北条氏綱は一代にして相模国の実質的な支配者としてのし上がった北条早雲の嫡男であり、後北条家2代目当主を務めました。
父・北条早雲と息子・北条氏康の間に挟まれた北条氏綱は、彼らと比較すると知名度の点でいささか劣りますが、後北条氏の関東支配の基礎を築いた、政治手腕に優れた武将です。
この記事では北条氏綱の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。北条氏綱がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける北条氏綱など、様々な視点から解説していきます。
北条氏綱の基本情報
本名 | 北条氏綱(ほうじょううじつな) |
生涯 | 長享元年(1487)〜天文10年7月19日(1541年8月10日) |
時代 | 戦国時代 |
出身国 | 相模国 |
居城 | 韮山城、小田原城 |
主君 | 今川氏親→今川氏輝 |
官位 | 従五位下 左京大夫 |
妻(正室) | 養珠院 |
子 | 北条氏康、北条為昌、北条氏尭ほか |
北条氏綱(ほうじょううじつな)は相模国出身で、戦国時代を生きた武将です。
はじめは今川氏親とその子・今川氏輝に仕えましたが、河東の乱で今川氏と敵対した以降は独立し、主君を持つことはありませんでした。
北条氏綱の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1487年 | 誕生 |
1518年 | 北条早雲が隠居し、家督を譲り受ける |
1523年 | 名字を北条へと改める |
1524年 | 高輪原の戦いで扇谷上杉氏に勝利する
江戸城、岩付城、蕨城を攻略 |
1525年〜1531年 | 岩付城を巡って扇谷上杉氏・武田氏らと争う |
1535年 | 山中の戦いで武田氏に勝利する |
1537年 | 河越城、葛西城を攻略
河東の乱が勃発 今川氏と争う |
1538年 | 第一次国府台合戦で勝利する |
1541年 | 死去 |
家督の相続と改姓
1487年、北条氏綱は北条早雲の嫡男として誕生します。1512年、25歳頃には北条早雲の後継者として小田原城に在番しますが、この頃はまだ父・北条早雲が実権を握っていました。
1518年、北条早雲の隠居により家督を相続し、1519年に北条早雲が死去すると、北条氏綱は実質的な為政者となります。
北条早雲が大森氏から奪った城であった小田原城を本城に据え、1523年には、これまで名乗っていた「伊勢氏」から「北条氏」へと改姓します。
当時、相模国の守護は扇谷上杉氏であり、勢力では上回っていたとは言え、関東に侵攻して領国を支配した北条早雲一族は、旧来の勢力から「他国の逆徒」と呼ばれていました。北条氏綱は、このイメージを払拭する為に、関東で絶大な知名度と好感度のあった、鎌倉時代の支配者「北条氏」の名を語ることにしたのです。
扇ケ谷上杉氏との抗争
北条氏への改姓の効果もあり、北条氏綱は相模国・武蔵国の国人を次々と家臣団に組み入れて行きました。
こうして外見内実ともに相模の支配者となった北条氏綱は、守護・扇谷上杉氏から警戒されます。1524年、当主・上杉朝興は、長年敵対していた山内上杉氏と和睦した上、甲斐国の武田信虎とも結び、北条包囲網を形成します。
これを受けた北条氏綱は、1月に武蔵国に攻め込み高輪原の戦いを起こします。この時、扇谷上杉氏家臣・太田資高を調略して寝返らせ、彼が守っていた江戸城を奪取します。一進一退の攻防の末、北条軍が勝利し、扇谷上杉氏は河越城へと敗走するのでした。
続いて、江戸城を拠点としながら、2月には岩付城、蕨城、毛呂山城と攻略していきます。しかし、上杉朝興も態勢を整え直し、1531年までに蕨城・毛呂山城・岩付城を奪回されます。その間も上杉朝興は外交政策を維持し、真里谷武田氏・長尾氏・安房国の里見氏と、味方を次々と増やしていきました。
しかし、1533年、里見氏家中で内紛が起こったことで、北条包囲網から里見氏が脱落します。さらに、真里谷武田氏でも内紛が続き、扇谷上杉氏の勢力が衰えます。1537年には上杉朝興が死去し、これをチャンスと見た北条氏綱が反撃を開始、ついに河越城を攻略しました。
1538年には葛西城も攻略すると、扇谷上杉氏の拠点はわずかに松山城と岩付城を残すのみとなりました。
今川氏との対立
一方、北条早雲の頃から主従関係にある今川氏とは友好関係が保たれており、1533年には当主・今川氏輝の要請で山中の戦いに出陣して武田信虎と争い、武田信虎の弟・武田信友を討取る武功を挙げています。
しかし、1536年に今川氏輝が死去すると、その後継を巡って今川家中で花倉の乱と呼ばれる騒動が勃発します。この争いに勝利して当主となった今川義元が、武田信虎の娘を娶って甲駿同盟を成立させると、これに激怒した北条氏綱は今川氏と対立します。
1537年、ついに河東の乱へと発展し、以後10年にも渡る北条対今川の全面戦争が開始します。この戦いにより、富士川よりも東の駿河国地域が、北条氏綱の手中に落ちることになりました。
関東管領に補任、足利御一門へと出世
1537年に河越城を攻略したことで下総国へも進出出来るようになった北条氏綱は、古河公方と小弓公方の対立に介入していきます。
古河公方の足利晴氏は北条氏綱に「小弓御退治」を命じ、1538年に小弓公方・足利義明、これに味方した里見氏と戦います。(第一次国府台合戦)2万もの大軍を率いた北条氏綱はこの戦いに大勝し、その功労により足利晴氏から関東管領に補任されます。
ついに、関東の正式な政治者としての地位を手に入れ、更に1539年には娘が足利晴氏の正室となり、「足利氏御一門」の身分も与えられるという大出世を果たした北条氏綱でしたが、2年後の1541年、病によって死去しました。55歳でした。
北条氏綱の人柄・人物像
北条氏綱の人柄や人物像について説明します。
家臣団の編成と城郭ネットワークの構築
後北条家では、在地の武士など、身分の低い者が奉公衆や評定衆などの重職に抜擢されることも多々ありましたが、その端緒を成したのが北条氏綱でした。特に若者の才能を見抜くことを得意としており、北条主力部隊・五色備えの黄備え隊を率いた勇将・北条綱成などがその代表例としてあげられます。
また、関東の大半という広大な領域を支配下に入れた北条氏綱は、その管理のために「支城制」という画期的な制度を構築します。郡や領という単位で支配の拠点となる城を設けてネットワークを作り出し、重臣達を城主に据え、その地域の支配や軍事動員を行わせることで、その土地毎にあった正確で迅速な支配を可能にしました。
八王子城、鉢形城がなどがその代表例として挙げられます。
このような画期的な制度を構築させた北条氏綱は、後世『北条記』において、「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と高く評価されており、非常に優れた政治手腕を有する頭脳明晰な人物であったことが分かります。
虎の朱印に込められた願い
1518年に家督を相続した北条氏綱が使用し始めた虎の朱印には、「禄寿応穏」と掘られており、その意味は「人民よ、皆平和に暮らそう」となります。
この虎の印判がない徴収命令は無効と定めたことで、いくら郡代や代官による命令であっても背いて良いことになり、違法な搾取から百姓・商人達を守りました。
また、検地を行なって税負担を明確に定め直し、戦国時代でも稀に見る低い税率を引いてこれを維持し続けたため、百姓や商人達から大いに歓迎・支持されました。
後述する北条氏康への訓戒状の中でも、領民を大切にせよと述べており、北条氏綱が領民想いの優れた領主であったことが分かります。
北条氏綱の名言・エピソード
北条氏綱の名言やエピソードについて解説します。
鶴岡八幡宮の修復
1532年から死去するまで、1526年に戦火によって焼失していた鶴岡八幡宮の再築事業に取り組んでいます。1540年には上宮正殿を完成させ、大規模な落慶式が催されました。
鶴岡八幡宮には、北条氏綱奉納の「奉納八幡宮御宝殿、北条左京大夫平氏綱、天文七戊戌年八月二日、所願成就、皆命満足」と刻られた太刀が現在でも保存されています。
1521年から1527年にかけては、寒川神社宝殿や箱根神社宝殿、伊豆山権現の再建と、鶴岡八幡宮の他にも、寺社造営事業を盛んに行なっています。その背景には、相模国の支配者としての信頼を得たいという政治的目的もありましたが、同時に北条氏綱の信心深さも伺えるものとなっています。
この精神は北条氏康にも引き継がれて、後北条氏は代々数々の社寺の修復・再興を行なっています。
北条氏康への訓戒状
晩年、体調を崩すようになった北条氏綱は、嫡男・北条氏康に向けて「五箇条の訓戒状」を書き記します。幼い北条氏康は、虫も怖がるほどの弱気な少年であり、彼を立派な後継者として育てたいという父親の顔が伺えます。
一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。
フィクションにおける北条氏綱
フィクションにおける北条氏綱を解説します。
信長の野望における北条氏綱
シリーズによっても異なりますが、北条氏綱のステータスは統率95、武勇79、知略93、内政94、外政84となっています。武勇だけ多少数値は下がるものの、優れた領国支配を行なった史実通り、統率や内政などで非常に高い数値を誇っています。
ドラマにおける北条氏綱
これまで、北条氏綱が目立って登場したドラマはあまりありませんが、2007年の大河ドラマ『風林火山』では、俳優の品川徹さんが演じています。名将・北条氏康の父親として、五箇条の遺訓を残して死去する様子が描かれました。
北条氏綱は政治基礎を構築した理想的な2代目だった
小田原城の本拠地化、北条氏への改姓、支城制の構築、積極的な人材登用と、北条氏綱はその生涯に渡って優れた政治手腕を発揮し、父・北条早雲が確立した相模国支配を盤石なものとしました。
さらには扇谷上杉氏・今川氏という強大な勢力とも争い続け、その支配域を伊豆国・相模国から関東全域へと大幅に拡大させた勇猛な武将の面も持ち合わせています。
下克上をなしとげた父・北条早雲と、甲駿相同盟を締結し関東八州の覇者となった息子・北条氏康に勝るとも劣らぬ活躍をした北条氏綱は、まさに繁栄の基礎を築いた理想的な2代目であると評価できるでしょう。