の戦いで今川氏が弱体化してくると、三国同盟の均衡が崩れ始めます。永禄11年(1568)に武田信玄は駿河に侵攻をします。北条氏政も駿河へ出兵、武田軍と対峙します。氏康は徳川氏と密約を結び、武田氏と対抗する姿勢をみせ、最終的に武田軍を駿河から撤退させます。これにより駿河国東部が北条氏のものとなりました。三国同盟が破たんが決定的になると、永禄12年(1569)6月、足利義輝らの手によって北条・上杉氏の間で相越同盟が成立します。上杉氏との同盟は関東諸大名や豪族らの反発を招き、武田氏の関東進出を促します。武田氏は武蔵国に攻め入りさらに南下、10月には小田原城を包囲します。氏康は籠城戦を行い、武田方も小田原城攻略の意図は無かったため、4日後に撤退を開始します。氏康は撤退する武田軍の追撃を試み、両軍は三増峠で激突します。当初北条軍は合戦を有利に進めますが、武田軍別働隊が高所から奇襲を仕掛けると武田軍に形勢が傾き、結果的に武田軍は撤退を許します。

武田氏による駿河国への圧迫が行われるなか、氏康は中風を患い、元亀元年(1570)に死去しました。

北条氏康の人柄・人物像

北条氏康の人柄や人物像についてまとめます。

後北条氏の最繁栄期を築く

もともと室町幕府の要職の家柄だった伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を本拠として始まった後北条氏は、2代氏綱の時には相模国・武蔵国にまで勢力を伸ばしていました。氏康の代になると、関東における古くからの勢力であった扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を関東から追い出すことで、上野国など北関東への領土拡大を進めました。

後世に繋がる諸制度の整備を行う

北条氏康は支配域内の広範囲で検地を実施し、その結果を基礎に税制改革を行いました。また公定枡の設定・貨幣制度の確立・伝馬制の確立など、後世の豊臣政権や江戸幕府に通じるような諸制度の整備を同時代の大名たちのなかではいち早く成し遂げました。これにより関東における北条氏の支配体制を強固なものにしていきました。

北条氏康の名言・エピソード

北条氏康の名言・エピソードについて解説します。

虎の印判で業務効率化を目指す

北条氏康は自らが発給する文書の多くには虎の印判を使用しました。当時の他の戦国大名は花押を用いることが多かったですが、氏康は行政の効率化の観点から印判の利用を主としていました。

酒は朝に飲むのが良い?

氏康は家臣に対して、酒は朝に飲むよう勧めたといいます。これは、寝る前の飲酒は二日酔いなどの失敗に繋がりやすいが、朝であれば深酒することもなく適度な勢いをつけるのにも有効である、ということからだったようです。酒を飲んで仕事をするなど、現在の私たちにはなかなか真似できるものではありませんが、既成の概念にとらわれずに自分に合った合理的な判断をするという点では見習うべきなのかもしれません。

フィクションにおける北条氏康

フィクションにおける北条氏康を解説します。

信長の野望における北条氏康

シリーズによっても異なりますが、統率95、武勇70、知略88、政治97となっています。全体的に高い数値ですが、内政において様々な実績を残したことから、政治の数値がとても高くなっています。

ドラマにおける北条氏康

北条氏康をメインに扱ったドラマはあまりないですが、武田信玄を扱ったドラマでは登場することがあります。最近では2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」で登場しました。

北条氏康は文武に優れた戦国大名だった!

北条氏康は武力面では関東一円を支配下に置き、外交面では甲駿相三国同盟、内政面では豊臣政権や江戸幕府に連なるような制度を敷くなど、華々しい実績をいくつも残しました。先代までの北条早雲・氏綱が固めた土台の上に、氏康が立派な建物を築きあげたともいえるでしょう。