北条早雲の旧姓と、信長の野望での能力値は?大河ドラマにはまだ未登場!

下克上の代表人物とされる北条早雲ですが、近年は浪人出身ではなく、名門出身という説が有力となっています。今回は北条早雲の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

北条早雲の基本情報

北条早雲の人生

できごと

北条早雲の出自について

北条早雲は、浪人から大名にまでのし上がった下克上の代表例とされる人物だと言われています。しかし、最近の研究では北条早雲は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考え方が主流のようです。

北条早雲が生まれたのは、備中荏原荘(現:岡山県井原市)という説が有力です。北条早雲の父:伊勢盛定が、室町幕府政所執事:伊勢貞親と共に、8代将軍:足利義政の申次衆として重要な位置にいたことも明らかになっています。なので、北条早雲は決して身分の低い浪人ではありません。

若い頃は、荏原荘で過ごしたとされ、北条氏の家臣:大道寺氏・内藤氏・笠原氏も備中から出ています。

今川家の内紛を調停

1467年に応仁の乱が勃発すると、今川義忠(駿河守護)は東軍に加わっています。今川義忠は伊勢貞親の元をしばしば訪れており、その折に伊勢盛定とも親しくなったと考えられています。それが縁で北川殿(北条早雲の姉)と今川義忠が結婚したと考えられています。

北条早雲が浪人とされていたころは、北川殿は側室だと言われていましたが、伊勢氏は今川氏と家柄では遜色がないことから、近年では正室だったと見られています。1473年に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んでいます。

京都で北条早雲は、足利義視(足利義政の弟)に仕えていたとされていますが、1467年以降は、足利義視は西軍に走っています。北条早雲は「伊勢新九郎盛時」として1481年から文書に現れるようになり、1483年には、9代将軍:足利義尚の申次衆に任命され、1487年には奉公衆となっています。

また、幕府に出仕している間に禅を学んでいました。1476年に今川義忠が戦死すると、後継者問題が浮上しました。これは龍王丸側には不利な状況となりました。

北条早雲は駿河に赴き調停を行い、「龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすること」で決着させています。今川氏の家督争いを収束させると、北条早雲は京都に戻り、再び幕府に出仕しています。しかし、龍王丸が成人しても、小鹿範満が家督を返上しようとしないので、1487年に北条早雲は再び駿河に赴き、兵を起こして小鹿範満を殺害。

2年後に龍王丸は元服し、今川氏親となり今川家当主となりました。北条早雲は恩賞として興国寺城を与えらています。これ以降は駿河に留まり、甥にあたる今川氏親を補佐し、駿河守護代の地位にあったとも考えられています。この頃には、幕府奉公衆の小笠原政清の娘と結婚し、1487年には嫡男:北条氏綱が誕生しています。

伊豆討ち入り~小田原城奪取

当時の関東は、鎌倉公方と関東管領が争っており、幕府は関東管領に加担し、鎌倉公方の足利成氏は、古河城に逃れ「古河公方」を称します。代わりに幕府は足利政知(足利義政の異母兄)を送りますが、鎌倉に入ることができなかったため、「堀越公方」を称するようになりました。

1494年に堀越公方の足利政知が没すると、長男:茶々丸が継母と弟(潤童子)を殺害するという事件が起こります。茶々丸は素行不良で廃嫡の危機にありましたが、この出来事により事実上の堀越公方となりました。

このころ、9代将軍:足利義尚が亡くなり、足利義稙(当時は義材)が10代将軍になっていました。そんな中、1493年に管領:細川政元は足利義稙を追放し、清晃(潤童子の同母兄)を擁立し、清晃は還俗し11代将軍:足利義澄となりました。

潤童子は茶々丸に殺害されているので、足利義澄にとって茶々丸は弟殺しの仇になります。そこで足利義澄は茶々丸と領地が近い北条早雲に「茶々丸討伐」を命じたとされています。これを受け、北条早雲は茶々丸を襲撃し、堀越公方を滅亡に追い込みました(伊豆討ち入り)。

以降、北条早雲は伊豆で善政を敷き、1498年に伊豆を平定しています。1495年には小田原城を奪取し、1516年には三浦氏を滅ぼし、相模を平定しています。1518年には家督を嫡男:北条氏綱に譲り、1519年に死去したとされています(享年:64歳、88歳説もあります)。

北条早雲の人柄・人物像

北条早雲の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

領民想いだった?

戦国時代は各地で戦争が起こっていたため、領民にとっては領主が変わるたびに年貢の税率が変わることもしばしばでした。そんな中、北条早雲は自身の領地である相模・伊豆で「四公六民」・「徳政令」の2つの政策を実行しています。

内容は「四公六民=10の米俵のうち、4を年貢で治め、6を農民の取り分にした」、「徳政令=災害や飢饉によって年貢を納められない農民に対して一時的な免除した」というもので、他の大名は「五公五民」や、「七公三民」という大名もいましたので、「四公六民」は領民に優しいものでした。

豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏(後北条氏とも呼ばれる)が滅亡し、領地は徳川家康に与えられますが、領民は北条氏の善政が懐かしく、徳川家康の治世に馴染むのに時間がかかったとも言われています。北条氏が北条早雲以降、5代100年にわたって関東で発展したのも、この善政が基盤となったのかもしれません。

用心深かった

北条早雲は、「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」という家訓を作っています。主に①神仏への崇拝、②主君への奉公の仕方、➂文武の鍛錬法、④礼儀作法、➄友人の選び方、⑥大工修繕の方法、などについて書かれています。

中でも、「家に帰ってきたら必ず垣根が壊れていないか確かめる」といった些細なことも書かれているので、下克上のイメージの強い北条早雲にしては、用心深い性格だったのかもしれません。

北条早雲の名言・エピソード

北条早雲の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

二本の杉をかじるネズミ

ある日、北条早雲は「ネズミが2本の大きな杉の木をかじって倒すと、そのネズミは大きな虎になった」という夢を見ました。この2本の杉は、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)で、ネズミは子年生まれの北条早雲のことを指していたようです。

この夢に演技が良いと思った北条早雲は、自身の花押(手紙の最後に押すハンコのようなもの)は虎模様にしたと言われています。

子・孫も名将だった

北条早雲を初代とすると、2代目が嫡男:北条氏綱でした。実は北条氏を称したのは北条氏綱からだとされています。北条氏綱は父の跡を継いで、領地を相模・伊豆から、武蔵半国・下総の一部・駿河の一部にまで拡大させています。

1541年に北条氏綱が亡くなると、嫡男:北条氏康(北条早雲の孫)が跡を継ぎ、3代目となりました。北条氏康は駿河の今川義元と、山内上杉家・扇谷上杉家の勢力に挟み撃ちに合うという危機に陥りますが、甲斐の武田晴信(信玄)を介して、駿河の一部を割譲することで今川家と和解しています。

その後、攻め寄せてきた両上杉軍と古河公方の連合軍8万を、わずか8千で破っています(河越夜戦)。以後は関東地方全域に勢力を広げ、武田信玄や上杉謙信と渡り合った武将としても知られています。

フィクションにおける北条早雲

フィクションにおける北条早雲について、紹介したいと思います。

信長の野望における北条早雲

信長の野望における能力値ですが、統率:97、武勇:69、知略:98、政治:105と、かなり能力は高いです。ただ、活躍したのが1400年代から1500年前半なので、通常シナリオでは登場しないでしょう。おそらくはボーナスステージ・ボーナス武将としての登場になるように思えます。

ドラマにおける北条早雲

北条早雲が取り上げられたドラマは、意外にも少ないです。北条早雲や北条5代を大河ドラマにするという動きもあるようです。

北条早雲と執権北条氏との関係は?

北条早雲は先にも書きましたが、素浪人ではなかったという説が最近では有力のようです。北条早雲を初代とする北条氏は、「後北条氏」とも呼ばれています。これは鎌倉幕府の執権:北条氏と区別するためとも言われています。

今のところ、子孫だとか血縁関係だったという情報はありませんが、これから研究が進み、新たな発見があることを期待しています。