細川政元は事実上の最高権力者となった男!圧巻の能力値や比叡山焼き討ちとは?

細川政元は室町幕府の守護大名で細川家第12代当主として活躍した武将です。当時の足利10代将軍の義材を追放し政権を掌握して、実質的な最高権力者にまで上り詰めた「半将軍」とも呼ばれた人物でした。

この記事では細川政元の障害を年表付きで分かりやすく解説していきます。当時の最高権力者とまで言われた細川政元がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームなどフィクションにおける細川政元など、様々な視点から解説していきます。

細川政元の基本情報

細川政元は室町時代後期〜戦国時代前期を行きた大名です。

室町幕府管領として莫大な権力を持って世の足利将軍さえも手中に納め、実質的最高権力者としてその力を誇りました。

細川政元の人生

できごと

生誕から応仁の乱終結まで

細川政元は1466年、細川勝元の嫡男として誕生します。父の細川勝元は室町幕府の管領として強大な権力を持ち、戦国時代への移行の原因ともなった応仁の乱を引き起こし、東軍総大将にもなった人物です。

そのような状況下で生まれた政元ですが、1473年には応仁の乱の最中に父勝元が病死してしまいます。細川政元はわずか8歳で家督を継ぐことになり、分家である細川政国の支援を受けながら、丹波・摂津・土佐の守護に就任することになりました。

1474年には応仁の乱で西軍側の総大将であった山名宗全の息子である山名政豊と和睦を結ぶことに成功し、ここに10年に渡って続いた応仁の乱が終結します。

1478年には13歳で元服し管領職を命じられますが、わずか9日間で辞職します。翌年1479年には細川家臣内の争いが勃発したことが原因で、一時丹波国に幽閉されるなど苦難の少年時代を過ごすことになります。

クーデターによる政権奪取、京兆政権の確立へ

1489年、9代将軍の足利義尚が病没し、細川政元は時期将軍候補に足利義澄を推挙し、政権争いに食い込もうとします。しかし、足利義尚の母であった日野富子や畠山政長に阻まれる形で、義尚の従弟であった足利義材が10代将軍に就任することになり実質の政権は畠山政長が握られてしまいます。その結果に納得がいかなかった細川政元は徐々に幕府から距離を置いていきましたが、一方で水面下では大和国、丹波国、そして応仁の乱を共に終結させた山名政豊を味方につけ畿内を中心に自身の権力化を拡大し、来たるときに備えて準備を整えいていました。

1493年、そんな細川政元の元に転機が訪れます。将軍義材は畠山家の後継者争いを沈めるため、畠山政長と共に畠山義豊討伐に乗り出しますが、細川政元はその内乱に乗じてついにクーデターを決行させます。

このクーデターで状況を好転させた細川政元は時期将軍に足利義澄を擁立し、畠山政長を自害に追い込むと畠山家は勢力を失い、将軍義材を解任することに成功しました。1594年には足利義澄の11代将軍就任と同時に自身も管領職に就任し、実質的な幕政を細川家が牛耳る傀儡政権(京兆制)を実現します。

この戦いは明応の政変と呼ばれ、管領職が将軍を挿げ替えるという初めての例を作り、足利幕府の弱体化を進め、後の戦国の世へと繋がる下克上の風土を作ることになりました。

勢力強化と後継者争いへの発展

明応の政変後、前将軍の足利義材は越中へ逃亡し亡命政権を樹立すると、比叡山延暦寺を味方につけて挙兵します。そのことを知った細川政元は1499年に赤沢朝経、波々伯部宗量に命じて比叡山延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行いました。この焼き討ちで延暦寺は主要伽藍のほとんどが焼き落ちるという被害を受けます。

その後も勢いに乗った細川政元は大和国へ攻め込み、畠山政長の子である尚順や国人衆も打ち破って大和北部まで勢力下を広げることに成功しました。

一方で細川政元が抱えていた問題は自身の後継者問題でした。独身で子もいなかったため、1491年には九条政基の子である澄之を養子に迎え、その後澄之に丹後守護職まで与えていましたが、1503年には新たに細川一門から澄元を迎え家督相続を約束してしまい、澄之を廃嫡にしようとします。その結果、澄之派と澄元派の家中対立が生み出されました。

1507年、家督相続問題が日に日に増していった結果、細川政元は澄之派であった家臣によって入浴中に襲われ、42歳の若さでその生涯を終えることになりました。

細川政元の人柄・人物像

細川政元の人柄や人物像について説明していきます。

幼い頃から評価されていた能力

細川政元の幼名は聡明丸といういかにも頭の良さそうな名前でしたが、その名前の通りの非常に聡明な子であったことが逸話で残されています。1473年、父である細川勝元が応仁の乱中に倒れてしまい、その臨終の場で勝元は「この子(政元)がいれば細川家の将来は安泰だ」と言い残して亡くなりました。細川勝元は応仁の乱で東軍を率いた総大将でもある名だたる人物ですが、そんな人物が太鼓判を推したほど当時からその優秀さが垣間見えていたことがわかります。その後も若くしてその能力を遺憾無く発揮し、30歳を迎える頃には幕府の実質的政権を握るほどの人物へと成長していきました。

稀代の変わり者の一面

細川政元は政務能力に非常に優れた能力を持っていた一方で大変な変わり者でもありました。

彼が夢中になっていたものは修験道という山伏や修行僧が山へ籠もって厳しい修行を行うものでした。陀羅尼を唱え、飯綱の法や愛宕の法という妖術の類の山岳信仰にものめり込んでいたようで周囲に理解されないような奇行を数々行なっていたと伝えられます。また同性愛者だったという噂もありますが、妖術に魅せられたためなのか、女性関係も断つと自ら女人禁制を宣言し生涯独身を貫きました。そのことが後々の後継者争いと自身の死へと繋がっていくことにもなります。

細川政元の名言・エピソード

細川政元の名言・エピソードについて説明していきます。

「いつか天狗になって空を飛びたい」

前述の通り細川政元は修験道にはまっていたことがわかりますが、ただストイックに自分を追い詰めるのが好きだった訳ではありませんでした。本気で天狗になることを夢見ていたと言われる信憑性のあるエピソードが、細川政元が鞍馬寺に籠もって山伏と共に修行を行ったと残されており、この鞍馬寺は源義経が幼い頃に天狗と修行をしたと伝えられる場所だったからというものです。このことから「天狗になりたい」という言葉にもかなりの真剣度合が含まれていたことが伺えます。

また様々な妖術を身につけていたとも言われており、細川政元の邸宅周辺で生首が浮いていた、怪鳥が飛んでいたなどの目撃談が飛び交ったという逸話も残されています。

戦よりも妖術が大事

1507年、勢力拡大を図っていた細川家は丹後の一色家で起きた跡目争いに乗じて領地を奪取しようと一色義有の居城である今熊野城を攻めに養子である細川澄之と澄元を派遣します。戦いは一進一退を極めますが、ついには細川政元自身が出陣し状況が優勢に傾いてきました。

そんな勢いにのった最中、細川政元は突然「奥州へ修行の旅に出たい」と言い残し陣を去って行ってしまいました。さすがの息子二人や細川陣営はショックを受けて、その後の戦意もままならず困り果て、細川政元自身はというと山伏姿で丹後周辺の山をうろつき回るという有様でした。

この出来事でついに見切りをつけられたのか、その後京に戻された細川政元は入浴中に味方からの暗殺を受け、非業の死を遂げました。

フィクションにおける細川政元

フィクションにおける細川政元を解説していきます。

信長の野望における細川政元

細川政元が信長の野望に登場するシリーズはわずかですが、信長の野望「蒼天録」では統率31、知略96、政治99、義理36、野心99と実際のイメージに近い有能な政務者としての高い能力値となっています。

ドラマにおける細川政元

1994年に放送された日野富子の生涯と応仁の乱を描いたNHK大河ドラマ「花の乱」で俳優の今井雅之さんが細川政元役で出演されています。

細川政元は突出した能力で幕府を支配した時代の権力者

細川政元はその類い稀な政務手腕で傀儡政権を築き「半将軍」とも呼ばれた時代の覇者でありました。その勢いは凄まじく織田信長よりも早く比叡山延暦寺を焼いた男、そして細川家を日本の最大勢力にまで引き上げた人物でした。

一方で奇行とも言われたほどの変わった人物でもあり、本気で天狗になれると信じ修行に打ち込む姿や女人禁制を守り続けた意思の強さからは、どこか異なる世界が彼の目には見えていたのかもしれません。

その姿はまるで室町時代を終わらせ、下克上が蔓延る戦乱の世に変えてしまった天狗のような存在であったと言えるでしょう。